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人間ヴェルディ: 彼の音楽と人生、 そして その時代 (16)

著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子

出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年


第二部 ヴェルディアン・オペラ確立期


目次
第16章: パリとミラノ、1848年という年
1847〜1848年 33歳〜34歳

パリでの夏。パリ・オペラ座で「エレサレム」上演。ルイ・フィリップの政府瓦解。元王妃マリー・ルイーズの死。パルマ公国の後任領主。ミラノのタバコ事件。パリでの革命。ミラノの5日間。ヴェルディ、即刻駆けつける。高揚した彼の愛国心と共和国寄りの政治感覚。

(順次掲載予定)
第17章:ミラノの憂国の士たちが認めた敗北(1848;34歳)

パリとミラノ、1848年という年

1847~1848年 33~34歳

ロンドンでの「マスナディエリ(群盗)」初回公演の2日目の後、ヴェルディはパリに向けて出発した。その時ラムリーから女王閣下劇場の音楽監督にならないかという申し出を受ける。給与はイタリアの標準から見ると莫大な年間6万リラで、ラムリーはさらにアパートと馬車を提供すると言った。それに対して、ヴェルディには劇場での全ての公演を監督し、多くは自ら指揮し、年に新作オペラを1作書くことが要求されていた。当時女王閣下劇場のシーズンは2月から8月までで、1月がリハーサルになるとしても、彼は1年のうち4ヶ月は自由な時間となる。しかし、この期間に彼は新作オペラを開始しないといけないし、新しい歌い手や作曲家との契約を取り付けるために、イタリアに行かねばならない。ラムリーがオファーする契約期間は10年だった。

イギリスの繁栄、ロンドンの目の回るような躍動、それに多額の財産形成のチャンスがあることで、ロンドンに来た他のイタリア人と同様に、ヴェルディも目がくらむ思いだった。それに比べれば、イタリアの都市はまだまだ階級があり、農業、商業は旧式、数十の方言などが残っていて、全く小さく、とるに足らない田舎社会だった。ヴェルディはロンドンの気候は好きではなく、イタリアの太陽を恋しがり、また常に石炭が燃える臭いがして、ロンドンの町はまるで大きな蒸気船の中のようだと不平を言った。また1年にオペラ1作に縛られたくなかった。彼は強気なカウンターオファーを出した。彼はオーケストラを再編成することや、いくつかのオペラには新しい背景画を要求に入れ、さらに期間を、1849年、1850年、1851年の3年の案を出す。

結局、何も起こらなかった。この契約をするには、まずヴェルディはルッカとの契約を破棄する必要があり、1万リラを支払って解約を申し出るが、ルッカは拒否する。同じ頃、ラムリーは手紙で、次回イタリアを訪問する時に詳しく相談したいと言ってきた。ルッカがラムリーにしばらく待つよう迫ったかもしれない。またはラムリーは競争相手のコベントガーデンのその年の業績が悪かったことで、そう性急にことを進めなくても良いと見たかも知れない。いずれにしてもヴェルディはルッカが彼の出版社として、著作権を握り、その権利を主張ばかりすることに腹をたてていた。ヴェルディはルッカのやり方を‘強欲な’としているが、もともとは、ヴェルディの金欲から発したことだった。考えられることはルッカもそう簡単に契約破棄に同意するわけには行かないこと。ヴェルディのオペラ公演にはイタリアのいくつもの劇場や歌い手の契約が絡んでいる。しかし、それをはっきりヴェルディに説明しなかった。ヴェルディは金輪際、ルッカとの契約はしまいと決意する。

契約はお流れになったが、この話はヴェルディの指揮者としての、さらに舞台監督としての能力が認められたことを示している。また1年に1本のオペラという条件に躊躇したことは、彼の実状を顕著に物語っている。彼は常に自分は作曲家であることが第1義で、もしオペラ・ハウスの中で彼の他の才能を発揮できるところがあれば、それも良いくらいに考えていた。あくまでも、それは作曲の後にくるものとしてだった。後年、彼は若い時断っていた雑用的仕事を、もっとやっている。ラムリーからのオファーは、彼が真剣に考えた最初のチャンスだった。最終的な決断の段階には至らなかったが、もしなったとしても、契約書のサイン段階で引き下がったかも知れない。または、オーケストラや、舞台装置や、他の責任などの条件を追加しようとしたかも知れない。ルッカのおかげで、そうなる可能性を秘めたこの契約を、最後に破棄するという、みっともないことにならなくて済んだのかもしれない。

ヴェルディはその夏、パリの生活を楽しんだ。彼はムチオをミラノに帰して、「マズナディエリ」の出版手続きを頼み、自分はパリに残った。ルッカのためと、ナポリのためにオペラを作曲する約束があったが、両方とも翌年が期限だったので、直ちに始める必要はない状態だった。いつものように、オペラ作曲の後、喉が痛んだし、健康には気を使った。6月にアッピアーニ夫人に手紙でこう説明している:ロンドンでの私の健康状態は悪くありませんでしたが、常に突如何かに襲われる危惧を感じています」と。あのヴェニスの冬、病気で倒れて、「アッティラ」を完成するのが2ヶ月半遅れた記憶はまだ生々しかった。

気候以外では、彼はパリよりロンドンを好んだ。彼は大通り生活が嫌いらしい。伝統的に普通パリの方が女性に好まれ、男性はロンドンを好んだ。ブセットで生活したことがあるヴェルディにとって、もちろん、パリのようなサロンは存在しないが、パリの女性中心の生活は趣味が悪いと思ったらしい。しかし彼は大都市では無名で居られる部分を気に入る。友人に書いているように、パリでは街を歩いても、誰も彼に気づかず、そして、誰にも機嫌をとる必要もないし、誰も彼の機嫌を取らない。

しかし、これは半分嘘。というのは、彼はたまには、夕食に出かけたり、サロンに顔を出したりしたので、それはストレッポーニに‘せかされて’かも知れないが、パリのイタリア人コミュニティには知れ渡り、地元の雑誌や新聞記事になっている。そして社会的に成功したほかの人々と同様に、彼も人々の会話に登ることを楽しんだ。アッピアーニ夫人にこう書いている:オントレ・アクテ誌に私に関する面白い記事が出ました。エマニュエル・ムチオがミラノに持ち帰ったので、彼から借りて読んでみてください。またドニゼッティが発狂したことに関して、医師によると、治らないようです(これは後に事実になる)。さらに自分は11月の末にはミラノに帰る予定、もし予定が変更になれば、また知らせます」と。彼はパリ・オペラ座からのオファーについては、まだ確定でなかったので、触れていない。

パリ・オペラ座ではその頃経営陣が変わり、新しい理事会はその初年度に何か素晴らしい出し物を探していた。エスカヂェからの圧力もあり、ヴェルディを視野に入れた。この今一番人気のあるイタリア人作曲家が、現在パリにいて、それまでに彼のオペラのいくつかはイタリア劇場でイタリア語で上演され、成功しているのに、パリ・オペラ座ではまだフランス語の彼のオペラは上演されていないことに気づいたようだ。結果として、ヴェルディは全く新しいオペラを作曲する時間がないことから、まだパリで上演されていない「ロンバルディア人」の模様替えをして、フランス語版を作ることに合意する。このつぎはぎオペラのため、ヴェルディは長いバレエ曲と、いくつかのアリアを新たに作曲した。フランス語版ではロンバルディア隊はフランス軍になり、ミラノはツゥールースに置き換えられ、題名は‘エルサレム’となり、パリ・オペラ座のために制作されたように見せかけ、古い、田舎都市のオペラの巻き直しが、権威あるオペラ座で上演されたなどと、誇り高きフランス人に悟られないくらい、改訂した。

初演は11月26日で、ヴェルディ自身、その舞台装置や衣装は絢爛豪華そのもので、(国営だから)ここでは経費の心配は要らないのだ、と褒めている。音楽について、彼は何も言っていない。多分批評家たちの一致した意見、“オペラは何かぎこちなく、イタリア語版の方が、パンチがあって良い”に同意見だったのだろう。パリの観客の反応は冷たかった。多分パリの街では何回かの政治的危機があり、人々の注意は削がれていたのかも知れない。それほど政治的でない田舎での興行は悪くなかったし、「ロンバルディア人」が届かなかったフランス語圏の外国でも上演された。例えば、米国では1847年の春と夏に「ロンバルディア人」がニューヨークとフィラデルフィアで上演されたが、1850年に「エルサレム」が元フランス植民地だったニューオリンズで上演になった。

ヴェルディは著作権をリコルディ社に売った。彼らはすぐにイタリア語版の制作に取り掛かった。声楽用楽譜には‘著名な声楽家、ジョセッピーナ・ストレッポーニ嬢に’というヴェルディが承認した献呈が入っている。

ヴェルディのストレッポーニとの関係は深まっていく。まだ同じ屋根の下ではなく、行動も別々、ストレッポーニは彼女のレッスンで忙しかったし、ヴェルディは「エルサレム」のリハーサルで忙しかったし、そのあとはルッカのために「イル・コルサロ」の作曲に入った。しかし彼らはしばしば会っていた。ヴェルディはバレッジにパリ訪問を勧め、この老人はパリにやってきて数週間滞在した。ブセットに帰ってから、ヴェルディに書いたバレッジの手紙には、ストレッポーニのことが何回も書かれている。ブセットの慈善基金協会の会計ディマルディ氏ですら、パリには行ったことがなかったが、その昔ストレッポーニを知っていて、ヴェルディに手紙で彼女はどうしているか聴いている。彼女を高貴な精神と徳の高い女性だとコメントしている。ヴェルディとストレッポーニはパリで公然と、しばしば行動を共にしていたし、ブセットでも彼らの関係を知るところとなるが、その頃はまだ好意的に見られていた。

バレッジが1848年1月にパリを発ったあと、ヴェルディはパリで「イル・コルサコ」の作曲を続け、完成させる。その間にパリの政治情勢はどんどん悪化する。フランスでの政権交代は、ヨーロッパ中の国々に、特にイタリアの諸公国の将来に影響した。政情変革の中心にいたヴェルディは、友人たちにこまめに手紙を書いた。特にマッフェイ伯爵夫人にパリでの出来事を報告している。

1847年におけるフランスは、‘市民国王’と呼ばれたルイ・フィリッペによる立憲君主制下にあった。彼は1830年のシャルル10世を倒した革命の後、政権を握った。ロッシーニは1824年のシャルル10世の戴冠式用オペラを作曲している。シャルルはギロチンにかけられたルイ16世の弟で、上級ブルボン家を代表し、フランス革命前の旧体制、アンシャンレジームへの復帰を提唱していた。彼の政権を支持する派は「正統派」と呼ばれた。

1830年の革命は産業革命と共に成長してきたミドル・クラスと、それに伴い、どんどん悪化するパリの密集状況に、不満を募らせていた労働者たちによって起こされた。彼らは国民全員の参政権と社会主義的政策の共和国を望んでいたが、ブルジュア層はオルレアン派の中級ブルボン家出身のルイ・フィリッペを選挙で当選させ、労働者の革命を鎮圧した。彼らは「オルレアン派」と呼ばれた。

ルイ・フィリッペはブルジュアと労働者が妥協するのに、当初ちょうどいい政治家と見られていたが、何年も経つうちに、彼も議会も大企業側に立つようになり、選挙権は高額所得者のみとなり、労働者やヴィクトル・ユーゴなどの知識層から批判されるようになる。1846年から47年にかけての経済不況と農業不作で、彼に対する反対勢力は膨張した。さらに彼の晩餐会で聞かれる饒舌な演説に問題があった。反対派はよく年の二月に大晩餐会を予定したが、政府は禁止したり、承認したり、裁判所が介入したりで、混乱したので、政治学者たちは、1848年に変革が起こると予測していた。

年が変わる前に、パルマ公国市民であるヴェルディに影響を与えた事件があった。それはパルマ公国の政権交代で、12月17日にパルマ公国領主のマリールイーズが56才で亡くなったのだ。彼女は1815年から領主としてパルマ公国を治めてきたにも関わらず、最後まで彼女はオーストリア帝国の大伯爵で、ウィーンで埋葬された。このことは改めて、誰もが知っている事実を再認識させた。それは、彼女は人生の半分以上、32年間もパルマ公国の政治を司ってきたが、彼女は最後までパルマに住む外国人だったということだ。

パリでは、彼女は元フランス帝国の元皇妃だったにも関わらず、彼女の死についても、ウィーンに埋葬されたことも、ほとんど話題にならなかった。彼女が死ぬ以前に、すでにボナパルト主義は斜陽にあった。ボナパルト権利主張者であるルイ・ナポレオン皇子はナポレオンの甥で、英国に亡命中、フランスに帰国は許可されず、支持者派の政治活動なしでは、彼は忘れられるだけだった。当時の2大詩人であるラマーティンとユーゴに率いられるフランスの共和党は、彼らが革命の後継者で、ナポレオンの社会プログラムを引き継いでいることを主張していた。ヴェルディやマッツィーニやマッフェイ伯爵夫人にとっても、彼らがイタリア共和党と、自然に共同体を組める相手だと見ていた。

パルマ公国では、マリールイーズの没後、政権はブルボン家の下級貴族に行った。この家系は以前パルマ国の領主だったが、ナポレオンに追い出され、ウイーン会議でルッカ公国を与えられていた。ルッカのカルロ・ルドヴィコという貴族が、パルマ公国のカルロ2世公爵という領主となる。彼は中年男で、‘ダンディ’な生活に憧れたプレイボーイだった。この英語の言葉がイタリアで流行り、‘ダンディな生活’とは、良い収入、良い服装、できれば良い爵位、そして、温泉地から温泉地への歓楽な生活を意味した。

当初から、彼は疑いの目で見られたが、ある秘密協定が暴露されると、彼は非常識となった。というのはマリールイーズが死ぬ前、1844年に彼はブセットの西側にある8つの農村区と、南側の山岳地帯の2町村を、モデナのフランチェスコ4世に割譲して、年間70万フランを稼いでいたのだ。彼の元領地ルッカはトスカーナのレオポルド大公爵のものなった。割譲の目にあった町村の人々はできる限りで反対運動を起こしたが、カルロはすぐにオーストリアとの条約に署名をして、パルマ公国の駐屯軍を強化した。彼の宰相として、イギリス人の競馬騎手のトーマス・ワードが指名された。効率よく治世できず、人々の不平不満は徐々に大きくなり、イタリア中で不平不満の声が上がった。

ミラノの友人たちからは、ボストンお茶事件を真似た、タバコ事件が革新派によって、ミラノで組織されていることを、伝えてきていた。タバコはオーストリア帝国の専売で、良い収入源になっていた。大晦日の夜、革新派はミラノ市民に禁煙を呼びかけるポスターを街中に貼った。古い街中での禁煙令は規制としてまだ効力があることが強調された。禁煙運動は全般的に成功したが、それでもアメリカ人を主に道端でタバコを吸う人々は、民衆からなじられた。それを受けて、オーストリアの総督は兵士たちに葉巻をふんだんに配り、街で吸うように勧めたので、人々は兵士の口から葉巻を取り上げたため、起こるべきことが起こった。兵士が人々に向けて発砲し、5人が死亡、59人が怪我をした。自体の悪化を恐れて、市長が介入したところ、顔を殴られ、逮捕される。

オーストリア軍はミラノ市民を分断することで事態収拾を図った。貧困層には、金持ちはいつでも、彼らを置き去りにすると言い、ミドルクラスにはこの妨害は経済に影響すると言い、市のリーダーや貴族たちには、晩餐会や栄誉や個人的な説得によって、彼らの運命はオーストリアと共にするべきと言った。ウィーンからメッテルニッヒはミラノの高官たちにこう書いた:我々のやり方に彼らは退屈してしまっている。彼らは強い鉄のくびきによる政府を望んでいる」と。しかし、この策略はうまくいかず、ミラノ市民は階級と関係なく、団結し始めた。ピオ・ノノの彫像が、政治的な宗教行進に持ち出され、全ての聖教日が祝われた。ある夜には誰も劇場に現れないこともあり、反対にスカラ座ではある夜、サヴォイ家のカラーである青と白に着飾った婦人が集まった。またある夜にはローマ法王の色である白のベストに、黄色の手袋をつけた男性が集まった。とうとう2月22日、オーストリア政権はミラノに戒厳令を敷いた。ある特定の色を着る事、バッジを付ける事、ある特定の歌を歌う事、劇場である台詞の箇所で拍手喝采する、またはヤジることなどが禁止された。

1848年当時、コミュニケーションは、まだのろかった。電報は発明されていたが、まだ一般の使用に至っていなかった。ニュースは通常、外交クーリエによって伝えられたが、それは普通の郵便より2、3日遅かった。ミラノとヴェニス間の鉄道工事が始まったばかりだったし、山岳地帯を行く鉄道はイタリア側にも、外国行きにも通っていなかった。ミラノからパリへの手紙は少なくとも5日かかり、ヴェニスからロンドンへは11日かかった。最初に伝えられるニュースには、間違いが多く、パリにいるヴェルディは、イタリアで起こっていることを、3週間遅れで受け取った。

彼は多分、シシリーで革命があったこと、ナポリでフェルディナンド国王が憲法発布を約束したこと、トスカーナとピードモントではすでに憲法発布が発表されたことなどを知っていたと思われる。しかし、詳細はわからないし、3月にアッピアーニ夫人に書いた手紙には、彼女からの手紙がいくつか配達されていないことをぼやいている。それで、彼ができること、パリで実際に起こっている革命に関することを友人たちに説明している。

1848年にパリ、パレルモ、ワルシャワで次々に革命が起きたというのに、それぞれが孤立状態にあったということは、現代では想像できない事実だ。これは実に‘悲劇’であった。都市間だけでなく、隣町ともコミュニケーションがないため、暴動で多少有利な状態に持ち込んだとしても、お互いの連携と協力なしでは、数週間後には、旧政権が軍を引き連れて挽回に入る。それにしても、こうした自発的な革命騒ぎがあちこちに起こったことは、当時の民衆がいかに現状に不満を抱いていたかを物語る。1848年が‘気狂いじみた、神聖な年だった’と言われる由来である。突如として、ヨーロッパ中で、煮えたつ鍋から湯が溢れ出し、中心的な組織もなく、のろいコミュニケーションにも関わらず、革命騒動が始まったのだ。これにより、旧政権は、敵はマッツィーニのような個人ではなく、民衆だということに気づかされた。

ヴェルディがパリで目撃した革命派蜂起は、他のと比べ、穏健な出来事に終わった。事件はあった。兵士が群衆に向かって発砲した。市の政府はしびれを切らし、市民は街にバリケードを建てた。ルイ・フィリッペは自ら護衛団を視察した。しかし「国王、万歳」と叫ぶところ、護衛団は「改革に万歳」と叫んだ。そこで国王は和平交渉も考えに入れて、イギリスに引退することにする。国王のこの決断で、フランスは内戦を免れたかもしれないが、改革を目指していた穏健派も共和党派も革新派も、度肝を抜かれ、次に何をすべきかの方向を失う。この混乱の中で2月の末に第2共和制が宣言される。ラマーティンもユーゴも、どこの共和党派も喜びに浸った。フランス国では、弁士が言う通り、自由革新の泉に再び、水が流れ始めたのだ。

ちょうどその頃、ヴェルディは「イル・コルサロ」の作曲を終え、ルッカに楽譜を送る。彼は舞台演出も指揮も拒んだ。ルッカの好きなようにしろということだった。代わりにヴェルディは指揮者として、また演出家としてムチオを推薦する。「イル・コルサロ」は初演前にヴェルディ自身がリハーサルもしなかった珍しいケースになる。彼の気持ちが入っていなかったせいか、このオペラはヴェルディのオペラの中で最低とされている。悪いことが重なっていた。よくないセリフ台本、出版社とのよくない関係、それにパリでの情事と政情で集中できなかったこともあった。

政情は特にヴェルディの関心の全てになった。彼はアッピアーニ夫人にパリの革命についてこう書いた:私がパリの生活を楽しんでいることは隠せませんし、眠りを妨げられることもありません。毎日何もしていません。散歩に出かけ、全くひどい論議を聴き、20種類の新聞を買います(ほとんど読んでいませんが)。新聞売りの男は私の姿を見ると、新聞を私に押し付けるので、それを避けるため、20くらいの新聞の束を抱えて歩くのです。私は大笑いします。もしイタリアから、特別重要なことで呼び戻されない限り、私は4月いっぱいここにいて、国民議会を見ようと思っています。これまでに、自分の目で、深刻な事件も、馬鹿げた事件も見てきたので、この4月20日の、、、

最後に記された日付は、国民投票の日で、フランスは第2共和制とパリの革命についての国民の意見を問いた。この手紙の日付は3月9日で、ヴェルディはミラノで事件について、全く知らなかったことがわかる。

ミラノでは戒厳令の発布以降、状況は悪くなる一方だった。オーストリア側はあれこれの妥協案を出したが、ミラノ市民には何の効果もなかった。ミラノ市民は黙って従順の態度に出たが、反対の意思表明ができるところではやった。スカラ座では世紀の2大バレリーナ、マリー・タグリオーニとファニー・エルスラーが交代で出演していた。3月17日の夜、ウイーン出身のエルスラーが踊った時、合唱団は皆ピオ・ノノのメダリオンを胸につけて舞台に立った。こわばった顔で、むっつりした様子で彼女の前に立ちはだかる合唱団に、エルスラーは失神した。

翌日、大勢の人々が、知事の宮殿の前に集まり、特定の目的はないが、改革を求めるデモを行った。そのとき、ウィーンで革命が勃発したというニュースが入った。何が実際に起こったのか詳しいことを知る人はいなかったが、噂に怯えた兵士達がしばらく護衛続けて、群衆に向けて発砲した。“あの5日間”というミラノの歴史で輝かしい事件はこうして起こった。

ミラノで革命が起きれば、流血騒ぎになる運命を避けられなかった。人口16万の都市に、オーストリアの駐屯部隊は、冬の間に増員され、1万5千に達していた。ほとんどの兵士はクロアチアやハンガリーからの文盲で、彼らはミラノ方言を理解できず、イタリアの何についても、誰についても、どうでもいいとする無知な輩だった。彼らにわかっていたことは、自分たちに敵対心を持つ市民の街にいて、必要ならミラノから、またはイタリアから撤退するため戦う用意があるということだった。パリと違って、兵隊が市民の蜂起に参加することはあり得なかった。さらに総司令官のラデッキーは、ルイ・フィリッペと違って、流血惨事を避けて引退するようなことはしなかった。よく聞かれた彼のモットーは、「3日間の流血惨事は30年間の平和をもたらす」というものだった。

3月18日に知事宮殿の前に集まり、発砲された群衆は、そのあと分散したが、この事件は市民の戦おうという決意を固める結果になった。人々は通りにバリケードを造った。兵隊が来て、壊そうとすると、人々は屋根の瓦や、煮え湯や家具を投げつけた。兵隊達は通りに入れず、また家々の中には入らなかった。千7百という数のバリケードが造られ、兵隊達を囲みこんだり、兵隊同士のコミュニケーションを阻んだ。当時、ミラノの街中には、今ほどオープン・スペースがなかった。大寺院の前もスカラ座の前も、一部家が立っていた。大寺院からスカラ座の間に、ガレリア(ショッピングモール)もなかったし、直通の道もなかったし、カステロから町の中心にいく、現在のダンテ大通りもなかった。多くの通りは、マンゾーニが住んでいたモローネ路にしても、道幅は2から3メートルで、両側に高い建物が建っていた。そのような場所で、兵士が紛れ込み、前の後ろもバリケードがあれば、逃げ道はなくなる。

道の狭い古い街でバリケードを造れば、革命は起こしやすい。だが危機は3日目か、4日目、市民の生活がめちゃくちゃになり、住民が右往左往するときに起こる。ミラノの「あの5日間」が成功したのは、ミラノ市民が最後まで、オーストリア軍を追い出す決意で団結していたことだった。モローネ路のマンゾーニは、自宅の窓から、若者がバリケードに行くのを見る。ある者はまだ夜会服のままでダンス靴を履いていた。ある夜、2、3百人の人が、彼の窓の下を通った時、彼らは「イタリア万歳!」「マンゾーニ、万歳!」と叫んだ。この偉大な文学者は群衆に対して恐怖感があり、めったに外出しなかった。彼の友人達が説得して、やっとバルコニーに出たが、デモ隊に何かを叫んだだけで、すぐに室内に戻った。彼にとって、感情を掻き立てられた時だった。ミラノの街に対して、イタリアという国に対しても愛国的感情に掻き立てられただけでなく、彼の息子達は通りで戦っていた。その一人、ピエトロは市庁舎の近くでオーストリア軍に捕まり、捕虜となった。

次第にミラノ市民はオーストリア軍の拠点を攻撃するのに十分な武器を調達できた。最も困難をきした攻撃は、大寺院の屋根に篭ったアルプス射撃隊への攻撃だった。それと重要な城門の攻撃で、ミラノ市民はようやく、いくつかの城門を落とし、食料や志願兵たちを入れることができた。3日目にはオーストリア兵は、市庁舎、知事宮殿、いくつかの兵舎とキャステロに追い込められた。ラデッキーはこの状況に「ここの人々の国民性は大きく変化して、齢も、階級も性別も関係なく、彼らは皆狂信的になった」と回顧録に書いている。技師用の兵舎では、ミラノ市民が建物に火をつけて兵隊を追い出すため、通りにワラを敷いて、それに火をつけて木戸を燃やそうとした。その時、びっこの老人が藁の松明を持って現れ、ピョンピョン跳びながら、通りを渡り、木戸に投げつけた。モーツァルトとシュウベルトを産んだオーストリアがいつこれ程の憎しみを抱かせる状況に陥ったのだろうか?

ラデッキーは街全体を爆撃しようと考えたが、外国領事館関係者が反対した。彼は和平交渉を試みたが、市の戦争理事会は拒否した。5日目の3月22日、ラデッキーは、軍の撤退を開始し、翌日にはミラノは1815年以来始めて、オーストリア軍がいない町になった。

ヴェルディはこの「あの5日間」のニュースと聞くや否や、すぐにミラノに駆けつけ、4月初旬には到着する。彼の「市民ピアヴェ氏へ」の手紙は、まるでマニフェストのように響いた。ミラノの街にすごいバリケードを見たことについて、彼はこう書いた:

この勇敢な人々に栄光を!イタリア中の人々に栄光を!誠に偉大なこの瞬間!
自由解放の時が来たのだ。人々がそれを望み、望みが叶った時、それに対抗できる絶対権力は存在しない。
人々は好きなことし、どうやってするか策略し、暴力で押し付けるかもしれない。しかし、人々の権利を誤魔化すことはできない。そうです、あと数年で、いや数ヶ月で、イタリアは自由で統一された共和国になる。その他の道はない。

同じ手紙の中に、彼はピアヴェが兵士になったことを祝福した後、自分は民衆の指導者(トリビューン)にはなれないと書いている。情けない指導者で、というのは断続的にしか雄弁でないから、、」と。

彼がここで意味したことははっきりしない。彼はミラノに共和党の政府ができたならば、何かの役職が与えられると考えていたのだろうか? 可能性はある。彼はいろいろな人と知り合いで、この時ロンドンから駆けつけたマッツィーニとは個人的に会っているし、マッフェイ伯爵夫人も彼女の友人達も皆共和党員だった。

市内は熱狂的な雰囲気に包まれていた。何百という亡命者が帰国し、多くの若者達はオーストリア打倒のために、義勇軍や、ピードモント陸軍に志願した。ヴェルディはピアヴェにこう書いている:私は歓喜に酔っている。ここにドイツ兵がいないのだ!考えてみたまえ!」と。

【翻訳後記】

この章は厳密に言うと、1847年7月から、1848年の3月末までの9ヶ月半の経緯。ロンドン公演の後、ヴェルディはパリに戻り、パリで自由な生活を楽しみ、それでもパリ・オペラ座のために「ロンバルディア人」のフランス語版「エルサレム」を完成させ、11月26日に無事オペラ座で初演されています。その後クリスマスと新年に義父のバレッジがブセットから彼をパリに訪問。1848年の初めにルッカのために「イル・コルサコ(海賊)」を書きますが、ルッカとの関係が悪く、上演については何もしなかったという異例のオペラになります。

政治的には1847年はまだ比較的穏やかでしたが、後半は民衆の鬱憤が燻っていました。それが積み重なり、1848年2月にまずパリでその不満が爆発し、暴動が起こり(これが2月革命)、王権復古時代の市民王ルイ・フィリッペは、勝ち目がないと察して、イギリスで引退してしまいます。その後の選挙で共和党系が勝ち、第2共和制が始まります。中心人物はヴィクトル・ユーゴとラマーティン。一方ミラノでは市民の静かな抵抗が続き、剛をにやしたオーストリアは2月に戒厳令を敷き、コントロールしようとしますが、パリの後ウィーンでも暴動が起こり(3月13日)、メッテルニヒも英国に逃亡。それをチャンスにミラノでも街にバリケードを造って対戦し、5日目の3月18日にはラデッキーが率いるオーストリア軍を追い出すことに成功します。「あの5日間」と呼ばれる勝利となります。ヴェルディはそのニュースを聞いて、すぐにミラノに帰ります。

私はフランス革命というと1789年の第1次革命のことで、大革命はその後80年近くも革命政府と王政復古を繰り返したことはあまり覚えていませんでした。ヴィクトル・ユーゴの「レ・ミゼラブル」は1815年から1830年の間の話で、1848年で英国に逃亡したルイ・フィリッぺ王は1830年の7月革命で王になったのです。

またミラノに駐留していたオーストリア軍の総司令官は、あの「ラデッキー行進曲」のラデッキーということに、私は驚きました。調べると彼は1766年生まれのチェッコ人、1785年から神聖ローマ帝国のハプスブルク家に仕え、この1848年革命騒ぎのとき、彼は63歳ということになります。名将軍だったのです。この章ではミラノを追い出されますが、その後イタリアの主軍ピードモント軍をノヴァラで破り、オーストリア軍の巻き返しを果たしたことを記念してヨハン・シュトラウスがあの行進曲を作曲したとウィキにあります。

ラデッキー行進曲は懐かしいので、ここに YouTubeへのリンクを入れます。聞いてみて下さい。

さらにこの曲は今でもウィーン交響楽団の恒例の新春コンサートの幕開けに「美しき蒼きドナウ」の後に演奏され、観客の手拍子も恒例になっています。2024年のお正月のvideoもあったので、お好きな方はこちらをどうぞ。ドナウ川は今も美しくウィーンの横を流れていますが、ラデッキー行進曲の世界、オーストリア帝国もラデッキーというチェコ人が仕えたハプスブルク家もとうになくなっていますが、ウィーン市民はその栄華を忘れたくないのでしょう。

ヴェルディはこの激動の時代の真っ只中にいて、目撃しましたが、まだ傍観者に過ぎません。イタリアの統一、独立運動は「リソルジメント」と呼ばれ、ヴェルディも絡んでいたと言われていますが、どう絡んで行ったのかはこれから、みていきます。この運動を成功させた第一人者、今でも「建国の父」と呼ばれるカヴールは1847年12月15日にこの運動命名のもとになった「リソルジメント」という新聞の発行を始めます。段々機は熟していっているのです。

ヴェルディがロンドンに行った後、ストレッポーニは予定通り、6月に自宅でリサイタルを開いて、ヴェルディの新しい歌曲をいくつか歌い、なかなかの評判だったようです。彼女は初めての「ナブッコ」のパリ上演(1845年)でアビゲールを歌っているので、パリには彼女のファンもいたのでしょう。オペラ作曲の方は「エルサレム」が1847年11月にパリ・オペラ座で初演になります。以前パリ・オペラ座から話があった時、ここで上演するにはフランス語でオペラを書くことになり、当時彼のフランス語はまだ流暢でなかったので、契約は諦め、フランスでの彼のエージェント、エスカヂエはパリのイタリア劇場で、「二人のフォスカリ」と「ジャンヌ・ダルク」と上演して、成功したという経緯は第13章に出てきました。今回、彼のフランス語は十分に流暢だったのでしょうか?
実はフランス語のオペラを書くのに、彼には有能なアシスタントがいたのです。
比較的最近見つかった資料のことがフィリップスーマツォの220ページに書かれています。

ストレッポーニの字で: 私の希望は全て消えてしまったわ!家族も、祖国も、、私が持っている全てが!
ヴェルディの字で:いや、私はあなたのそばにいて、、永久に!
ストレッポーニの字で:天から天使だわ!私は夫の腕の中で死ねるの!
ヴェルディの字で:私も一緒に死のう!私の死は、、、
ストレッポーニの字で: 、、

なんとロマティックなことでしょう! ストレッポーニはミラノ近くの町の教会音楽師の長女で、ミラノ音楽院のピアノ科に入り、途中から声楽も勉強して、優秀な成績でダブル卒業証書を取った才媛です。声楽の勉強には外国語、当時はフランス語が必須だったでしょう。

オペラ「エルサレム」を観たことも、聞いたこともありませんでしたが、今回You Tubeで探して、観ました。まず第一十字軍を結成して送り出した町が、ミラノではなく、フランスのツールースになっていること。これについては史実から行くとツールースなので、より正確なバックグラウンドだと言えます。またフランス語なので、全体に柔らかい感じがあります。私はフランス語のオペラが好きです(カルメン、サムソン&ディラアなど)。フランス語独特の鼻にかかった(英語でnasal)音は独特の美しい響きになるのです。

YouTubeで探したものはパリ・オペラ座の1984年公演のもので、まずヴェルディが目指したフランス語のオペラにとても近い演出だと信じられます。歌手も、舞台装置もいいと思います。「ロンバルディア人」と比べ、シーンがいくつか削られていて、それがいい効果をあげているようです。「ロンバルディア人」の焼き直しと悟られない位の直しを入れたと著者が書いていますが、ソプラノのアリアのいくつかと最後の3重唱はロンバルディア人のものを使っていて、その間はほとんど書き直されたようですが、所々で聞いたことのあるメロディーが出てきます。お話がキリスト教徒にはよく知られたもので、このオペラの人気は高かったと想像できます。2時間16分のvideoをぜひお楽しみ下さい。

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