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人間ヴェルディ:彼の音楽と人生、そしてその時代 (4)

著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子

出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年


第一部


目次

第一章:ロンコレ村 (1813〜23年;0〜10歳)
第二章:ブセット町/その1(1823〜29年;10〜16歳)
第三章:ブセット町/その2(1829〜32年;16〜18歳)

第四章:ミラノ市 (1832〜33年;19歳)
ミラノ市はオーストリア帝国直轄王国の首都。その政治的重要性。劇場の数々。ミラノ音楽院。ヴェルディ不合格!。その理由は?バレッツィ氏の寛大な決断。ヴェルディはラヴィーニャ教授から個人的レッスンを受ける。プロヴェージ氏没す。
【翻訳後記]私のミラノ訪問

(順次掲載予定)
第五章:ブセット町の音楽長職を巡っての抗争(1833〜36年;19〜22歳)
第六章:音楽長(1836〜38年;22〜24歳)
第七章:ミランで戴冠式とオベルト初演 (1838〜39年;24〜26歳)
第八章:当時のオペラ・スタイルと一日だけの国王(1839〜40年;26歳)
第九章:本人が語ったナブッコ初演までの様子 (1840〜42年;26〜28歳)

第4章: ミラノ市


ミラノ市はオーストリア帝国直轄王国の首都

ヴェルディが初めてきた1832年のミラノ市は、北イタリア地方で一番繁栄した、そして最も重要な都市だった。ロンバルディア・ベネティア王国の首都で、国王はオーストリア帝国の皇帝、フランツ1世だった。彼はミラノ在住の帝国総督を通して治世した。その高い格式により、ミラノはルッカ公国とか、近隣のパルマ、モデナ公国などの小国、さらにはトスカーナまでに対して、威力を及ぼしていた。そしてローマ法王が必要な時には、軍を出して護衛する構えで、お陰で、法王は1831年の革命未遂事件の後、無事法王領の領民を再支配できた。ピードモント・サルディニア王国のサヴォイ家のお膝元の首都、トリノだけは、ミラノが北イタリアの政治的中心とは見ていなかった。

ミラノはまた、芸術において、近隣国を圧倒していた。文学ではマンゾーニがいた。偉大な詩人、ジャコモ・レオパルディについては、彼はフィレンツェか、ナポリを好んだようだが。しかし、音楽においては、イタリア中において、最高峰に位置すると誰もが認めた。1820年ごろから、有名な音楽家たちがミラノに引き寄せられていった。特に町の中心にあるスカラ座は、劇場として象徴的存在だった。その名前、スカラ、‘階段’は、現在の所在地にあったヴィスコンティ家の実力者の夫人が1381年に建てたサンタ・マリア・アラ・スカラ教会の名前から、来ているのであって、‘階段’とは関係ない。

ポー川流域を真ん中にした北イタリアの地形

その政治的重要性

オーストリア帝国政府はミラノの愛国的イタリア人たちの気を、政治的な葛藤から逸らせるため、スカラ座には金銭的援助を惜しまなかった。その思惑は最終的には失敗したが、この劇場での公演はヨーロッパで最高だった。劇場の記録によると、例えば1824年1月24日、「劇場内は人の姿はなし、ボックス席は閉鎖され、人影はなし」と、記載されている。「失敗に終わった革命事件で囚われた政治犯たちの判決が明日発表になることで、多分それに関わったミラノの貴族階級の家族もいるからだろう」。そして二日後、「静寂と残酷な悲しみが劇場の内外を包む」とある。

劇場の数々

ミラノにはスカラ座以外にも劇場がいくつもあった。イタリア語の方言問題もあり、音楽はそれ自体共通言語であることから、一般に戯曲より好まれた。ということで、劇場ではオペラが多く上演された。カノッビアーナ劇場は1779年から1860年代後半まで、100年間近く、オペラとバレエを絶え間なしに上演した。ドニゼッティの今でも人気のある「愛の妙薬」は、1832年5月に、ここで初演された。ヴェルディがミラノに来た1ヶ月前だ。もっと有名なカルカノ劇場は1803年に建てられた。ドニゼッティの「アンナ・ボリーナ」は1830年に、ベルリーニの「ラ・ソンナンブラ(夢遊病の女)」は1831年に、この劇場で初演されている。ここの音響効果は当時最高とされていた。同じ建築家が1796年に建てテアトル・レの方は、どう言うわけか、音響効果がよくなかった。ヴェルディのフォスカリ家の二人は1846年にこの劇場で上演、同じ年、彼の他の三つのオペラは、カルカノ劇場で上演された。その他、もっと上演するものに特化した劇場もあった。例えば音楽院とつながっている音楽院劇場とか、交響楽団劇場とか。

ミラノ音楽院

音楽院自身は1807年、ナポレオンの法令により、創設された。その当時のイタリアの多くの学校と同様、基本的にこれは人気取りの慈善事業の一環だった。したがって、ほとんどの学生は奨学金生で、寄宿舎に住んだ。収容人数は限られていて、特別の事情以外は、年齢は14才以下と綱領で定められていたので、皆若く、優秀で、良い教授団も揃って、イタリアで一番の音楽学校だった。

首都としての重要性と、ミラノ独特の活動は盛んであったが、ヨーロッパの標準からいくと、ミラノはまだ、驚くほど小さく、遅れた都市だった。1832年の人口は15万人にも至らず、工業は皆無で、鉄道も走っていなかった。興ってきた産業も、隣接の小国間とのいくつもの境界や関税に悩まされていた。イギリス、フランス、米国からの訪問者たちは、自国政府が広大な土地と、統一言語を持って大規模に統治しているのに対し、イタリアの政治形態は全く時代遅れで、永久に不安定に見えた。しかし、このイタリア半島全域で時代遅れの政治体制を堅持し、統一を阻止しようとしているのは、オーストリア帝国、ブルボン家、バチカン政府だった。18年後の1850年でも、ミラノは主要鉄道網に繋がっていなかった。それに比べ、イギリスでは東海岸と西海岸を結ぶロンドンーグラスゴー線に、縦に走る線が連結されていた。英国の人口は当時イタリア国と同じ2千5百万だったが、海外貿易は5倍だった。1850年のイタリアで、人口20万を超える都市は、乞食が多いことで知られたナポリのみだった。パリはといえば、すでに人口百万都市で、音楽の都として、イタリアからロッシーニ、ドニゼッティ、ベルリーニを惹きつけた理由は明らか。ヴェルディが来た1832年のミラノは、チャーミングで躍動的ではあったが、狭い道路に、城壁、城門のある基本的に18世紀の都市だった。

プロヴェージはカルロ・ヴェルディと彼の息子と一緒にミラノに行き、ヴェルディをアレサンドロ・ローラという年配の音楽家の中でイタリアで最も著名な音楽院の教授に紹介した。ローラは1757年にパヴィアで生まれ、若い頃はパルマで活動し、1782年から1802年までの20年間、そこのオーケストラを率いたので、プロヴェージを知っていたのだ。そこからミラノに行き、1802年からスカラ座で、オペラの指揮者としての名声を得る。彼は作曲もし、バレエ、歌曲、それにヴィオリンとビオラのためのコンチェルトを含む弦楽器の種々の曲を書いた。最後の二つの楽器の専門家で、パガニーニも彼について勉強した。1808年、創立されて間もない音楽院の、ヴァイオリンとビオラの教授に任命され、入学試験委員会にも入った。もし彼がヴェルディの才能に気づき、関心を持ったなら、これほどにいいスポンサーはないとプロヴェージは考えた。

プロヴェージがローラ教授と旧交を温めている間、ヴェルディと父親は市内観光をした。カテドラル、いくつかの劇場、音楽院の周り、プラザや大通りなど。両者とも都会を観るのは初めてだった。バレッツィはヴェルディの普通学校の教師、ドン・ピエトロ・セレッティの甥、ジョセッぺ・セレッティの家に彼を泊めてもらうよう計らった。この甥も教師で、サンタ・マルタ通りの19番(1943年の爆撃で完全に破壊された)に住んでいた。数日後、ヴェルディをローラ教授に紹介した後、彼をセレッティに預けて、プロヴェージとカルロ・ヴェルディはブセットに戻った。

ヴェルディ不合格!

ヴェルディの音楽院への入学願書は、歳のことで複雑だった。彼は18才で、学院の年齢制限より4才も歳をとっていた。それを乗り越えるには、彼は例外的な資質を見せなければならなかった。例外は学院の規則の10条に、はっきりと認められていた。彼の入学審査は2部門に分かれ、オーディションと正式な請願書だった。面白いことにオーディションの方が先で、彼はヘンリ・ヘルツのカプリチオをピアノで弾き、もう1曲は自作の曲を弾いたか、または提出した。その後すぐに彼は請願書を、ミラノの帝国総督宛に1832年6月22日付けで書いている。その中で、彼は自分の歳について、特別の資質があれば、学院規則でも例外が認められていることをまず指摘、その他、オーディションで音楽院に相応しい才能を示すことができたことを希望するとして、入学が許可されれば、音学院に授業料を払う学生として、‘自分の音楽の勉強を完うする’ことを希望すると書いた、ところが、説明なしで、願書は拒否され、ヴェルディは音楽院に入学できなかった。

その理由は?

願書に対する正式な回答は、ローラからプロヴェージに送られたが、説明もコメントもなかった。ローラは何も関わっていなかった様子。ヴェルディは、ここで資質が十分ではないと判断されたことで、一生、自分は並外れた才能ではなかったと理解したようだ。何年も経ってから、ヴェルディの家に招かれたある人が、この時の音楽院からの回答が丸められて、外側にヴェルディの手書きで、「不合格」と書かれたのを見たと報告している。

この短い言葉に、押し込まれた苦悩の震えが感じられる。バレッツィやマルゲリータに何と報告したのだろうか?彼は心の中で、ブセットの友人や取り巻き連にどう言われていると思ったか?そして、最後に、実践的に考えて、彼は今何をすべきか?

ローラは彼に個人教授で勉強することを勧め、ラヴィーニャとネグリの二人を薦めた。間違いなく、ローラは親切だったが、彼は76才で、旧友のあまりぱっとしない若い弟子のために走り回る歳ではなかった。ローラは入学試験委員会のメンバーなのだから、拒否された理由くらい、調べても良いところだが、彼はそれもしなかったし、1841年に死ぬまで、ずっとミラノに住んでいたにも関わらず、ヴェルディの面倒をみた記録は全くない。

それから100年間近く、この「不合格事件」は、学者ぶった教授連が、芽が出始めた天才の才能に気づかず、鼻であしらった、典型的「驕りの例え話」となり、ヴェルディもそう考えたようだ。彼が拒否された年に、音楽院は彼より1才若いバスの声楽家志望の青年を、声帯は14才までに育たないからという理由で入学を許可している。ところが、ヴェルディの研究者、カルロ・ガッティは、1931年初版の評伝の中で、この驕りが原因説は間違っていることの証拠を発表。彼は当時の帝国総督のオフィスと、音楽院の入試委員会との、何回かの手紙のやりとりの記述を古文書の中に見つける。それによると、委員会は、ヴェルディはとても才能がある、多分並外れた資質の持ち主だったとしているが、ピアノ演奏については、手の置き方が間違っていたこと、彼がいい作曲家になるだろうということが記されていた。問題だったのは、音楽院はすでに定員オーバーで、ヴェルディはパルマ公国の人間で、外国人、それに年齢も過ぎている。こうした理由で、委員会は例外を認めなかった。不幸なことは不合格の通知に、理由が書かれていないかったこと、そしてローラも調査もしなかったから、プロヴェージ、バレッツィ、それにヴェルディ自身に知らされなかったことだ。それでなければ、あれほどの苦痛と苦悩は、多少避けられただろう。何十年後かに、音楽院がヴェルディに敬意を表して、音楽院の名前にする話が持ち上がった時、彼が「彼らは若い自分をはねた。今更歳をとった自分に、とり入ることはできない」と批判的に語ったことが、公になっている。(註釈(by MH):現在この音楽院には彼の名前がついている。法律上故人から許可をとる必要がないため)

バレッツィ氏の寛大な決断

当時のアーティストが、現代のそれに比べ、繊細でなかったということはない。さらに当時は電話も電報もない時代だから、その苦悩の時間はもっと長かっただろう。ミラノとパルマやブセットの間の郵便は週に2回で、手紙の往復には8日から10日かかった。その間セレッティはもちろん、ヴェルディを慰め、勇気づけただろうが、ヴェルディにとって、一番聴きたかった、または一番重要な声はバレッツィからのものだっただろう。彼からの手紙は残っていないが想像はつく。ヴェルディがミラノに残る理由は以前に比べ、弱くなったことはない。彼はローラが薦める音楽家のどちらかから個人レッスンを受け、セレッティ家に下宿する。これには、多分予定したより2倍の費用がかかるだろうと思われたが、バレッツィは心配するな、必要経費は全部出すと言う。ヴェルディが音楽院の休暇中にも勉強を続けることで、全体の費用を下げることも可能。不合格は彼にとって、非情な打撃だったが、再起不可能にはならない。ミラノ音楽院で勉強しなくても成功した人はいるから、ヴェルディだって! ブセット町では、彼は皆から好かれていたので、この苦境に彼らは同情し、特にギータに同情が集まった。

バレッツィに慰められ、保障され、ヴェルディはミラノに居残ることになった。バレッツィの崇高と言えるこの決断について、彼は一生涯、忘れたり、過小評価したりすることはなかった。

バレッツィ氏とマルゲリータ

ヴェルディはラヴィーニャ教授から個人レッスンを受ける

ローラが薦めた2人の教授のうち、ヴェルディはヴィンチェンゾ・ラヴィーニャを選び、レッスンはすぐに始まったが、その濃度密度には、暗黒の必死さが感じられる。ラヴィーニャとセレッティは、ヴェルディの勤勉そのものの就学ぶりと、品行の良さについて、バレッツィと慈善基金協会へ報告をしている。セレッティはブセットの連中が心配したような、大都市で起こりそうな堕落問題は全くないことを強調している。彼の性向がどうであろうと、彼の品行の良さは、彼の勤勉さの当然の結果だった。彼は毎日12時間から14時間勉強したから、堕落する時間などなかった。堕落するには、時間とエネルギーが必要。さらにお金も必要。ヴェルディはどれも持ち合わせていなかった。

それから18ヶ月の間、彼は勉強とオペラハウスに行く以外、何もしなかった。バレッツィはラヴィーニャの助言で、ヴェルディにスカラ座のシーズン切符を買ってやった。ヴェルディはそれ以外にも、カルカノ劇場とキャノビアーナ劇場に定期的に通った。彼は貸本でオペラの楽譜を借り、観る前と後に勉強し、バレッジから贈られたピアノで弾いてみた。このピアノは現在スカラ座ミュージアムに展示されている。この期間中、ヴェルディはラヴィーニャとセレッティ以外に、話す相手もいなかったようだ。ヴェルディが音楽院に行けなかったことで、損をした点は、音楽院での授業そのものよりも、この孤独な環境だった。彼は一人で音楽を創造した。彼はそれをする自己鍛錬力を備えていた。しかし、学生同士の付き合いから、刺激や批評があるのは、いいことで、ヴェルディには完全にそれが欠けていた。

教師のラヴィーニャのいい点も悪い点も、結果としては、幸運にもヴェルディに優位に働いた。ラヴィーニャは当時67才で、ナポリのピエタ音楽院で勉強したが、キャリアはミラノだった。1809年スカラ座の伴奏者で、コーチになった。1823年に音楽院の講師に任命された。彼は作曲もし、オペラ10作、バレエ曲2点を作曲している。彼の一番人気があったオペラは一番初めの「愛の交換」で、スカラ座で1803年に初演された。劇場の実践者だった彼は、ヴェルディの意向に合っていて、弟子になるべく多くのリハーサルや公演を観るようにアドバイスした。幸いにも、彼は完璧な音楽教育を受け、訓練された音楽家でもあったので、彼はヴェルディにパレストリーナから始め、声楽曲のパートの分け方、フーガ、カノンの勉強を、来る日も来る日もやった。かっこいい内容はなく、練習、練習が続いた。これはブセットで自由に、気の向くまま、批評もなしで作曲してきたヴェルディが、一番必要としていることだった。ラヴィーニャは批評好きで、彼の趣味はモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を分析批評することだった。毎朝彼はヴェルディを迎え入れると、「では前奏曲とフィナーレを再度研究してみよう」と言ったらしい。ヴェルディの後年、モーツァルトは彼の好きな作曲家の一人ではなかった。

ラヴィーニャに欠点があるとすれば、それは彼の好みが時代遅れだったこと。彼が一番好きな作曲家はパイジェルロ(1740~1816年)だったが、彼のオペラは最後の一作を除いて、皆18世紀に作曲された。彼の一番有名なオペラは1782年の「セビリアの理髪師」(ロッシーニが33年後に同じ台本に作曲)で、広くメキシコからロシアまで上演され、歴史上初の世界的に人気が出たオペラだったとも言える。パイジェルロのオペラは現在でも時折上演され、それなりに成功している。ラヴィーニャがパイジェルロを好んだことは、彼は音楽家として趣味がよかった証拠。ヴェルディは後年、彼について、こう語る:「自分が作曲した交響曲のオーケストレーションを、彼は全部パイジェルロ流に直した。これはなかなかいいと自分に言い聞かせたが、それ以後、3年間一度も自作曲を彼に見せないで、毎日毎日、カノンとフーガなどの勉強をした。誰も管弦楽法やドラマティックな場面の作曲法を教えてくれなかった」と。しかし対位旋律法、つまり、一つの音に対して、一連の音を繋いでメロディを作る方法については、ラヴィーニャは優れていたとヴェルディは言っている。彼のオペラにそれが反映されている。もちろん、全てのオペラにそれが同じように反映されるなどあり得ない。しかし、一番の駄作オペラの、最もさえない音符ですら、それに続く音は、目的とスキルによって、決められなければならないのだ。

ヴェルディの場合、ラヴィーニャが前世紀のスタイルを好んだことは、そう不幸ではなかった。天才の才能を伸ばすにおいて危険なこと、または天才のオリジナリティをダメするのは、歳いった先輩が次の世代の目的とスタイルを理解している、またはしていると信じて、助言、方向付けをすることだから。であるから、バレッツィのようにお金だけ出して、あと、アーティストの好きにさせるのが、一番良いパトロンだということは、時代を通じて証明されている。その点において、ヴェルディとラヴィーニャの間に混乱はなく、ヴェルディの音楽には、彼自身の特異なものがある。

ラヴィーニャはレッスン料をとって、音楽学の指導をしたのだが、彼はそれ以上のことを、ヴェルディにしてあげた。何週も経っていくうちに、彼がヴェルディを気に入ったのは確かで、そして、気がついたことは、彼の孤独な日常だった。それを少しでも軽減するため、彼は夕方によくヴェルディを家に招き、一緒に食事をしたり、友人に紹介したりした。ラヴィーニャの友好サークルは派手ではなかったが、ミラノの有名音楽家の何人かも含まれていた。そこでの会話は文化の香り高く、熱がこもっていた。ヴェルディは少しずつ、貴重な知り合い関係を作り、また彼が最も必要としていた社交礼儀を学ぶチャンスになった。彼の服装については、彼自身でどうしょうもなかった。体にあっていなかったし、多分アイロンがかかってなかった。彼自身、自分はむさ苦しい格好だったと言っている。彼は礼儀正しかったが、それは一つにシャイさからきていて、唐突で不器用だった。そしてお世辞などは全く言えなかった。それで彼は、いつもしてきたように、静かに座って、黙って話に聞き耳をたて、会話を聞きかじったが、何も知らない人は時々、彼を変な目でみただろう。そんな彼を全く重要でないと蔑視した人々は、間違っていたが、ラヴィーニャ自身、真実のところがわからなく、多分彼は夜ベッドで、頭を振って悩み、時には、このブセットからの田舎者について絶望的になっただろうと思われる。

ヴェルディは後年になっても、その時の練習シートを捨てず、きちんと筒に巻いて、作曲家別に並べていた。それを見ると、彼はコレリ(1653~1713年)のソナタとコンチェルト、ハイドン(1732~1809年)の弦楽四重奏曲と交響曲、モーツァルト(1756~91年)とベートーベン(1770~1827年)の多種にわたる作品、それにメンデルスゾーン(1809~47年)の初期の室内楽曲も勉強していた。もちろん、彼はイタリアの初期の偉大な作曲家、パレストリーナ(1525~94年)とマルチェロ(1686~1739年)の声楽曲も勉強した。彼はミラノに来た1832年の秋から、スカラ座で間違いなく、メルカダンテ(1795~1870年。イタリアのベートーベンと言われた)のオペラ、ドニゼッティ(1797~1848年)、コチア(1782~1873年)、ルイジ・リッチ(1805~59年)のオペラを観ているはず。これら作曲家の年代を見ると、当時のイタリアン・オペラのレパートリーの新しさが分かる。20世紀にはすでに死んだ作曲家の作品で成り立っている「スタンダード・レパートリー」というコンセプトは当時存在しなかった。ヴェルディがスカラ座で観たオペラは、どれも新作オペラだった。それが理由で、彼はロッシーニ(1792~1868年)のオペラを観ることができなかった。というのは、ロッシーニの最も有名なオペラ「ウィリアム・テル」は1829年に作曲され、1831年にルッカとフィレンツェで上演されたが、オーストリア帝国はその政治的な要素を警戒して、ミラノとヴェニスで上演禁止にした。スカラ座ではロッシーニの古いオペラを再上演する代わりに、次の新作オペラに期待したが、「ウィリアム・テル」がロッシーニの最後のオペラとなったから、スカラ座公演はなかったのだ。

プロヴェージ没す

1833年7月、ヴェルディはプロヴェージが亡くなったことを、ブセットからの手紙で知らされる。彼はこの教師に一年も会ってなかった。最後は病身で痛みを伴った体で、ヴェルディと父親とともに駅馬車に乗ってミラノまできて、ローラを紹介したときだった。バレッツィ氏は別として、プロヴェージは少年ヴェルディに、全力で良い音楽家になるようチャレンジし、実際に導いてくれた恩人だった。その恩人が亡くなってしまった。早すぎた。ヴェルディのオペラの上演も、歌曲の出版ですらまだで、彼がヴェルディの能力に抱いた確信は証明されないまま、彼は逝ってしまった。

ヴェルディは葬儀に行かなかった。行く時間もお金もなかったから。従って、彼はブセットからの手紙で、プロヴェージの友人たちが募金をして、壮大な葬儀をしてあげたことを読んだ。ヴェルディは彼の一番弟子として、また友人として、葬儀のための音楽を選択し、コーラスのリハーサルができなかったことを悔やんだ。死という真の感情的ショックを、アーティストは他の人より早く体験することが多い。また彼らの先生が最愛の友人いうことも多く、先生は彼らよりもずっと歳をとっていることから、先立つ場合も多い。

次の月、8月にはヴェルディの妹、ジョセッパがロンコレ村で亡くなったことを知る。これでヴェルディは両親の一人残った子供となった。ミラノから彼らの元に行って慰めることはできなかった。彼ができることは、それまで以上に猛烈に勉強することだった。

【翻訳後記】  私のミラノ訪問

この写真の絵はスカラ座ミュージアムにあったもの。アンジェロ・インガンニによる「スカラ劇場」という絵画で制作年は1852年とあった。

こちらが2021年9月の様子で、劇場は第2次大戦中爆撃を受け、かなり損傷したが、1952年には元通りに復元されたので、外観は19世紀の頃とあまり変わっていない。横の道は現在ヴェルディ通りと呼ばれる。角の壁にある”Via Giuseppe Verdi”という道標が拡大すると読める。

スカラ座はオーストリア・ハンガリー帝国のマリア・テレジア女帝時代の1778年に建設された。席数は約3000。どういう経緯で建設になったか不明だが、モーツァルトが既にウィーンで旋風を巻き起こしていたにも関わらず、ウィーン・オペラ・ハウスはまだなかった。モーツァルトのオペラが皆イタリア語だったことを考えれば、オペラはやはり圧倒的にイタリアが中心だったということだろう。

中のミュージアムには、ヴェルディに関するものが多くあった。

これがバレッツィがミラノに引っ越したヴェルディに送り届けたピアノ。1832年となっている。ヴェルディの父親が買ってあげたスピネットは、ジョージ・マーティンが第1章で書いているように、これもスカラ座ミュージアムに納まっていた。

このミュージアムには彼や関係者の肖像画が何枚もあり、またヴェルディの胸像があった。この像から、私が現在訳している本の表紙にあるスケッチが描かれたよう。この像は少し前屈み過ぎるが、スケッチした画家はそれを少し起こしている。ずっと後で、彼がナポリにいる頃、他のアーティストたちが描いた肖像画などを見て、ヴェルディはなぜいつも陰鬱な様子に描かれるのか?と自問している。

ミュージアムの横から、ボックスに入って、劇場内を見ることができた。舞台ではその晩の演目、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」のドレス・リハーサルが進行中だった。

オペラは、その夜(2021年の9月18日)、収容率50%以下の観客席の前で上演された。(白い紙が貼ってある席は使用禁止席)。多分そのため、公演は縮小版だったよう。

ロビーにあるヴェルディの立像。ブセット町のヴェルディ劇場建設と同じ頃に立てられたが、彼はこれも嫌がって、除幕式に出席しなかったことが書いてあった。

スカラ座の前の小公園にあるダヴィンチの像。

ミラノ市のもう一つの観光名所であるミラノ大寺院(ドウモ)は、1386年に建設が始まった。4世紀後の17世紀までにはだいたい現在の形に出来上がっていて、ナポレオンが1805年にイタリア王国の国王として、ここで戴冠式を行うため、正面ファサードの完成を急がせて、現在のようになった。ヴェルディが来たときは、多分未完成だった尖塔などの建設が引き続き、進行中だったと思われる。この美しい大寺院は世界で3番目というサイズで、特徴としては白い大理石で覆われたファサードの華麗な美しさと、建物全体の屋根や側面から立つ尖塔の数の多さ、それと屋上に上がれること。

私は2012年に何十年ぶりかで、2回目のイタリア旅行をした時、この「ロンリー・プラネット」の表紙に魅せられて、ここに登った。

第5章は11月18日ごろ公開予定


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