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人間ヴェルディ: 彼の音楽と人生、 そして その時代 (14)

著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子

出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年


第二部 ヴェルディアン・オペラ確立期


目次
ご挨拶:ヴェルディ生誕210年!
14章:オペラ創作のビジネス面と「マクベス」
(32歳から33歳)
ルッカ、ラムリー、ラナリ各エージェントとの交渉。ビジネスに向かない彼の気性。ムチオ、ブセットに帰郷せず。ピオ・ノノ法王の選出。その政治的重要性。ヴェルディ、メレッリと決裂。オペラ制作上の細かい注文。「マクベス」の分析とその音楽的構成。彼のバリトン嗜好について。
【翻訳後記】
ヴェルディの自宅の寝室にあった書棚の本のリスト。メトロポリタン・オペラ制作の「マクベス」。YouTubeから、プレリュード、晩餐会シーン、そしてマクベス夫人の3大アリア。
(順次掲載予定)
15章:パリ、ロンドンと「群盗」(1847;33歳)

ご挨拶: いつもご愛読いただき、ありがとうございます。
この10月10日はヴェルディの誕生日で、生誕210年となります。
また私にとっては、この連載を始めて、ちょうど1年になり、お祝いしています。まだこの先は長く、かなりの月数が必要です。今後共よろしくお願い申し上げます。 

オペラ創作のビジネス面と「マクベス」

(1846〜1847:32歳から33歳)

「アッティラ」のの初演を観るためにヴェニスに行ったアンドレア・マッフェイが、ヴェルディのミラノ帰路に付き添い、あとの看護はムチオに託した。ムチオは気を揉んでいたブセットの人々にこう報告する: 彼はかなり痩せたようですが、目はキラキラしていますし、肌の色も悪くありません。休養すれば、回復なさるでしょう」と。

ムチオの手紙はその後も順調な回復期間を説明している。数週間後、彼はバレッジにヴェルディの回復は順調で、体重も少し増えたと報告している。この間、彼は作曲や勉強は全くしないで、散歩をしたり、お好みの馬車で郊外までドライブしたりした。紳士淑女たちは、彼のご機嫌を取ろうと、競っていた。時には12時頃から、モンザ、またはカッサノかトラヴィアグリオへ船で出かけ、夕方5時ごろには帰宅して、夕食をとった。夜は早くベッド入り、よく睡眠をとった。「もし、このような日課を続けたなら、彼の健康は元に戻るでしょう」と彼は書いている。

事実、ルッカ社とは1848年のカーニバル・シーズンまたは1849年中に、オペラを作曲する契約をしていたので、そろそろと圧力をかけようと、契約の1回目の支払いをしようとした。が、ヴェルディは断る。時間はまだ十分にあるし、証拠として、医者の診断書を送った。それにはヴェルディの現在の体調では音楽を書くことは、健康に悪く、生命にかかわると厳かに書かれていた。ヴェニスから同じような手紙を英国の興行師、ラムリーにも送っている。しかし、ラムリーもルッカも真剣に取らなかった。

英国からラムリーは女王閣下と皇室一同を招いた「ロンバルディア人」の上演の模様を説明して、ヴィクトリア女王が拍手喝采したことを報告してきた。皇室からの賛辞を貰えば、全ての疾患は治るとラムリーはヴェルディに約束する。さらにロンドンはいつの季節でも、活気ある素晴らしい町だが、特に夏がいいと書いてきた。ヴェルディはゆっくりと段階的にすることもできた。そういうことも考えて、彼は返答する:ロンドンのような大都市を観ることに好奇心を抱いているので、普通ならルッカ氏との契約を遅らせることなどはしないのですが、現在の私の健康状態ではままなりません。完治するまで休養が必要です」と。 それでもラムリーはルッカに背中を押されていることもあり、熱心に勧めた。最終的には、彼は弟をミラノまで送って、ヴェルディと会見させたが、ヴェルディはロンドンへの旅についても、新作オペラについても話したがらなかった。時間はまだ十分あり、医師からの診断書は偽りのない証拠だと主張した。その時期はどんなオペラ制作の相談も延期された。彼は自分の言葉が疑われたことに嫌悪を示し、ミラノまできて、遠地のラムリーのエージェントのように振る舞うルッカを責めた。ラムリーはヴェルディの健康状態について、他の人が言うことを信用するほかないからだ。

医師の診断書というものは、当時あまり信用できなかった。特にオペラの国のイタリアでは、病状は誇張されるのが普通。その前の冬、ヴェニスでヴェルディは「アッティラ」を完成させようとしている時、病状は悪く、‘死にかけている’と言っている。ガリバルディは「自伝」の中で、若い時自分は‘致命的な傷’を負ったと書いている。であるからルッカが診断書を無視したことには、正当化できたかもしれないが、「アッティラ」の初演は2ヶ月半遅れて、3月だったし、7月になってもヴェルディは新作オペラの契約をしていない。パリ・オペラ座から新しい脚本が送られたが、断る。彼はナポリからの提案を待っている様子もあった。彼のコピー・ブックによると、待っている間、彼は「グランツ水」と称するもの、水とミルクを混ぜたもの、をまず1日に3杯、その後は4杯を飲むことになっていた。それから「運動をして、汗をかくこと」とある。

7月に再びマッフェイに付き添われて、レコアロというヴェニスアルプスにある鉄分の多い温泉で有名な村に行く。この旅は双方にとって、友情の証だった。マッフェイはヴェルディの健康状態に注意を払い、ヴェルディは別居したばかりのマッフェイの揺れた心情からの気晴らしを助けた。この別居に、誰も、マッフェイ自身も驚かなかった。彼に原因があったことは彼自身認めていたが、それでもマッフェイは動揺した。ヴェルディは伯爵夫人に「アンドレアは悲観にくれている」と書く。

この病身の男と悲観にくれた男の旅は、楽しいものではなく、山の空気の中で、散歩と水浴びで数週間過ごした後、ヴェルディは退屈した。彼の喉の痛みはまだ残っていたし、太陽に当たると頭痛も起こった。ジャーナリストたちとゴシップ欄は一時、彼が亡くなったと書いたり、次にはパリに向けて出発したとか書いたりしたので、ムチオは「マエストロの健康状態は良好でミラノを出発しました。もし病状がそれほど悪かったなら、レコアロにはいかなかったでしょう」と、彼の父親を安心させてくれるようバレッジに書いている。さらに彼はいい加減なゴシップ記事など気にしない方がいいですと付け加えている。可哀想なカルロ・ヴェルディ! 彼はムチオの言うように、大都市の安新聞のいい加減な記事で息子の健康状態を心配していたのだった。

ヴェルディはレコアロからミラノの戻った7月末、オペラの題材候補を三つ考えていた。そのひとつで、マッフェイが脚本を書くことに同意したのは、シラーの戯曲「群盗」を基にしたもの。これはオペラ、「イ・マスナディエリ」となる。もう一つはグリルパルツァーの「ディ・アーンフロ」で、ヴェルディは「アヴォラ」と題して、かなりの脚本を自ら書いたが、結局作曲には至らなかった。3つ目はシェイクスピアの「マクベス」を基にしたオペラ。これが最初に完成された。「マスナディエリ」の作曲も始めていた。一つはルッカとラムリーにあげ、ロンドンでの初演用に、もう一つはフィレンツェのペルゴラ劇場の興行師、アレサンドロ・ラナリに提案するつもりだった。

ラナリは興行師として、有能だった。6月ペルゴラ劇場で「アッティラ」を公演して、大成功だった。彼のアイデアだったか分からないが、彼がヴェルディに会いにミラノにきた時、彼はフィレンツェの有力者家族たちから、ヴェルディに対する最高敬意とフィレンツェ公演への期待を表明したアルバムを持参してきた。当然な結果として、ヴェルディはダンテとミケランジェロの故郷で、イタリアの歴史と文化において、重要な位置を占めるフィレンツェの町に憧憬を持つようになる。

ラナリがやったことはそれだけでなく、ペルゴラ歌劇団の中でどの歌手と指揮者を希望するか相談してきた。その中には、例えば、アンジェロ・マリアーニがいた。彼はまだ25才だったが、すでに国際的に有名になっていた。もともとヴァイオリンニストとして、訓練を受けたが、1844年にメッシーナで指揮を始め、1846年にはミラノにきて、レー劇場に登場、そのあとカルカノ劇場でも指揮をした。両劇場では彼はヴェルディのオペラ、「二人のフォスカリ」、「ロンバルディア人」、「ジャンヌ・ダルク」、「ナブッコ」を指揮し、「ロンバルディア人」では、かの有名なヴァイオリンのソロ前奏を彼自身が弾き、そのシーズン中最も騒がれた公演になった。ヴェルディはマリアーニを希望して、ラナリはそれに応えようとした。しかし、マリアーニのギャラは高すぎた。翌年、彼はフィレンツェではなく、宮殿劇場との契約でコペンハーゲンに行った。彼の努力は実らなかったが、ラナリは同情的な態度で接し、ヴェルディの創作意欲を活性化した。二人の間の、脚本家や歌手の選択についての手紙はそれがはっきり表れている。

アンジェロ・マリアーニ

それと比べ、ルッカはこのアーティストとの交渉にまた失敗している。彼はヴェルディを急がせようとしただけでなく、オペラの題材についても意見が分かれた。ヴェルディは最初、バイロンの「海賊」という詩篇に基づくオペラ、「イル・コルサロ」を考えた。トルコ人と戦うギリシャの海賊のロマンティックな冒険に満ちたストーリー。この詩篇はイタリアで人気があり、ギリシャ独立運動の鼓動が感じられたし、ガリバルディの南米での海岸から上陸作戦は、まるでこの海賊のように信じられた。しかしヴェルディはその後気を変えて、「イ・マスナディエリ」のドラマティックな筋を選んだ。彼は契約上、題材の選択権は彼にあると了解していたので、一応ルッカに指摘する。すると、驚いたことに、ルッカはそれに反対して、文句を言った。しかし、彼も、ヴェルディの意に反したオペラを強いることはまずいと判断した。しかし、二人の関係は不味くなり、それが原因で、ヴェルディはラムリーより、ラナリを選び、出版社もルッカ社でなく、リコルディ社を選んだのだった。

ここで、では「イ・マスナディエリ」と「マクベス」のどちらを誰に?が問われた。ヴェルディとしては、どちらでも、すぐに始められた。9月までに、彼は「マスナディエリ」の作曲に取り掛かったが、「マクベス」の散文体の脚本をピアヴェに送り、脚本化を依頼した。選択決定はラナリが春のシーズンにどの歌い手を確保できるかにかかっていた。「マスナディエリ」には主演にテノールが必要で、「マクベス」は、ヴェルディは聴覚的にバリトンと決めていた。

「マスナディエリ」に欲しかったテノールはガエターノ・フラッチーニで、当時一番のテノールで、「アルツィーラ」の初演で歌った。しかし、彼はその時ほかの契約が入っていた。2番手はナポレオン・モリアーニだったが、ヴェルディはその夏にベルガモで彼の歌うのを聴く機会があり、彼の声は落ちていると感じた。最後にメレッリがモリアーニをスカラ座に取ったので、結果的にラナリとヴェルディは、「マクベス」を進めることになる。これが決まると、ほかのことはそれなりにおさまってくる。ラムリーはミラノまできて、ヴェルディと契約を詰め、もしナポリのフラウトが1847年の春にサンカルロ劇場での新作オペラ制作の契約を解除してくれたら、ヴェルディがロンドンに行って、「マスナディエリ」の舞台を監督して、6月末から7月初めに初演に持ち込めると提案する。このスケジュールだと、「マクベス」の後、もうひとつオペラを作曲して、演出するには3ヶ月しかないことになる。イギリスへの旅行も時間がかかる。しかし、脚本はすでに手のうちにあり、作曲も始めていたので、彼は自信を持って、可能だとした。「イル・コルサロ」については、新しいオペラをスタートする時間は全くないと言うことで、取りやめにする。フラウトにとって、失ったものは、次の「アルツィーラ」か?それとも次の「エルナニ」だったか?彼は悩む。

ヴェルディの興行師や出版社との契約に関する質問、約束、半約束は、非常に込み入っていて、アーティストであり、ビジネスマンでもある彼が、興行的に成功するオペラを演出しようとする際の永遠の問題が見える。興行師は契約で動かなければならない。それしか歌劇団をまとめる方法はない。しかし、重要な点において、契約は意味をなさない。興行師はたとえ裁判所の応援を得ても、ソプラノに上手に歌わせることや、オーケストラにいい加減な弾き方をしないように命令することはできない。究極的には、出し物の芸術的な成功は、興行師が作り出す雰囲気にかかってくる。よい興行師はそれをよくわかっているから、いかにその権利があるとしても、参加者の誰とも、犬猿の仲にならないように気をつける。多分ナポリのフラウトは、1847年の春のシーズンには、ヴェルディの心はすでにどこか他にあり、いくら手紙のやり取りの文言を責めても、ナポリに連れてくるのは、まずいと分かったようだ。

作曲家は違う問題を抱えている。ヴェルディのように、一度に3つ、4つの題材候補を考えている作曲家でも、最終的に興行師と契約を結ぶまで、どのオペラが契約に載るか分からないのだ。当時オペラ作曲は書斎でされるものでなく、劇場でされるものと誰もが思っていた。後から見ると、この伝統はこの時期に変わりつつあったが。ヴェルディと同時代の作曲家は、劇場に脚本を持って出かけ、到着してから、仕事にかかるのが一番よいと考えていた。そして、オーケストラ部分と特別アリアなどは、リハーサルが始まってから作曲されるものだった。その結果、脚本について、適当な歌い手について、作曲家と興行師の間には、おびただしい回数の手紙が行き来する。この萌芽段階の話し合いから、多くの約束や半約束が生まれ、遂行されないものも出てくるし、また片方が自分の要求を通すため、強要する場合も出てくる。

ヴェルディはこのシステムの中で泳ぐのが上手とは言えなかった。これに勝つにはある種の能力と駆け引きをする力が必要で、彼にはそれらが欠けていた。うわべだけの話、ちょっとした脅し、約束したものとちょっと違うことを受け取らせる術、端的に言うと、約束はするが、実際にはそれとずれたものでかたづける。ヴェルディは議論が煮詰まってくると、合意したことを文面で残そうとした。そうすれば、お互い権利ははっきりする。彼の努力は信用につながった。彼は言葉通りにやった。しかし、度々劇場でのオペラを制作に避けられない問題を必要以上に法的に扱わないのが、このビジネスのやり方だった。

ヴェルディはルッカにこう書く: ラムリーに手紙を書く時、いつぞや極秘の会話で、彼が私のオペラに2人の歌手を約束したことを、私は11月11日の手紙で念を押しましたが、そのことを忘れないようにしてほしいと書いてください。どの歌い手になったか、それに私が彼の歌劇団から歌手を選べる権利をくれるという約束をラムリー氏自身の手紙で知らせてほしい」と。

極秘の会話などは、裁判所では全く意味をなさないから、ここはヴェルディの完全な負け。多分ラムリーはため息をついただけで、将来的には、ヴェルディは権利にうるさいことから、適当な歌い手の名前を渡しただろう。ソプラノのブラムビラとテノールのフラスチーニだった。オペラが上演された時、この歌い手は両方ともキャストに入っていない。ヴェルディも文句は言っていない。ラムリーがもし手紙のことを覚えていたとしても、あれこれやっているうちに、なんとか収まるものとニヤリとしたかもしれない。

ヴェルディは10月に「マクベス」の作曲に取り掛かった。初めはなかなか進まなかったが、彼は着実に進め、彼の1日に、あるルーティーンが出来上がってきた。朝は早く起き、午前中3、4時間ピアノに座ってか、ムチオと一緒に長いテーブルに座って仕事をした。ムチオは音楽の勉強をしたり、ヴェルディのために手紙を書いたりした。それから昼食をとる。ほとんどいつもムチオと一緒に。その後1時間ビリヤードで遊び、また仕事に戻って、夕方まで続けた。夜は劇場に行くこともあるし、時々、アッピアーニ夫人か、マッフェイ伯爵夫人を訪ねた。そのときムチオを連れて行くこともあった。

ムチオはミラノで人生を楽しんでいた。バレッジがブセットに音楽教師の職に空きがあり、そのためのコンテストがあることを知らせてきたが、ムチオは断る。彼はその理由として、単純に恩師との人間関係を挙げた。マエストロ・ヴェルディはこれまでに何千という好意をしてくれたから、今ここで彼を去るのは、恩知らずだと。彼には忠誠心を尽くす人が2人いた。マエストロと彼の家族だった。しかし、彼は家族はすでに2年待ったのだから、もう数年待てるのではないか?母親にそう説明してほしいとバレッジに頼む。彼は母親にきついことは言えない人間だった。

バレッジはムチオに帰郷を強要はしなかった。彼にはヴェルディとミラノの音楽界の魅力を理解できた。彼はそれにブセットのような町の音楽レベルが下降していることに気づいていた。プロヴェジの頃より、音楽への興味は失われていた。楽器ができる人の数は減り、またできてもあまり上手でなかった。多分政治的な問題で、皆そちらに時間とエネルギーを取られてしまったか、産業革命の結果、都市は巨大化し、アーティストたちは数少ない大都市に集中することになったのか? 10年前、ブセットはヴェルディを引きつけておくほどの活動がなかったが、ムチオの時代には彼すら引きつけられなくなっていた。しかし、ムチオの母親を納得させるのは大変だっただろう。

ムチオはミラノに残り、12月にバレッジにこう書いている:「マクベス」はどんどん良くなっています。なんと言う素晴らしい音楽!貴殿は絶対お気に入ると、私にはわかります。このような音楽を書くには、たゆまぬご努力が必要で、代償が求められます。彼は着実に励んで仕上げていらっしゃいます」と。

その代償の一つは、例によって喉の痛みだった。しかし「アルツィーラ」と「アッティラ」作曲の時に学んだように、病気が大損害になるのを極力避けるため、ペースを落として進めた。彼はパリでの「フォスカリ」公演とスカラ座での「アッティラ」公演のために、多少の直しを入れたが、「マクベス」を終えるまで、新しい仕事の話を断った。断った仕事の一つは、ちょっと惜しいものだった。それは新ローマ法王、パイアス9世の選出を祝う催しがローマであり、そのためのカンタータ作曲の依頼だった。この法王はのちのピオ・ノノである。

パイアス9世、愛称ピオ・ノノ

その前の法王はグレゴリー16世で、1846年6月に81才で亡くなった。亡くなった時にはすでに隠遁生活に入っていた。パルマ領主のマリールイーザが革命派の蜂起で、パルマからピアチェンツァに逃げた1831年、グレゴリーは就任からまだ3週間内だったが、さらなる蜂起を恐れ、革命派のローマ、リエティ、とオルヴィエトを除く全ての教区内の政府を超保守に置き換えた。グレゴリーは勉学を好むカマルドリース派僧侶で、メッテルニッヒにオーストリア軍遠征で事の鎮圧を依頼した。それ以来、彼は反抗的な都市を、牧師と秘密警察を使って鎮圧した。その結果、何百という人々が内密に逮捕された。ピオ・ノノもその中に混じり、反対運動を始めたが、グレゴリーは全く同情を示さず、牢獄に放り込むか、亡命に追いやるかの政策を継続したので、イタリア人以外でも、彼の後継者にはもっと革新派を希望していた。

新法王のピオ・ノノは54才とまだ若く、それ以外については、就任直後は知られていなかったが、ピオ・ノノが大司教だったボローニャ近くの小さい町、イモラから、彼は穏やかな市政者であり、慈悲深く、革新的だという報告が入る。そして選出から1カ月後、1846年7月17日に、彼は1831~1832年の革命派蜂起で捉えられていた千人以上の政治犯を恩赦して、ローマとメッテルニッヒと全ヨーロッパを驚かした。

この政治的決断は、おそらくピオ・ノノ自身が予測した以上の反響を呼んだ。彼は多分、彼の領地国の不幸な市民を恩赦にするくらいに考えていただろう。このニュースが広がると、彼が望んだかどうかは別に、彼は政治的なシンボルとなり、リフォーム運動のリーダーとなる。全イタリアにおいて、彼の名前は政府反対派の旗印に縫い付けられ、壁の落書きの一部になった。フィレンツェでは、「エルナニ」の公演中に、第3幕のカルロ5世を讃えるシーンは、ピオ・ノノの名前に変えられた。ローマでは、彼を迎い入れるクイリナル宮殿の前に、毎晩大勢の民衆が集まった。彼は歴史上、最も人気の高い法王となり、その夏の間に彼がしたことで、さらに人気が高まった。彼はローマの街にガス燈をつけること、鉄道を敷くこと、農業の改善などを語った。革新派の誰もが、彼は進歩的な法王として、法王庁を中世から脱皮させると讃えた。

いくつもの理由で、当時法王の政治的な位置付けは高かった。彼はもちろん、イタリア半島に散らばる広大な法王領国のヘッドであったが、それ以上だった。ジオベルティという牧師は、「イル・プリマト」という本の中で、イタリアが外国勢力から独立するには、法王を大統領とした連合国家を形成するべきと書いている。

そのような連合国家のアイデアは、民衆の間に極度の興奮を生んだ。そのアイデアは町の全ての階層、つまり牧師層、農民層、政治的革新派層全てに、現実的な意味を持つことだった。民衆全員が一体となって、革新派の法王の後につき、オーストリアを追い出し、無血で、経済的な革命を起こせるのだ。彼の1年目、人々は彼の一挙一動に注目した。1840年代において、彼の法王選出ほど、イタリアで広く知れ渡り、称賛された出来事は他になかった。1周年記念日には、イタリア半島のいたる所で、松明が焚かれ、教会で「テ・デュム」が歌われた。

そういう状況の中で、ヴェルディはカンタータの作曲を依頼されたのだった。多分、ピオ・ノノの栄光と名誉を讃える20分くらいの曲。合唱をバックに、2、3のよいメロディで繋いだ、歓喜の曲を作曲すればよかった。その栄誉は計り知れないし、彼の祖国愛とイタリアの歴史的瞬間という思いにもアッピールしただろうが、彼は断った。彼は健康管理のために自制するようになったところだった。彼は自分の健康に非常に神経質になっていたし、彼は「マクベス」に没頭していた。

ヴェルディはまたスカラ座での「アッティラ」公演の際、指揮することを、メレッリが要請してきたが断った。メレッリは経済的な破滅になりそうという噂もあった。彼のミラノとウィーンでの興行は成功とは言えなかった。そしてスカラ座のカーニバル・シーズンを乗り切るため、自宅を抵当に入れたか、売却したらしい。そういう状況に置かれていたにも関わらず、「アッティラ」の上演権を握っていたヴェルディとルッカは容赦無く、高額を要求して、警察長官が介入したほどだった。

どう考えても、この時ヴェルディのしたことは、意地悪としか言えない。彼は後年の行動から、お金に頓着しない方だった。がこの時は、彼は成功のきっかけを作ってくれた恩人の運が悪い時に、さらに蹴落とす行動に出た。ヴェルディの人生の中で、こうした報復的な行為に出たことが数回ある。最も適切な説明は、彼のアーティスティックな信念から来ているということ。ヴェルディはメレッリが故意に、時には不必要に、デタラメなオペラ興行をしたと感じていた。レ劇場やカルカノ劇場はマリアーニの指揮で、小さいスケールでもよい演出のオペラができることを証明している。なぜスカラ座でマリアーニが指揮をしないのか?彼のオペラのテノール役に、なぜ声が出なくなっているモリアーニを相変わらず、使うのか?フラチーニのような新鮮な声のテノールがいるというのに?

ヴェルディがメレッリ演出の「アッティラ」を観た時、キャストは、テノールを含めて、良かったことを認めた。が、演出には激怒した。ヴェニスのラグーンに朝日が登ってくるシーンでは、幕が開いた時、音楽が始まる前に、すでに朝日が登っていた。音楽が荒っぽくなっても、海は静かなまま、嵐の間中、太陽は春の陽光のように輝いていたし、隠遁者たちの小屋もなく、僧侶に祭壇も用意されず、またアッティラのバンクェットでは、松明も樫の篝火もなかった。つまり、最低の演出だった。

「マクベス」上演の契約をリコルディ社と交渉した時、「アッティラ」の上演に何が起こったかを説明して、こう強調する:私は、従って、繰り返しますが、スカラ座での「マクベス」公演は許可できないし、許可しません。少なくとも、何かの改善が見られない限り。将来的に、貴社の方向づけを考えて、私は「マクベス」に関しての制限は、これからのオペラすべてに適用されるべきと考えます」と。事実、ヴェルディのスカラ座との関係は1869年まで再開されなかった。スカラ座では彼のオペラは、違う経営陣のもとで、引き続き、上演はされたが、新作オペラとか、彼の指揮でという公演はなかった。リミニですら、その機会に恵まれたというのに。

よい演出とはどういうものか、メレッリに見せる決意で、ヴェルディは「マクベス」上演のありとあらゆる点において、注意を払った。彼はロンドンに手紙で、バンクォーの幽霊はどう舞台に登場してくるのか、問い合わせている。彼はその時代の衣装を調査し、舞台の模型を作り、歌い手の動きを図で示し、舞台装置のデザイナーにスコットランドの歴史を勉強するように言う。「マクベス」の時代はオシアン伝説やローマ帝国よりずっと後の時代だと教える。さらに、デザイナーが気に留めてないことを知ってか、英国の同時代の王様のリストを書いて渡す。「1039年の英国では国王はハロルドで、ヘア(うさぎ)の王と呼ばれ、デンマーク人、その年にハーディカヌート、懺悔聴聞牧師オドアルドと言う同母異父の弟に譲る」。本当はハロルドは「うさぎの足」と知られ、ヴェルディのこの不幸な翻訳の間違いによって、英国全体から名誉毀損で責められることになる。が、このとき、デザイナーは作曲家の学術知識に驚き、質問などはしなかった。

歌い手とは常に問題が起こる。この時は、バンクォー役のバスで、第2幕で再登場するが、数分のアリアしか歌わない。彼はそのあと幽霊としてでも、なぜ歌わないのか、理解できないと言うもの。あまり重要な役ではないから、もっと重要でない歌い手にやらせたらどうか?すぐにそうではないと気づくのだが。ヴェルディにとってソフィア・ロエヴェがマクベス夫人を歌えないのが残念だった。彼女の声は突然、出なくなり、翌年、引退し、リヒテンシュタインの王子と結婚する。ロエヴェの代役はマリアンナ・バービエリ・ニニだった。「マクベス」はフェリーチェ・ヴァレシで、彼はこのあと、リゴレットと「ラ・トラヴィアータ」のジョージォ・ゲルモンと3回も、ヴェルディのオペラの初演で役を貰った幸運な歌手になる。

1月にはヴェルディはオペラの全体を組み立て、オーケストラの作曲に取り掛かる。いつもは劇場に着いてから、始めるのを、今回は順序を変えたのだった。そのほかの順序もかえる。それまではアリアをまず作曲して、繋げていたのを、この時から、アリアの最終版は最後に持ってきた。多分、彼はアリアがどういう曲かはわかっていたが、前奏曲や、歌い出しの部分、終わりの部分によって、アリアの重点を軽減して、そのシーンが全体にまとまった形になるようにした。音楽的パターンからドラマへバランスが移行したのだ。

フィレンツェには初演日の1ヶ月前に到着し、すぐにリハーサルを始める。彼はムチオにピアノ伴奏をしてもらうため、同行させる。ソプラノのバルビエーリ・ニニが数年後、この時の1ヶ月に亘るリハーサル風景を記述している。彼女は第1幕の彼女とヴァレシとのデュエットのリハーサルをこう書いている。


ヴェルディの言葉によると、「歌うというより、話すように」なるまで、リハーサルは、多分150回も繰り返されました。さらに、考えられますか?リハーサルの最後の夜、すでに観客は劇場を埋め、アーティストたちは衣装をつけるよう、ヴェルディは言い渡します。皆反対する態度でした。皆衣装をつけて、準備万端、オーケストラはピットに入ってコーラスも舞台に立っているのに、ヴェルディは私とヴァレシに舞台の袖で彼についてくるよう言いました。そこで、彼は中二階のピアノを伴奏に、あのデュエットの最後のリハーサルをしたいと言うのです。
「マエストロ!」私は抗議しました。「私たちはすでにスコットランドの衣装をつけています。どうやってリハーサルができるの?」
「その上から、マントで覆ったら」
ヴァレシは、この変わった要求に迷惑した様子で、「しかし、私たちはすでに150回もリハーサルしていますよ、まったく!」と声をあげました。
「私はそうは言わない。30分以内に、151回になるからだ」とヴェルディ。
彼は私たちが従うほかない独裁者で、ヴァレシがマエストロの後について、中2階に行く途中の彼の暗い表情を、今でも私は覚えています。あとでダンカン王を殺害したように、刀の柄に手をやり、ヴェルディを殺害しそうでした。
しかし、ヴァレシですらあきらめ、151回目のリハーサルが行われました。観客は待ちきれず、ざわざわ騒いでいました。しかし、あのデュエットが熱狂的に受け取られたなどと言う批評は、まったく当てはまりません。あのデュエットは信じられない、まったく新しい、想像できなかったもので・・。


3月14日の初演は成功だった。ヴェルディの要請で初演を観に来たバレッジは、ヴェルディが舞台に呼び出されたカーテン・コールを、その晩38回数えている。バービエリ・ニニは夢遊病歩きのシーンの後、ヴェルディが彼女の楽屋にやってきたところを、こう書いている:拍手喝采の嵐がまだ止まない時、私は自分の楽屋で、震えが止まらず、疲れ切った状態の時、ドアが開くと、ヴェルディが半分裸の私の前にいました。彼は大げさな身振りで、何かを言おうとしましたが、言葉が出てきません。私は笑いこげ、泣きながら、私も何も言えませんでした。しかし、彼の目は真っ赤でした。彼は私の手を握り、きつくきつく握りしめてから、部屋を出て行きました。この瞬間、あの何ヶ月にも亘る厳しい練習と不安の連続の何倍ものに報われた喜びで感動しました」と。

10日後、ヴェルディはすでにブセットに戻ったバレッジに手紙を書く。


1847年3月25日、フィレンツェにて

親愛なる義理の父上へ、
本当の意味の父親であり、長い間の後援者であり、友人でもある父上に、私は長い間自作オペラを献呈することを考えていました。それは私がもっと早くするべき責任で、状況が許せば、したのですが。今ここにある「マクベス」は、私が自作オペラの中で最も誇りに思っているオペラで、父上に献呈するのに、最もふさわしいオペラだと考えます。この私の心の底からのお願いを、どうかお受け取りください。それによって、私の感謝の気持ちを父上への愛情の表明と理解くださること、希望します。親愛なる心を持って、
 G.ヴェルディ


初演の後には、ヴェルディはフィレンツェの街を楽しむことができた。フィレンツェ人たちは皆、彼を知りたがり、またあれこれに招待してもてなした。大伯爵はピッティ宮殿でのレセプションに招待したし、知識人たち、彫刻家たち、歴史家たち、詩人たちは交代して、彼を街の観光ツアーやギャラリーに連れ出した。彼が一番印象づけられたのは、ミケランジェロの作品だった。友人たちは彼の絵画と彫刻に関しての興味深さに印象づけられる。

「マクベス」の公演は毎回、拍手喝采を受け、夏にはイタリアのほかの劇場でも公演されることになった。しかし、このオペラは彼の最も人気のあるオペラではないことがすぐに判明した。例えば、パルマ市では、「エルナニ」、「ナブッコ」、「ロンバルディア人」、「二人のフォスカリ」よりも上演回数は少なかった。もちろん不成功ということは絶対になく、ほかのオペラと同様、世界中で公演された。しかし、ロンドンでも、パリでも上演にならなかった。レパートリーに入らず、どちらかというと珍しいオペラとなった。このことで、ヴェルディは悲観することになり、20年後の1865年に、かなりの直しを入れたものが、パリで上演されたが、その時の評判も今一つだった。この改訂版がイタリアではレパートリー入りになったが、他ではダメだった。ところが、1930年代に突如としてドイツで、ヴェルディ・オペラのリバイバル上演の一つになり、それからは初めて、世界の重要な劇場でレパートリー入りになる。ヴェルディは喜んでいるだろう。このオペラがやっと「ロンバルディア人」や「フォスカリ」を追い抜いたのだ。

この時の手直しは、現代人に耳には、改良だと聞こえる。そして、この改訂版が現在上演されている。ヴェルディがこのオペラの一番肝心な場面と信じた第1幕の問題のデュエットも、夢遊病のシーンも改訂されず、そのままで残った。なので、これらを詳しく比べることで、1847年にヴェルディがしようとしたことがわかり、さらにこのオペラは初演で成功したにもかかわらず、あまり人気が出なかった理由が見えてくる。

マクベスの第1場と2場を、エルナニの同様の場面と比較してみると、ヴェルディがオペラのフォーマットを変えようとしていることがわかる。最初のシーンのスロー、ファーストのパターンは同じだが、マクベスではその次に2人を登場させ、魔女たちにそれぞれ異なる予言をさせる。このシーンはオペラの話が、もっとドラマチックなことを見せる場面。マクベス夫人はエルヴィラと同じように登場する。しかしマクベス夫人のキャバレッタは、ダンカン王がその晩泊まりにくるという知らせがきっかけで、彼を殺害しようという決断の時に歌われる。エルヴィラの場合には、早いアリアには、そのようなドラマチックな内容はない。ヴェルディはここの部分では、古いファーマットをうまく使っている。しかし、マクベスの登場から、彼は新しいフォーマットでメロディックなレチタティーヴォ書いている。ほかの作曲家も、彼自身も少し使ったことはあったが、このような大事な場面ではない。マクベスはアリアを始める前に短刀を見つめる。そして、次に続くデュエットでは、会話のやり取り的で、一緒に歌うことは少ない。当時うす暗い劇場内で、好きなアリアのとき以外は、隣の人とお喋りするのが普通だったが、こうなると、観客はもっと注意を払って観ないといけない。注意を払っても観客にはこのキャバレッタは解りにくい。普通なら、騒ぎと盛り上がりで終わるところ、ヒソヒソ声の会話で終わっているので、拍手喝采を入れにくい。これは歌い手にとっても、厳しい。彼らは情熱的に終わることで、観客を熱狂させることに慣れているし、そう訓練されている。ヴェルディは間違いなく、歌い手に何回もリハーサルさせた。殺人の後の興奮した状態で、舞台に登場するが、彼らはやった行為(殺害)に恐れ慄き、ヒソヒソ声とジェスチャーで演技する。ここがキャバレッタの終わりになっている。

ヴェルディがここで音楽的にも転換を試みていることが、マクベス夫人のアリアの最後に現れる。第1幕でヴェルディはエルナニのように、スロー、ファーストの2つのアリアで彼女を紹介している。そして、キャバレッタは早いスピードで、しっかり歌って終わる。

両方とも、古いカストラートに近い歌い方だ。この歌い方を嫌う人はすぐに、マクベス夫人は王を殺害する計画を、城内で高々とふれ回っていないことを指摘する。好きな人は、それに対して、「しかし、音楽的にはいい。この場の夫人が興奮している様子がちゃんと表現されている」とかばう。

ヴェルディは夫人の夢遊病歩きのシーンの終わりを、古いスタイルでよく使われるような鮮明なメロディで締めくくっているが、基本的には別物である。

その12年前に、ドニゼッティが「ランメルモールのルチア」でルチアが気が狂うシーンに、この古いスタイルで使っている。トリルの後、おきまりの見せ場になる。高いフラット音を出来限り大声で、できるだけ長く歌った後、気絶して倒れる。ヴェルディの夢遊病歩きのシーンは、伝統的にソプラノの見せ場になるところだが、大声でもなく、トリルも無く、ランもなく、メロディをゆっくり、眠そうに、不安な様子で歌うだけ。観客はこのような終わり方では、ドラマティックな展開には聞こえず混乱してしまう。

もちろん、場面によくあったメロディーもたくさんある。バンクォーを殺害しようと集まる暗殺者たちのコーラス、亡命したスコットランド難民の祖国愛のコーラス(多いに同情が集まる)、それに激しく踊る魔女たちの音楽(これはジャンヌ・ダルクの天使のコーラスよりもずっといいというわけではないが)など。現代人の耳には、この部分は時代遅れで、もっとドラマティックな音楽が必要だと感じる。もし、この混ぜこぜスタイルの「マクベス」が、それより後にくる、「リゴレット」や「トラヴィアータ」と肩を並べるものとするならば、「マクベス」はオペラをドラマ化する早期の試みとして、生き残ったと言える。

なぜヴェルディはオペラの中にそれほどまでにして、ドラマを持ち込もうとしたかはミステリーである。ロッシーニのウイリアム・テルに遡って、ドラマの選択を分析してみると、その頃に勝利を勝ち取る話の傾向があることはある。しかし、それはヴェルディがイタリアン・オペラの最も偉大な音楽家で、結末がわかっているから、それほどの意味はない。ほかの作曲家、例えば、ベルリーニもシェイクスピアを求め、ロミオとジュリエットを見つけている。ヴェルディだけが、マクベスを取り上げた。主役にも、準主役にも、アツアツの恋愛関係はないドラマ。主人公は、悪くない結婚をしている中年男で、人生の悲劇を流血と暴力で埋め尽くした。全てのトラブルは邪魔の入った恋愛関係の周辺で起こるのが当たり前のロマンティック期の真っ最中に、そうしたドラマのオペラをやったのだ。

もう一つの謎はなぜヴェルディは、マクベスに限らず、ほかのオペラの英雄にも、バリトンを選んだのか?ここでは当時の傾向という回答はない。ヴェルディはバリトンを使った役柄は特異で、またその声に託した期待も、だ。ヴェルディの前にも、バリトンやバスが歌う主役的役はある。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」と「フィガロ」がその例で、現在でも両方とも、よく歌われている。しかし、この使い方はヴェルディのオペラでは不可能。というのは、彼はバリトン声域の高い部分を主に、またバスは低めの声域で曲を作っている。当時批評家も歌い手の多くも、それではバリトンの声の良さを台無しにしていると叫んだ。しかし、そうではなかった。現代において、ヴェルディのバリトン役を歌える歌手を探すのは、テノールよりも簡単なのだ。当時オペラの伝統で、主役はテノールが多かったため、よいテノール歌手がいた。それではなぜ、ヴェルディは彼の主役にバリトンが向いていると思ったのか?タイトル役だけを見ても、ナブッコマクベスリゴレットボッカネグラファルスタッフと、成功の始めと終わりのオペラが入っている。

この質問に対して、確実な回答はないので、想像することになるが、ヴェルディの生い立ちが、ほかの作曲家と違う点が挙げられる。彼は稀な農村出身で、農産物集約地に18才までいた。当時の作曲家のほとんどは、都会のミドル・クラス出身。しかも音楽家の家庭出身も多い。ヴェルディは田舎の子供として育ち、数年おきに洋服のスタイルが変わる都会とは縁のない生活だった。演劇面をみると、ブセットにはたまに廻ってくる移動オペラ団の公演があるのみだったから、彼にとって、劇場の舞台で見る世界は現実ではなかった。ヴェルディにとって、大げさで極端な劇中の話は、現実とかけ離れたものだった。ヴェルディはブセットの下宿部屋で文学を読んだ。人間の行動がどんなものかは、彼の周りで起こっている農町民たちの日常にも起こった。それで、多分、ロミオとジュリエットもいいが、シェイクスピアのマクベスが魅力的に移ったのだろう。

同様に、農村の環境はヴェルディの耳に影響し、役柄の多くはバリトンが向いていると思わせた。テノールの声というのは、演劇界が作り出した、模造の声で、めったに、生まれつきテノールはいなく、多くは訓練で生まれるもの。それでも多くの作曲家はそれが男性の自然の声かのように、彼らのために作曲した。都会生まれの子供なら、オペラをよく観に行って、それは当たり前と思っただろう。ヴェルディがブセット交響楽団や教会の仕事をしていたとき、町にはテノールはほとんどいなく、高い方のバリトンが多かったと思われる。

またヴェルディのように男性的トーンをオペラに持ち込んだ作曲家はいなかった。それはヴェルディのように農村で育ったものはいなかったからではないか?農村地帯では町の運営にも、教会でも、学校でも、農場でも店でも、男が全てを取り仕切っていた。今でもブセットの町に火曜日行くと、そこは大人の男の世界。朝10時には、農夫たちが集まり始める。皆ヴェルディが一生涯被っていたあの黒い帽子を被って。11時になると、町のメイン・ストリートは千人以上のそうした男たちが、ものの売り買いや、取引の話をしている。女性は見当たらない。子供達は家の中、車は通行止め。異様な光景である。が、その中から起こってくる騒音がもっと異様。あたり一面、低い声がボソボソ言っている。高い声はなし。12時なると、男たちは帰っていく。午後になり、シエスタの後、女性たちが現れ、道の掃除をし、子供達は自転車を乗り回している。

子供たちにとって、大人になった時に入る世界が、どんなものかの初歩教育にこれほどよいものはないのではないか?この光景が繰り広げられるのは、子供たちの目が届かないビジネスオフィスではなく、メイン・ストリートの真ん中なのだ。ヴェルディもそれを見たし、聴いた。彼は多分、人生には若いテノールが叫ぶ恋愛以上のものがあることを、学んでいた。彼はマクベスのような役の音域を探った時、ブセットの町で自信たっぷりに交渉する農夫の声域に聴いたのではないだろうか?

【翻訳後記】
ヴェルディは読書家で、最も敬愛する作家はシェイクスピアだったと、この著者は何回も書いています。そして彼の9番目のオペラに敬愛するシェイクスピアの戯曲を選び、初演では一応成功を収めます。彼としては自信を持って初演に臨み、それまでで一番誇りを持てる作品だと彼は信じ、お世話になってきた義父に献呈するに相応しいと考えますが、一般の評価は今ひとつで、20年後、大幅な改訂したものも、それほどの評判にならず、彼は失望します。

彼がどれだけ読書家で、クラシック文学を好んだかを裏付けるものが次のリストです。これはこの著者ジョージ・マーティンがこの本のアペンディクスの中に入れたもので、読者からの反応が一番あったと彼は書いています。それをここに載せます。

ヴェルディのサンタガタの自宅のベッドの横にあった本箱の本リストとは:

[上段]

  1. モーツァルト、ハイドン、ベートーベンの弦楽四重奏曲の全て(これらは皆ポケット版という小型で簡単な装丁の本。彼は出かける時にいつもこれをポケットに入れていたという)

  2. アンドレア・マッフェイ翻訳によるイタリア語版シラーの戯曲全集(第1巻と2巻は1冊に装丁され、第3巻と4巻は彼の図書室にあり、時々彼は入れ替えていたよう)

  3. ジュリオ・カルカーノ翻訳によるイタリア語版シェイクスピア全集

  4. ダンテ全集

[第2書棚]

  1. アンドレア・マッフェイ翻訳によるミルトンの「失われた楽園」のイタリア語版

  2. カルロ・ルスコーニ訳のイタリア語版シェイクスピア全集

  3. カルロ・ルスコーニ訳のイタリア語版バイロン全集

  4. キング・ジェイムス版「聖書」

  5. 重要事件とその日付辞典(6巻)

  6. フランス語ーイタリア語辞典3冊

  7. アミントーレ・ガルリによる Esterica della Musica(しかしこれが出版されたのは1900年だから、差し替え用として入っていたらしい)

[第1書棚]
この書棚にはいつも違う本が入っていた様子。彼が亡くなった時点に乗っていた本はほとんど皆近日中に出版されたものばかり。全部で41冊あり、彼と彼のオペラに関する本の贈呈版で、読まれていない様子。彼が読んだとみられるものには:

  1. Histoire de La Notation Musicale bu Earnest David and Mathis Lussey

  2. Dell’ Udito Schediasmi Musicali by G. Branzoli

  3. Riccardo Wagner, studio critico-biografico by E. Schure

  4. Impressions Musicales et Litteraires by Camille Bellaigue

  5. Etudes Musicales et Nouvelles Silhouettes de Musiciens by Camille Bellaigue

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現代において、「マクベス」程、舞台、映画で再制作されている戯曲は他にないと思います。黒澤明の映画もあります。それくらい、この戯曲は人間の心理をよく掴んで、ドラマを展開させていると思います。10世紀ごろのスコットランドの王家で、ちゃんと系図に残っている実在の話を元にしています。実際にマクベスはスコットランド王国の王にはなり、バンクォ―の子孫がその後の王家を継いでいるそうです。

このオペラは4幕10場というシーン数の多いもので、それを2時間半にまとめ上げ、それぞれユニークなメロディーが全体に散りばめられた秀作だと私は思います。著者が言うドラマのシーン中心のオペラ第一号です。

さて、YouTubeで、良いvideoを探してみました。このオペラはヴェルディの26オペラのうちで、9番目の人気ですから、現在でも大オペラ・ハウスでは定期的に上演されているので、CD、DVDを探すのは問題ないと思います。私はメトロポリタンの制作が好きです。実際に2014年にオペラ・ハウスでアナ・ネトレブコのマクベス夫人で観ました。その時彼女の悪女ぶりが評判になりました。その後、トーマス・ハンプトンのマクベスとドミンゴのものも観ましたが、私はメッツの制作の方が良いと思います。その理由はアナ・ネトレブコだけでなく、マクベスにZeljiko Lucicという東欧系のバリトン、バンクォーにルネ・パッぺ、マクダフにジョセフ・カレハと、的役の一流歌手が歌っているのです。さらにドラマは第2次大戦前くらいに設定され、それに合った服装、背景。魔女たちはウールのコートやスカートにソックスとヒールを履いたおばさんたちで、なぜかヴェルディの軽快な音楽に合っているのです。また第三幕の魔女を再び訪れたマクベスに8人の王を見せる場面が短くて、全体の流れの邪魔にならないこと、森が動いたら、注意しろと魔女に忠告されていて、そのように見えることなど、楽しめます。
音楽的には、これは音楽ドラマで、魔女のシーン、マクベス夫人の3つのアリア、悲しみと哀れみの難民のシーンなど、特徴あるメロディーがリピートされます。夢遊病歩きのシーンに医師と看護婦の会話が出て来たり、現代風な雰囲気を醸し出しています。

そして、マクベスはスコットランドの王になるが、バンクォ―はその後に続く王様の父親になるとか、女から生まれた者には殺されないとか、森が動かない限り、負けないとか、言葉の謎解きがテーマにあり、それに沿って筋の展開を追うことも面白いのは、さすが原作シェイクスピアならではということでしょうか?

ヴェルディの生存中に、このオペラがあまり成功しなかった理由をこの著者は丹念にそのフォーマットをエルナニと比較して、解説しています。ヴェルディは毎回、新しいことに挑戦した作曲家なのです。当時のオペラ・ファンはすぐにはついて行けなかったと言うことでしょう。

まず、前奏曲を聴きましょう。何か不吉なことを予想させるメロディーです。

前章までバリトンのアリアのvideoを多く入れて来たので、この章ではマクベス夫人の有名な3つのアリアを入れましょう。まずは第1幕第2場で、マクベスからの手紙を読んだあと、王位獲得の野心を歌います。

歌うアナ・ネトレブコは悪女というより、高慢な性格のオペラ歌手で彼女の本性が出ていると私は思います。そういう意味で的役です。

次に第2幕第1場、ダンカン王の息子マルコムが父親殺しの濡れ衣を着せられて、英国に亡命、マクベスは無事スコットランド王になりますが、バンクォーの存在が気になり、夫人と共に彼と息子殺害を決めた後、マクベス夫人は「日の光りが薄らいで」を歌います。

これは1976年のスカラ座公演で、シャーリー・ヴェレットが歌っています。

ついでにこの後のシーン、王として、諸侯を集めての晩餐会のシーンを入れます。

ちょっと古いですが、さすがスカラ座公演、舞台や全体の演出は素晴らしいと思います。マクベス夫人は乾杯の音頭をとりますが、そこにバンクォーを殺害した暗殺者が現れ、マクベスは報告を聴きます。すると彼にだけ血だらけのバンクォ―の亡霊が見え、彼は狂乱します。

最後に第4幕第2場のマクベス夫人の夢遊病歩きのシーンです。

コンサート形式でレナータ・スコットがメッツ・オペラのジェームス・レヴァインの指揮で歌っています。このvideoの良いところは、暗い舞台と脇役の医師と侍女のセリフが入っているところです。このシーン全体(11分)に流れるオーケストラの伴奏で、このシーンが全く別個の場面として、第1場と3場の群衆のシーンの間に上手に嵌め込まれていると思います。

そのほか、魔女たちのコーラス、バンクォーのアリア、第4幕のスコットランド難民のコーラス、マクダフのアリア、最後のスコット民衆の祖国再建を誓うコーラスなど、それぞれのシーンを印象づけるメロディーの連続です。これもヴェルディにしかできない芸当だと思います。著者も後の章で、キャッチーなメロディーを作る才能について書いています。なぜ可能なのか、もちろん答えはありません。それが才能というものなのです。明らかにヴェルディにはそれがありました。そのミュージックを鑑賞できる私たちは幸せです。

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