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人間ヴェルディ:彼の音楽と人生、そしてその時代 (12)

著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子

出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年


第二部 ヴェルディアン・オペラ確立期


目次
第12章:ガレー船(苦役)時代、その1
1844〜1845;30歳から31歳)
書簡コピー・ブック。エマニュエーレ・ムチオ。ミラノでのヴェルディの日常。彼の喉の痛みと腹痛。その原因は?。「二人のフォスカリ」を分析。「ロンバルディア人」のリバイバル公演とヴェルディの不機嫌。女性関係の噂。「ジャンヌ・ダルク」を分析する。
【翻訳後記】
コピーブックについて・「二人のフォスカリ」はリリック・オペラ・ヴェニス共和国とドージェ・フォスカリ・ヴェニスのドージェ宮殿・You Tubeから:ヤコポの郷愁のアリア、ライトモチーフについて、2013年"Ttutto Verdi中の「二人のフォスカリ」イントロ、レオ・ヌッチの熱演、そして「ジャンヌ・ダルク」
(順次掲載予定)
13章:ガレー船時代 その2「アッティラ」
(31歳から32歳)
14章:ビジネスとしてのオペラ作曲と「マクベス」(32歳から33歳)

ガレー船(苦役)時代、 その1

(1844―1845 : 30歳から31歳)


ヴェニスでの「エルナニ」の初演大成功の後、ミラノに戻ったヴェルディは、その後「ガレー船時代(苦役ということ)」と自ら表現した時期に入る。1839年の「オベルト」初演以降、彼は毎年1作のオペラを作曲してきた。不幸な結果になった第2作目の「一日だけの王様」から、「ナブッコ」で再出発を開始するまで、18ヶ月の無活動期があったが、5作のオペラのうち、後の3作は大成功になった。彼がこの成功をさらに継続するだろうということは自明の理だった。彼が成功するオペラをさらに書くかどうかなど、問題ではなかった。というのは、民衆は良くても悪くても、彼が書いて、演出するオペラにはいくらでも払う気でいたからだ。大・中・小都市の、遠くはロンドンからの、興行師、出版社、エージェントから、手紙や、面会で、それまでのオペラの再公演や、全く新しいオペラの作曲の依頼が舞い込んだ。こうした申し出をきちんと整理するため、彼は手紙のコピー・ブックを使い始め、契約書の事項を正確に参照できるようにし、他の誰やらからの案件や、断りなどを記録した。彼はまた、彼の台本作家や友人への手紙も、いくらかコピーをした。この習慣は彼が1901年に亡くなるまで続いた。この記録には、途中ギャップがあり、それが9年間続いたこともあったが、また記録されなかったことも多いし、重要なものも、そうでないものも混じっている。それでもこの記録はこのアーティストの人生の驚くべき記録で、彼を知るための最も重要な一個の資料となっている。もちろん、彼は手紙集が出版されるなどと、考えても見なかっただろうが、彼の死後12年してから、手紙集として出版になる。

ミラノの社交界は演劇界の男達以外もヴェルディに取り入ろうとした。アッピアーニ夫人ほどの音楽的興味がない金持ち婦人たちは、招待状を召使いに届けさせ、郊外へのドライブに誘ったりした。彼はこうした招待を受ける気は全くなかったが、お断りするにも時間がかかった。彼は玄関まで出て、御者達の説明を聴き、丁寧なお断りを考えなくてはならない。それに比べ、ビジネスの話でやってくる男性に対しては、ただ「外出中」とすればいいので簡単だった。この時期彼に必要だったのは、奥さんか、秘書の代わりができる人間で、以前に前者を提供したバレッジ氏は、思いがけず、今回は後者として、エマニュエーレ・ムチオを提供した。

ムチオはブセット近郊のジベロという村の貧しい靴屋の息子だった。ヴェルディと同じようにブセットの交響楽団で働き、慈善基金協会から、ミラノの音楽院で勉強するために奨学金を貰ったところだった。彼はヴェルディがヴェニスから帰宅した少しあとの4月にミラノにやってきた。そしてバレッジにこう書く


844年4月22日 ミラノにて
アントニオ・バレッジ様
外国人もミラノ州からの誰も、今音楽院で勉強できないので、マエストロ・ヴェルディが対位法の講義を数日してくださいました。もしヴェルディ氏からの依頼に対して、ミラノ市の総督または知事が特別に計らってくれたら、私はいずれ音楽院に行くことになります。さらに、彼は私のために推薦状を書いてくださいました。コピーを受け取り次第、貴殿にお送りします。普通ヴェルディ氏のレッスンに、学生は1回2または3タラー支払ったと思いますが、彼はレッスンの学生はとらず、私のような哀れな奴だけが受けています。彼はすでに何千回もの好意をして下さっただけでなく、週に1、2回でなく、毎朝、レッスンをしてくださっています。驚くべきことです。さらに何かの用事を私に頼んだ時には、ランチをご馳走して下さいます。我がマエストロは実に寛大なお心と英知の持ち主です。同じようなお心の持ち主の貴殿も彼に並び、お二人はこの世界中で最も寛大な心の持ち主だと私は思います。   エマニュエーレ・ムチオ



ムチオはヴェルディより8歳年下だけだったが、経験、洗練さにおいて、田舎出のこの若者の目には、ヴェルディは拡大されて見えただろう。彼は以前、「ナブッコ」の前の時期にブセットでヴェルディに会っているし、バレッジから彼の初期の試みや失敗の話を聞かされていただろうが、彼は同じバックグラウンドと時代を共有しているとは、感じなかったようだ。ムチオにとって、ヴェルディの成功は、それが多少遅かったとはいえ、偉業で輝かしく、彼は生まれつき超人的だと思ったようだ。ムチオにとって、ヴェルディは他の人間とは全く別人だった。

5月30日のウィーンでの「エルナニ」公演の成功のニュースは、ヴェルディの友人達の耳にも入り、ムチオの耳にも、そして彼はバレッジにこう書いている


貴殿がこの日ヴェルディ宅にいらっしゃらなかったのは非常に残念です。というのは、非常にいいニュースがこの町に届くやいなや、1時間も経たないうちに、まずはドニゼッティからの手紙をもってきた人、次はどこやらの伯爵からニュースを聞いたという人、さらにメレッリからの手紙をもってきた人など、終わりがないと思えるほど沢山の訪問客で、皆ヴェルディ氏に彼の「エルナニ」について、素晴らしいことを聞いたと言って、貴殿がここにいたら、多分涙したと思いますが、とにかく、皆部屋の中に座り、ある人は手紙を読み、もう一人も読み、または新聞を手に、まるで小学校の詩の朗読クラスのようでした。マエストロは部屋の真ん中のテーブルに座り、まるで先生のようでした。全く、喜び溢れる光景でした。


こうした突然の訪問者が常に喜びをもたらすとは限らない。トスカーナの大伯爵夫人が、ヴェルディを讃えて、彼女の侍従連をよこした時は、ヴェルディはあとで、「あれは全くくだらなかった」とムチオにこぼした。もう一人の困った客は、出版社ルッカの夫人で、彼女はヴェルディと契約しようと意気込んできたが、見込み無さそうで、非常に落胆して、帰宅して、夫にこぼしまくった。

リコルディ社が「エルナニ」のイタリアでの著作権を獲得し、ルッカ社は引き続き、努力が必要になり、ビジネスでやってきた人々の一人と、ヴェルディはローマのアルゼンチン劇場での新作オペラの作曲・初演の契約をした。同時にヴェルディはナポリ、ミラノとヴェニスには契約に至らなかったが、セリフ台本の良いのがあれば、考慮すると伝えた。

ローマの劇場との契約は、秋のシーズンのためにヴェルディが新作オペラを作曲し、舞台演出も担当するというものだった。契約は春に署名されたので、夏の4ヶ月間に彼は作曲をすることにした。最初に提出した台本はロレンゾ・ディ・メディチが題材だったが、法王庁の検閲から拒否され、2番目の台本に落ち着いた。それはバイロンの戯曲「二人のフォスカリ」で、15世紀のヴェニスで実際に起こった政治的陰謀が題材のメロドラマだった。ヴェルディとピアヴェは、1年前にフェニーチェ劇場のために、あらすじまで書いたが、モチェニゴ伯爵が、「エルナニ」の方を好み、それに決まった経緯があった。

ヴェルディはすぐに仕事を始めた。彼はピアヴェに台本完成を急がせた。アリアで始まり、会話を入れ、またもっと強い性格のドージェ(ヴェネツィア共和国の総督)を要求した。ヴェルディは常に強い性格の主人公を求めた。彼はまたゴンドリエ(ゴンドラの船頭)の唄を合唱に差し込み、一般受けするようにした。「このシーンを夕方にすれば、夕日をバックにして、美しいシーンになるのでは?」。彼はピアヴェの質問にこう答えている:パッシーニと協働することは賛成。だがロレンジーノはやらないで欲しい。もっと先で君と組んで、やりたい。もし、抜けられないのならば仕方がない。どちらでも君にとって一番良いものを」

「ロレンジーノ」とは、ローマの検閲に落とされた台本で、パッシーニはパルマ市のマリールイーズの宮廷音楽家で、古い時代の重要作曲家の一人だった。1796年から1867年までの長い一生に、彼は70のオペラを書いたが、しばしば数週間で一作を仕上げたらしい。同時代の人々は、彼はメロディーに強いが、オーケストラリゼーションとドラマに弱いと評した。彼のオペラ、「メディチ家のロレンジーノ」はピアヴェの台本で、1845年3月にフェニーチェで見事に上演されたので、ヴェルディは台本候補作を一つ失ったわけだ。

彼は「二人のフォスカリ」の台本を気に入って、その作曲はうまく行っていた。が、彼の健康状態に問題が生じた。彼は頭痛と腹痛に悩まされた。数日床につき、仕事ができなかった。ムチオは彼の用事を代行し、不必要な訪問客は追い返し、またバレッジには逐次報告したし、ついでに自分の要望も入れた。


1844年6月24日、ミラノにて
アントニオ・バレッジ氏へ

彼はいろいろな人から、迷惑を被っています。彼は訪問客は断ると言いながら、なかなか徹底できません。
ある(名前は覚えていませんが)作曲家は、「二人のフォスカリ」について、自分も作曲中なので、マエストロ・ヴェルディに中止してほしいと言ってきています。さもないと、マズカートの「エルナニ」の時の繰り返しになりかねません。マエストロは、自分はすでにかなりの部分を作曲しているので、要望には応えられないと返事しました。

今朝、私はちょっと擬似自習を試みました。私の先生はラヴィーニャからレッスンを受けた時と同じものと使っていますが、彼はそれを改良しています。彼は彼の知識をもって、私の行く道に導いてくれます。今日のレッスンは15分で終わりました。なぜかお分かりですか?私の所持金はなくなりかけているのです。私の経費を合計したところ、7月半ばまでは持ちそうですが、15日にアパートの家賃とピアノ代の支払いがあります。すみませんが、ご都合の良い時になるべく早くお願いします。私の先生は必要なことは率直に言いなさいと言ってくれますが、勇気がありません。すでに彼は素晴らしいレッスンをしてくれています。今朝、彼から「私のところで勉強するのは、どうかね?」と訊かれました。私は「まるで新しい人間になったようです」と答えました。これからもできるだけ、節約します。無駄遣いは1円もありません。ですが、紙代、ローソク代、など、大変です。マエストロは十分に書かないと、勉強にならないと言ってくれます。これからもすべきことは全部やるように励みます。
     エマニュエーレ・ムチオ



田舎の空気の方が良いかと思い、ヴェルディはしばらくブセットに行き、バレッジ宅に滞在した。しかし、アッピアーニ夫人に「もうすぐ、ミラノに戻ります。健康が回復し次第、私はロンバルディアの首都に向かいます。この故郷の町の空気はよくありません」と書いている。その夏はどちらの空気も良くなかった。ヴェルディの健康は、生涯全体から見ると、全般に良好。特に老年になってからは、非常によく、ジャーナリストたちは何が原因か?という記事を定期的に書いた。しかし、この初期の時代の数年間、彼の健康はすぐれなかった。そのパターンが興味深い。彼の病気は常にひどい頭痛から始まり、次に吐き気を催す腹痛。それにノドの痛み、これは新しいオペラを作曲した後毎回で、これに効く薬はなく、新鮮な空気も効果がなかった。結論としては、創作行為は身体を犯し、それは避けられないということだった。この病状は続き、彼はただ耐えなければならないことと気がついた。

喉の痛みは面白い現象、オペラの観客は基本的に喉で反応しているからだ。耳というのは導管に過ぎない。もちろん、耳は高い音が美しいとか醜いとかの区別はする。が、高い、クライマックスの音に対して感動するのは、聴く人の喉の筋肉がなせるワザ。彼は自分の経験から、ある音に達し、長く引き延ばすには、身体的にかなりの緊張感が要求され、彼の筋肉がそれに応えていると知る。当時ヴェルディは声を使ってオペラを作曲していた。オペラ全体のメロディーを、ほとんどピアノを使わずに創作した。そして、リハーサルの時にオーケストラ部分を作曲する。晩年に近くなる頃には、彼はオーケストラ部分を一緒の作曲するようになる。そうすると、喉の痛みの問題は軽減した。しかし、この頃はまだ、ほとんどの作曲に声を使っていた。それが声を出してやるか、自分の中で口ずさむだけか、それとも頭の中で歌うだけかによる違いはほとんどない。喉の筋肉への負担はほとんど違わないのだ。数ヶ月の間集中的に歌うことで、喉は炎症を起こした。

この喉の痛み現象は作曲家に限ったことではなく、歌手が頭の中で歌って、曲をさらった時にも起こる。ベテランのオペラ・ファンであるヴィンセント・シーハンも、または上演中に全く歌わなかったニーチェも、連続的オペラ鑑賞の後にくる同様の兆候を報告している。彼らは耳で聴いたのだが、喉で反応したのだ。多くのヴェルディ研究者たちは、この喉の痛みの説明に賛成意見である。同様の議論を腹痛や吐き気などに、適用する人もいるが、固執する人はあまりいない。何と言っても、ヴェルディはフロイドの精神身体医学以前の人なのだ。

ここに説明する理論では、深い感情の根源は身体の真ん中、つまり胃、横隔膜、心臓と肺にあるとしている。神経衰弱を経験した大人は、それに再び襲われそうと知る兆候は、よく出てくる金切り声の叫びでも、神を冒涜する言葉でも、涙で鼻をすする音でもないという。それは胃からの騒音、うねりと、異様に締め付けられたぐーぐーという音で、それは苦痛の泡を避けるために喉から起こるらしい。もっと普通の兆候はそのあとすぐに来るらしいが、どのくらいをもって、すぐ後なのか?は疑問。

ヴェルディはこうした身体の衰弱の中でも、最も強い感情を音楽にしようと試みた。そうするために、彼は時間があるときに、セリフ台本を暗記し、そのセリフを何度も何度も自身の中で繰り返した。つまり彼は舞台の情景の中に身を置き、感情の中に自らを置いた。彼の胃が不調や吐き気の兆候を示したのは不思議でない。

9月の末日、ヴェルディはミラノを発ち、ローマに向かう。そこで彼は「二人のフォスカリ」のオーケストラ部分を作曲し、リハーサルし、いつものように初日から3回指揮をした。初演の観客からの反応は、熱狂的だったが、ちょっと混乱も見られた。ヴェルディの新作オペラ初演ということで、そこの興行師はチケットの値段を上げた。その結果観客は苛立っていた。2日目、3日目は値段をいつも通りにしたところ、観客は熱狂的になった。批評家はある晩30回のカーテン・コールを記録している。このオペラはイタリアでは、「エルナニ」や「ナブッコ」と同じくらい人気があり、世界中で上演された。が、20年くらい経ってから、人気が落ち始めた。それでも、今でも時々リバイバルになるし、特別公演にもなる。

オペラとして、「二人のフォルカリ」はよいところもあるが、欠点もある。「エルナニ」と同様、このオペラもメロディが素晴らしい。特に第2幕と3幕のフィナーレがよく、ここでヴェルディはただの合唱で終わるのではなく、シーンを作り出した。オペラ全体を通して、明らかに、ヴェルディは音楽のパターンとドラマ性のバランスを、ドラマにもってこようと試みている。パターンは「エルナニ」と基本的に同じで、スローなアリアの後は、ファーストのアリアなのだが、ヴェルディはセリフの繰り返しをやめ、トリオやデュエットにしたり、または別の歌手に早い続きを歌わせたりしてパターンを変えている。したがって、「エルナニ」より、音楽的に詰まったオペラになっている。

音楽にドラマ性を高めるため、ヴェルディはそれぞれの役柄に、テーマ曲をつけた。劇中で時々招集される‘10人委員会’にも、である。しかし、この手法は半分成功しただけだった。この手法は主人公が劇中で変身したり、成長したりする時にはうまくいく。が、そこには罠がある。注目の主人公のある面を観客に対して、印象付けるのはいいが、いつも同じ面が出てしまう。ヒロインのルクレツィアは、追放の刑になる若いフォスカリの妻で、彼女のテーマ曲はスケールを駆け上がるもの。彼女が舞台に出てくる前に、このテーマ曲が入るのだが、それが聞かれるたびに、彼女が髪を振り乱し、息切れしそうにステージに登場し、誰かの足元に身を投げそうな場面を予想してしまう。このテーマ曲が流れれば、「それ!ルクレツィアのご登場!」となり、これではドラマ展開の面白みは半減する。このオペラ以降にも、例えば「アイーダ」では僧侶たちに、それにアイーダ自身にも、この手法を使ったこともあったが、このオペラほどはっきりとしたものではなくなる。

「エルナニ」の方がこの「二人のフォスカリ」ほどの努力もなく、成功したが、両方とも「ナブッコ」に見られた宗教的なテーマが、合唱からドラマの筋にも通っていて、アーティスティックな統一性を持っているものではない。新しいオペラが発表される度に、ヴェルディ音楽の推移の中で、「ナブッコ」は特異変種だったことがはっきりする。彼が意識していたかはわからないが、彼は登場人物個人に興味があり、彼にとってオペラとは、個人個人を音楽的に捉え、心理的に忠実に表現するものなのだ。「ナブッコ」にも、こういう点は見られるが、オラトリオ的で、登場人物は個人というより、合唱グループのリーダーでしかない。「二人のフォスカリ」でドージェが息子に追放刑を宣告する中で、彼の心理面を音楽的に表現する始まりになった。当時のローマの批評家は「登場人物は皆それぞれ自身の言葉を使い、情熱的に表現し、ドラマを盛り上げている」と書いている。ヴェルディの後年のオペラで教育された現代の観客は、それは当たり前で、この評はちょっと大げさに聞こえる。しかし、音楽的パターンと筋のドラマ性とのバランスが、音楽的パターンに傾いているのに慣れた当時の観客にとって、ヴェルディのオペラは実にドラマティックに映った。

11月末にヴェルディはミラノに戻り、リハーサルなどで、怒りを爆発させる状況も起こり、「ブセットのクマ」というあだ名をもらうことになる。彼は1844~45年のカーニバル・シーズンに新作オペラを作曲することと、12月26日のシーズン幕開けに、「ロンバルディア人」のリバイバル公演の演出をすることにメレッリと合意する。「ロンバルディア人」のジゼルダ役を演じたエルミニア・フレッゾリーニが両方ともに出演して、彼女の夫のポッジがテノール役をやる。新作オペラの方はソレラがシラーの悲劇「ジャンヌ・ダルク」をもとにセリフ台本を書くことになった。

ヴェルディは12月には作曲を始めたが、すぐに「ロンバルディア人」のリハーサルのため、一時中断になる。そしてリハーサルも問題で、それはオペラ・ハウスから始まった。ヴェルディはオーケストラが小さいことと、ピットの中での奏者配置について苦言し、歌手たちが自由勝手に曲を変えていること、合唱団は怠けていること、舞台の背景画や衣装が古くなり、みすぼらしいとも言った。端的に言えば、スカラ座はその栄光にあぐらをかき、堕落している伝統的なオペラ・ハウス病の症状を呈していた。リハーサルの状況を、ムチオはバレッジにこう報告している


ヴェルディ氏は狂ったように怒鳴りつけ、まるでオルガンの足踏みを踏んでいるかのように足を踏み鳴らし、汗が吹き出て、楽譜の上に汗がタラタラ落ちたほどです。フレッゾリーニは声が出ないとすぐに泣きだします。彼女の夫はそれに気を取られ、音を間違えます。メレッリが選択を間違ったバリトンは、このバッソ・プロフンド役で舞台では全く声が通らない状態です。



ヴェルディはこの時点で過労になり、初日には出席しなかった。それでもリバイバルは成功で、15回上演された。

スカラ座ではヴェルディ以外にも、不満タラタラの人がいっぱいいた。確かにスカラ座の評判は下がっていた。ミラノ市民が信じていた神話とは裏腹に、スカラ座は実は世界一でも、イタリア一でもなかった。過去においても、スカラ座の評判は他の劇場と同様、上がったり、下がったり、だったが、だんだん下がった状態が長くなり、下がり方はひどくなった。後から見ると、明らかにこの偉大な劇場は下り坂にあった。問題原因のいくつかは、もちろん、メレッリにあった。彼はヴェルディが知らない他の問題も抱えていた。例えば、ソレラの妻のソプラノ歌手は、ヴェルディの助言を無視して、ドニゼッティのゲンマ・ディ・ヴェルジに出演したが、ひどいフィアスコでメレッリは2回でキャンセルして、ソプラノを解雇したため、彼女を怒り狂って、契約書を破り、他の劇場に行ってしまった。

こうしたアーティスティックな問題だけでなく、感情的な問題もあったかも知れない。というのは、その頃ヴェルディは、知人関係にある女性全員との関係を噂されている。よく噂にのぼったのは、アッピアーニ夫人、マッフェイ伯爵夫人、ソプラノ歌手のストレッポーニとフレッゾリーニ。しかし、この頃の交際関係に関する証拠はほとんど残っていない。恋文もなければ、出来事の記録もない。彼の友人たちの手紙に、彼の恋愛関係についての記述は全く見つからない。もし、事実が本当なら、彼は非常に上手に人の目をくらましたとしか、言いようがない。

しかし、イタリア人は恋愛を大事にするから、ゴシップは絶えなかった。多分に、もしヴェルディの貞節が本当なら、国民的屈辱とでも思われたのではないか?ヴェルディは独身で、健康だし、人柄は十分魅力的で、彼の社会的地位と特権は申し分なし。「男性は皆、、」から始まり、イタリア男性の一般的な性格と当時の習慣などを鑑みてゴシップは終わる。例えば、独身者たちと結婚がうまく行っていない夫たちは、情事で性的な欲求を発散させる。相手の女性の方は社会的地位と教育において、男性と同等のことが多い。男性が売春宿で性的発散を続けるのは、悪い趣味、または理解に苦しむとする。というのも、同等なレベルで、いい女性がたくさんいたからだ。女性の方は、結婚している場合もあるし、未亡人や女優もいた。若い未婚の女性と情事を持つことは、誘惑と取られ、認められない。情事は一晩以上の関係であるべきで、相手をしばしば変える女性は非難される。また情事に関係する女性と、愛人は取り扱いが違う。情事の場合、彼女は彼と同等な関係で行われる。愛人となると、ある程度‘養われている’ことになる。しかし、未亡人と女優の区別ははっきりせず、社会は女優よりも未亡人の方に味方する。

愛人と結婚するのは、男性にとって、まずいことが多い。どうやって友人の妻たちに紹介するのか?情事で関係した女性と結婚することは、可能性はあるが、社会はある程度の罰を与えたがる。遠くパリとかに数年住むとか。もし子供がいれば、そして可愛い子供なら、社会は、これはお似合いのカップルと受け入れ、全ては許される。しかし、そういう結婚は珍しい。数年すれば別れることになる方が多い。もし関係が長引けば、それはリエゾン(密通)となり、社会はそれなりに、基準を変えて受け入れる。大きなディナー・パーティに双方を招待するが、婦人の夫は外される。

イタリアでは情事に関係する男性に道徳的な罰はない。教会から赦免にならないし、社会的な罰則とかもない。女性の方に厳しい。特に未亡人とか女優の場合は厳しく扱われる。友人たちは彼らをかばうが、かばうことに疲れてきても、敵どもはいつまでも攻め立て、非難し続ける。最後には彼らは自分たちの世界だけに住むことになり、誰も彼らを認めない惨めさを味わうことになる。しかし、社会の中で情事が節度を持って、社会一定のルール中で発展すれば、サバイブすることもある。ルールの一つは、女性は絶対に男性のアパートに、たとえどんな理由があっても行かない。普通、アッピアーニ夫人のように、サロンのような場として友人、知人を歓迎することが確立されていれば、お気に入りの男性が解散後に戻ってきたり、二人で田舎の別荘で会ったりとかいうことはある。ヴェルディが関係していると噂された4人のうち、誰も一人でミラノの彼のアパートを訪問していない。情事に関するルールで普遍なことは、節度を保つということだ。1833年から39年にかけての、リストとダグール伯爵夫人との情事があれほど騒がれたのは、そのルールが完全に破られたからだった。

ヴェルディがこういう社会の中で、跡を残さずに情事を維持したとは考え難い。例えば、フレッゾリーニの場合、ゴシップによると、彼女の夫、ポッジは気性の激しいことで知られたテノール歌手で、嫉妬深く、ヴェルディを嫉妬していたようだ。もし、この関係があの冬にあの劇場でおきた種々の騒動の中で進行したなら、歌い手も舞台の裏方も、誰もこの嫉妬による騒動を記録していないのは不思議だ。違う理由でマッフェイ伯爵夫人との情事も考え難い。次の年、彼女は夫と別居に踏み切る。夫の賭け事からの借金から財産を守るためと、カルロ・テンカとの彼女自身の情事を続けるためだった。この情事はもっと前から始まったもので、これこそ、真のリエゾンと言え、1883年にテンカが死ぬまで続いた。ヴェルディはそのことを知っていたが、それぞれとの友人関係は継続したから、この3角関係に彼が性的な役で入ったことはまずない。

クララ・マッフェイ伯爵夫人

ストレッポーニとの情事も考え難い。二人が同じ町にいたことが少ないのだ。パルマ市での「ナブッコ」公演のあと、ストレッポーニは仕事を続けたが、もっとゆっくりのペースだった。彼女の公演内容は「ナブッコ」に集中したが、その冬にシシリー島のパレルモでは、ひどいことになった。ヴェルディがミラノで奮闘している頃だ。パレルモで彼女の声は完全に枯れてしまい、批評家も観客も情け容赦しなかった。彼女の友人への手紙によると、彼女は失望し、人生に疲れ、ある手紙には、自殺または完全に引退するかしか救いようがないと書いている。後年の彼女の手紙に見られる幸せな雰囲気は、この時期全くない。もし彼女とヴェルディが手紙の文通をしていたとすれば、その手紙はまだ発見されていない。

この時期に一番可能性があるのはアッピアーニ夫人だろう。というのは、二人の間の手紙が多少残っているからだ。彼女からの手紙は残っていない。ヴェルディが始末したからだ。ほとんどの手紙やノートには内容はない。何回か、彼はこう書いている


「承知しました。3時に行きます。しかし、どこに行ったら良いのかお知らせください。いろいろ感謝しています。返事をください。」
そして、再び、「私は憤慨して、沈んでいます。が、もう女王蜂を演ずるのはやめてください。それでも、感謝はしています。」



1847年のロンドンからの手紙に彼は、


私は今でも、貞節な男のいい例です。笑わないでください。天の神よ!さもなければ私は激怒するでしょう」
ブセットから、それより前に: もう少し、我慢してください。他の誰も私の人生を制する人はいません。また私は誰の奴隷にもなりたくないのです。



そして1845年のクリスマスにはアッピアーニ夫人からプレゼントが届き、ヴェルディはヴェニスから彼女宛の手紙にこう書いた:私は最も親愛な人間ではありません。そういう振りもしません。私はいろいろな振りをしますが、好ましいとか、格好いいとかの振りは絶対にしません。バカでもありませんが、そんなに悪いヤツではありません。よく貴女と貴女の家族のことを考えますが、そう書いても信じてはもらえないでしょうが」などと。

こうした走り書きから、判断は難しい。彼は手紙を書いたが、今までに見つかった手紙の内容には親愛なる感情の表現もなければ、相手のどこに魅せられているという言葉もない。彼は彼女を親愛関係を意味する言葉で呼んでないし、彼女をミスしていると書いた時ですら、彼は彼女の家族とか、ミラノとか、都会の生活などを挟んでいる。

さらに、この夫人自身にも問題ありだった。1951年にフランク・ウォルカーは「音楽と手紙」と題した記事の中で、アッピアーニ夫人は二人いたと書いている。両方とも未亡人で子供がいる。しかし、もう一人はずっと若く、綺麗で子供も少ない。ドニゼッティは両方の知り合いだったが、ヴェルディは年がいった方しか知らないはず。この人がサロンを開き、1845年までに彼女はおばあさんで、50才近くで、ヴェルディやドニゼッティではない、音楽と関係のない友人と愛人関係にあったらしい。

事実、ヴェルディの走り書きがずっと年上の人宛に書かれたことを考えると、それは愛情の表現というより、女性に対する慇懃な言い方のようだ。彼はアッピアーニ夫人宅で耳にしただろう、軽妙で滑らかな口調を再現しようとしているようだ。しかし、彼の田舎風荒っぽさはまだ十分に取れてなく、時には、ぶっきらぼうな調子の文章になり、それがまたアッピアーニ夫人などにしてみれば、魅力的に映ったかもしれない。

あまり証拠になるものがない中でも、人々の憶測は早くから始まり、長い間続いた。こういうことに楽しみを見つける人々は、自分の経験から、ヴェルディの行動を判断する危険がある。ヴェルディは音楽においては非常にイタリア人的だが、女性との関係においてはそうでなかったかもしれない。彼は、すぐに親密な関係になったり、やめたりする人間ではなかった。それというのも、彼は単純な貧農の生まれで、ミラノの社交界では、戸惑いも多く、慎重だっただろう。男性との交際でも、彼は時間をかけて数人と親しくなっただけで、その代わりに、彼は一生涯、彼らとの交際を維持した。そして、最終的にストレッポーニとの恋愛が始まったとき、彼は、典型的ヴェルディ式に、おきまりのルール全てを破ったやり方だった。その目でみると、1842年から47年にかけて、彼がアッピアーニ夫人との情事を実に上手にやってのけ、その真実性は疑いの余地なしと言えるなどと考えるのは非常に難しい。

その冬、たとえヴェルディが誰かと親密な関係になったとしても、劇場の仕事が忙しく、恋愛に熱中する時間が彼にはなかった。前年、彼はヴェニスに行って、「ロンバルディア人」と「エルナニ」の公演をやり遂げた。しかし、ヴェニスに着いた時にはすでに新作オペラのほとんどが出来上がっていて、12月26日のシーズン幕開き日から、3月9日まで、「エルナニ」の初演を演出する時間があった。ところがその年はスカラ座で12月26日から2月15日までと日数が少なかった上に、「ジャンヌ・ダルク」の演出をして、作曲もほとんどこの間にした。結果として、このオペラは普通のオペラで、いい部分は偶然であって、練られた結果ではなかった。序曲はオペラの中のメロディは全く使われていないが、静かなシーンで、木管楽器を上手く使ったいい音楽になっている。しかし、主人公のジャンヌ・ダルクは、ありきたりのソプラノ役のファースト、スローのアリアがいくつある程度に終わっている。歴史上のジャンヌ・ダルクはイタリアではオーストリアに対抗できる彼女のような人に憧れているから、よく知られたお話しだった。ソレラのセリフ台本は歴史的なストーリーを使ったパロディーだった。フランス軍を率いて戦いに臨み、負傷、フランスのお城の中で、旗を抱えて死ぬ。そのシーンはまるでケベックで死んだウルフ将軍の女性版のよう。そこに処女というエレメントは加えられているが。

批評家たちはこのオペラを熱狂的に支持していないし、歌い手についてもフレッゾリーニ以外は失格だった。しかし、民衆は気に入り、支持したので、メレッリはしばらくの間、週に4回の上演を続けることができた。舞台には戦旗が波打ち、中に調子のいいメロディーも入っていたので、すぐに街を練り歩くバレル・オルガンや市内バンドが演奏した。一番人気だったのは、「悪魔のワルツ」で、オペラの中ではこういう音楽は良くないが。ジァンヌは天国と地獄の両方から、神の声を聞く。地獄からの声は、早く使命から退き、人間らしい恋をしろというもの。ソレラはコーラスにこのメッセージを歌わせている:


お前は美しい、お前は美しい!
おバカさん、ここで何をしているのだ?



イタリア語の歌詞は、ナポリ地方のジングルそのもので、ヴェルディはそれに合ったメロディーをつけた。劇場でこの場面になると、観客は皆、床を踏み鳴らし、悪魔のコーラスがジャンヌを脅かすところで、隣と顔を見合わせて、ニッコリした。

この初日の後すぐに、メレッリから、シーズン最後に「エルナニ」の上演をする話を持ちかけられるが、ヴェルディは断る。そして、スカラ座とは縁を切ると公に宣言する。メレッリに憤慨している作曲家は、彼だけではなかった。1843年、メレッリはドニゼッティの「ファースタ」を、作曲家自身が改訂して上演すると発表する。事実はドニゼッティ自身が言ったように、改訂はなされなかった。メレッリ自身が、ドニゼッティの他のオペラのフィナーレと、他の作曲家のアリアをくっ付けただけだった。さらに1845年の冬には、メレッリは「ロンバルディア人」と「ジャンヌ・ダルク」ですでにヴェルディと問題を起こした上に、ヴェルディのそれまでで最もドラマティックなオペラである「二人のフォスカリ」上演時に、メレッリは第2幕の前に、第3幕と最終幕を持ってきた。これについて、ヴェルディは彼を許さなかった。リコルディ社との新しい契約で、ヴェルディは、彼のオペラがどの劇場で上演されるかの決定権を確保した。それ以後、彼はメレッリからの申出を全て断り、代わりにナポリ、ヴェニス、フィレンツェの劇場と組むことになる。

ヴェルディのメレッリとスカラ座に対する悪感情は深く、それは劇場にとって、不幸なことで、しかも、長く続いた。1845年の「ジャンヌ・ダルク」の後、次に初日公演をしたのは、ほとんど4半世紀後の1869年の改訂版「運命の力」だった。1848年以降、何年にも亘り、彼はミラノの街を通ることさえもしなかった。どこかで劇場の委員と出くわしたり、または熱心な市民が彼の行動について、質問したり、戻ってくるように嘆願したりするかもしれないからだった。ヴェルディと最も関係が深かったと思われているスカラ座は、ヴェルディの最も人気が高い3大オペラ、リゴレットトラヴァトーレトラヴィアータの初演をヴェニスとローマに奪われてしまったのだ。

【翻訳後記】

この章の頃から、著者も書いているように、ヴェルディは書簡コピーブックというのを使い始めました。従って、ヴェルディ研究者とか評伝作家には資料が大幅に増えたことになりました。またエマニエーレ・ムチオもこの頃から登場。彼がバレッジに細かい報告の手紙を書いて、それが残っているので、資料はさらに増えました。ヴェルディのコピーブックからヴェルディが書いた手紙とか契約書の内容がわかり、大抵の場合、受け取った側が保存していることが多いので(彼はすでに有名だったから)、たとえば、マッフェイ伯爵夫人に書いた手紙など、これからちょくちょく紹介されています(マッフェイ夫人と一生涯文通を続けたということも驚くべきこと)。ムチオは一人前の音楽家になってから、ヴェルディのオペラをよく指揮をしたこともあり、ヴェルディとの関係は続きます。最後にパリで死んだとき、彼は保管していたヴェルディからの手紙が悪徳商人の金儲けに繋がるのを恐れて、遺言で全て焼却してもらいます。このため、研究者やこの著者は貴重な資料を失ったことを嘆いています。彼はそういう生真面目一方の人間だったようです。

二人のフォスカリ」は私の好きなオペラの一つ。これはグランド・オペラ的な「ナブッコ」や「エルナニ」と違い、リリック・オペラ(lyric は叙情的なの意。それにオペラがつくと、澄んだ声のオペラ歌手が清らかに歌うのが特徴のオペラ)というジャンルだと私は思います。登場人物も少なく、舞台時間は正味2時間以下で、ドラマのテーマは一つで、従ってドラマの展開も少ない。つまり小劇場向きということですが、それでもヴェルディの美しいメロディーが印象に残ります。これがリリック・オペラと呼ばれるのは、第一幕で息子のヤコポが故郷のヴェニスを想って歌うアリアです。聞いてみましょう。

初めにクラリネットが奏するメロディーがヤコポのテーマ曲です。実に美しいメロディーだと思いませんか?

ここでアントニオ・パッパノーという有名な指揮者がこのオペラで登場人物につけられたテーマ曲(彼は英語でvisiting cardと呼んでいます)を解説しているvideoを見つけたので、聞いてみてください。こういうテーマ曲のことを音楽用語でLeitmotifライトモチーフといい、ワグナーがよく使ったことが知られています。このvideoではまず、ルクレツィア、それからヤコポ、最後に年老いた父親ドージェのもの悲しいテーマが紹介されています。これを聞いてから、オペラを観ると、より筋の運びがわかると思います。

私はこのオペラを観て、この時代のヴェニス共和国の歴史を知ることになりました。まず長い共和国の歴史を持つヴェニスのドージェについて。さらに十人委員会とかも。ドージェ・フォスカリは実在人物。1423年から35年間その位置にあり、内政も外征も強力なレガシーを残しています。息子のヤコポはバイロンが描いた人物とは違い、どうしょうもない堕落していた人間だったというのが本当の話のようです。
彼はヴェニス共和国の法律に反して、一度流刑(殺人容疑で)になり、ヴェニスに帰りたい想いでさらに罪を犯します。それで捕えられ、拷問にかけられ、その判決を待つところから、オペラは始まり、彼がまず登場して前出のアリアを歌うのです。私は彼の流刑地がクレタ島ということに驚き、栄華の頂点にあった15世紀のヴェニスの版図を調べました。

オレンジ色がヴェニス共和国の領地です。ダルマシアン沿岸と呼ばれるバルカン半島の西岸から、ギリシャのペロポネス半島、そしてクレタ島まで。すでに実力をつけ始めていたトルコとの戦いが始まっています。

中世におけるヴェネチア共和国の版図

クロアチア、アルベニアなどの沿岸には要塞が造られ、海軍力を増強してきたオルマン・トルコと戦い、取ったり、取られたり。それで東方からのスパイス類の輸入が滞って、ポルトガルやスペインが西回りの航路を探すことになり、大航海時代が始まります。

ウィキにはフォスカリ・ドージェの記事があり、彼のポートレートがレオ・ヌッチとそっくりなのでさらに興味を持ち、この長い記事を熱心に読みました。これで私のヴェニス熱は高まり(以前30年前に一度行ったことはありましたが)、ヴェニス共和国の記事をあれこれ読むことになります。

ドージェのフランチェスコ・フォスカリは1373年生まれで、1457年に84歳で亡くなっています。このオペラは悲劇で始まり、どんどん悲劇的になり、最後にはそのショックでドージェも死ぬという大悲劇が主題です。ですが、すでにお聞きいただいたヤコポのアリアは初め、ちょっともの悲しい音楽が全体に流れます。見どころとしては、84歳のドージェ役のバリトン歌手がいかにその悲劇的役を歌い上げるかだと思いますが、他にも音楽的に魅力的な場面がいろいろあります。私はこのオペラを舞台で見たことがないので、DVDを探しました。私が気に入ったDVDは2013年のヴェルディ生誕200年を記念して、企画された「すべてのヴェルディTutto Verdi」のひとつとしてパルマの宮廷劇場で公演されたもの。3人の主人公(ドージェ、息子のヤコポ、その妻のルクレツィア)を歌う歌手が、皆年恰好と声の質が役柄にピッタリというのが、まずこの悲劇を現実的に見せる要件を満たします。このオペラはバリトンの見せ所が多く、いろいろなバリトン歌手が歌っていますが、私はこのレオ・ヌッチが一番いいと思います。ドージェでありながら、敵の陰謀で無実の息子がクレタに流刑になるが、何もできないことの苛立ち、絶望、怒り、そして悲しみと84歳という老齢。それでも精神的にはまだしっかりしたハリのある声と演技です。ムッティが指揮をしているので、ミラノ公演のようです。私は2013年のパルマ公演の方がいいと思いますが、このシーンだけのvideoはYouTubeには見つかりません。ぜひ全オペラをvideoで観ていただきたい。レオ・ヌッチというバリトン歌手はこの時71歳ですが、84歳のドージェ役を見事に演じています。ここではムッティ指揮によるミラノでの公演の最終場面のvideoを入れます。

You Tubeには同じ頃スカラ座でドミンゴのものがあります。彼はもともとテノールですが、老年になって、声域が下がり、バリトン役に挑戦しています。フォルカリもそのひとつですが、ヌッチの渋さはありません。
「Tutto Verdi 全てのヴェルディ」については何回か取り上げたと思いますが、2013年のヴェルディ生誕200年を記念して企画されたようで、彼の26オペラ全部が上演され、DVDになり、その全集も販売されています。その紹介トレイラーをYou Tubeで見つけたので、ここに入れます。

「Tutto Verdi」では26オペラのうち、80%くらいがパルマ市の宮廷オペラ・ハウスで上演されていて、世界的に有名なヨナス・カウフマンとかドミンゴの出演はありませんが、それなりに上質な上演が楽しめます。特にあまり上演の機会がないこのオペラのような初期のオペラを観ることができます。そして日本人に重要なことは日本語字幕がついていることです。近年欧米で発売されるオペラのDVDには、日本語があまり入りません。日本経済が中国に追い越されただけでないようで、韓国語字幕よりも少ないのです。コンピューターを使った舞台装置の仕掛け、照明などの技術などで舞台芸術は飛躍的な発展をしている昨今、オペラの人気も世界的に上がっていると私は思います。その中で、日本人ファンは忘れられかけているのです。

この「二人のフォスカリ」の「Tutto Verdi」版は特にいいので、まだ全オペラが収録されたvideoがYouTubeに上がってきていないようです。もし、このオペラのDVDをお買いになるのでしたら、これをお勧めします。

さて、舞台になったヴェニスの街に目を向けましょう。ご存じと通り、サンマルコ寺院の横にドージェの館であり、ヴェニス政治の舞台だったドージェ宮殿があります。この写真の右側の長く伸びている建物です。そしてフォスカリの息子が繋がれていた牢屋はあの有名な「ため息の橋」の反対側にあるところです。第二幕でドージェの館から、彼は息子を牢屋に尋ねる場面があります。

「ため息の橋」を外側から見たところ
「ため息の橋」から運河を覗き見る

この絵は第4章で紹介したフランチェスコ・ヘイズという当時人気の画家の1842年の作品となっているので、バイロンの戯曲をもとに描かれたもののようです。

前にも書いたように、この絵に描かれたドージェの衣装が「Tutto Verdi」のレオ・ヌッチとよく似ています(演出効果満点)。彼はパルマと同じくエミリア・ロマーニャ州にあるボローニャの出身。第三幕のアリアの後、拍手喝采が止まず、彼はチラリと嬉しそうな表情を見せ、両手を広げ、胸に手をあて感謝の意を表します。ここ20年くらい、この役は彼の十八番となっていたようです。

ヴェニスは共和国だったので、王様は存在しませんが貴族という特権階級が支配し、彼らが選挙でドージェを選出するのですが、このドラマの陰謀を見ると、共和制の方が王政よりも良いということはいえない様です。オペラでは最後に職も剥奪され、フォスカリ家はこれでお家断絶の印象でしたが、実際にはその後も勢力を持ち続けたらしく、現在のヴェニスには大学の施設のフォスカリという名前の建物になっているし、郊外にも代々フォスカリ家の館はルネッサンスの建築家パラディオの設計によるもので、ユネスコ登録で観光地になっています。またルクレツィアはコンタリーニ家の娘で、この家系もすごく、サンマルコ地区にその名前を掲げた有名な建物があるくらいです。

次に1845年2月に初演された「ジャンヌ・ダルク」ですが、シラーの戯曲に基づき、彼女とシャルル7世との恋愛などという筋書きは彼の創作。さらにドラマの主題はジャンヌ・ダルクが聖女(処女)か魔女かで、音楽的には天使のコーラスと「悪魔のワルツ」が交互する中、筋の展開を追うのが非常に難しい(特に日本人には)。当時は非常に人気が出たようですが、この「悪魔のワルツ」は流行歌のように民衆に人気でしたが、音楽評論家からは酷評され、従ってそれだけvideoはみつかりません。それでもこのオペラはソプラノ歌手の見せどころとなるような音楽がいくつもあることで、それなりに評価されているようです。ここでこのワルツを入れておきます。

最後にもう一度YouTubeをチェックしたところ、2015年にミラノのスカラ座でアンナ・ネトレブコ出演のvideoを見つけました。彼女のファンの方やこのオペラを全部観てみたい方はどうぞお楽しみください。

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