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人間ヴェルディ: 彼の音楽と人生、 そして その時代 (17)

著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子

出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年


第二部 ヴェルディアン・オペラ確立期


目次

第17章:ミラノの憂国の士たちが認めた敗北
1848年 34歳


ミラノ市民の政治的優柔不断さ。ミラノの政治リーダー達は隣国ピードモントに援軍嘆願。それを受けて国王カルロ・アルバートはオーストリアに宣戦布告。ピードモント軍はラデッキーを「4辺地域」に追い込む。ヴェルディはブセットを尋ね、サンタガタに広大な地所を購入。ポー川流域での小競り合い。共和制主義者と君主制主義者。ピオ・ノノのアロキューション。法王庁の政治権。ミラノの共和制主義者の敗北。ヴェルディ、パリに戻る。
【翻訳後記】
ミラノ解放前の勢力図。「4辺地域」とその周辺。サンタガタの地理的位置。サンタガタの2022年の様子。

(順次掲載予定)
第18章:ローマで「レニャーノの戦い」初演
(1848―1849;34歳から35歳)

ヴェルディがミラノに戻った1848年4月頃の、政治的攻略の駆け引きは苛烈で、深刻だった。「あの5日間」中に、マンゾーニを含むミラノの政治的リーダーたちは、ピードモント王国のカルロ・アルバート国王へ援軍要請の嘆願書に署名をした。それは現実の中、常識的な方向だった。ラデッキーの軍をミラノから追い出したといっても、その存在が消えたわけではないし、北部イタリアでオーストリアと戦う軍隊を有していたのはピードモント王国だけだった。運が悪いことが続いたが、3月23日、カルロ・アルバートはオーストリアに宣戦布告して、タチノ川渡ってロンバルディア州に軍を進めた。翌日、ヴェニスはオーストリア軍追い出しに成功して、このドージェの古代海洋都市国家はただちに、ダニエレ・マニンを大統領として共和国を再設立した。そこでカルロ・アルバートは躊躇することになる。なぜ、ヴェニスを独立共和国として維持するためにピードモント王国が戦う必要があるのか? ミラノもロンバルディア州もいずれ共和国を望んでいるのではないのか?

ミラノ市民は決心つきかねていた。ミラノからの要請で戦争に突入したピードモント国民の怒りは、マンゾーニも含むミラノのリーダーたちが、ピードモントに併合されることを拒んだことだった。そして、ヴェルディやマッツィーニのような共和党派の怒りは、ミラノが共和国の宣言をしないことだった。しかし、選択肢は共和党のマッツィーニと、近々に憲法を発布した君主のカルロ・アルバートだけではなかった。その春、ジオベルティは北イタリアの主要都市を回って、法王を大統領として、イタリアの連盟国家のアイディアを説明に回った。彼の講演は大聴衆を集めた。マッツィーニなどよりもずっと多かった。そこでミラノ市民はロンバルディアをどうするかについて、彼がローマ法王と会見するのを待つことにしたのだった。

しかしカルロ・アルバートは戦争中にあり、進軍するか、和平交渉するかに迫られていた。ウィーンからのニュースを考えると、北部イタリアからオーストリアを追い出すのは今しかないと見えた。ウィーンでは大学生が始めた革命で、メッテルニッヒは失脚し、彼はロンドンに永久に亡命した。さらに噂ではてんかん持ちのフェディナンド皇帝は4月に憲法を制定したが、5月にはウィーンから追放されたし、ハンガリーでも蜂起が起こったようだった。そこでカルロ・アルバートと彼の将軍たちは、小競り合いや小戦役を続けながら、進軍して、ラデッキーをポー川の北側の「四辺地域」と呼ばれる地域に追い込んだ。「四辺地域」の4隅は重装備された要塞を持ったぺスキエラ、ヴェロナ、マンチュア、レニャーノだった。その砲丸の後ろで、ラデッキーは軍の再編成を試みた。政治的状況の見通しはつかなかったが、4月末にはイタリアが優勢に見えた。

5月の初め、ヴェルディはブセットに行って、両親とバレッジに会った。パルマ市でも革命があったが、穏やかなものだった。ミラノの「あの5日間」の後、パルマ領主のカルロ公爵は公約声明文を発表し、憲法とミラノへの支援を約束し、さらにピオ・ノノと、カルロ・アルバートとトスカーナの大公爵を仲裁者に、彼のパルマ公国の政治的相違を説明することを提案した。しかしその間にオーストリア軍はマンチュアに移動したので、パルマ市民はカルロ公爵を無視した。4月にパルマの主要都市、ピアチェンツァ市民が投票でピードモント併合に賛成したことで混乱し、彼は逃亡する。混乱の原因はたとえピードモント王国の大臣ですら、独立していない国の人民が投票することは、どういう意味なのか誰も、わかっていなかったところにあった。それでも5月にパルマ国全域の人民投票があり、ピードモント併合が賛成多数で承認された時には、少しはっきりしてきた。

ポー流域の北側では、ミラノからヴェニスまで戦火にあったが、南側のパルマ公国でもブセットのような小さい町では、全く関係ないような市民生活が続いていた。戦況が進んでも、パルマは戦火の南と西に位置し、軍隊の通り道から外れていたのだ。ブセット滞在中に、ヴェルディは農場を購入する。4年前に彼はロンコレ村の小さい農場を買って、彼の両親をそこの管理者として住まわせていたが、彼は多分、一度も行ったこともなく、農場経営など興味がなかったようだ。この時、彼はこの小さい農場と、新しいところの一部と交換した。新しいところも、ブセットの近くだが、反対側の北西で、サンタガタという小さな村にあった。農地としては肥沃で、オンジーナという川が流れている。

だが、一体どうして、1848年の春にヴェルディが、戦争で荒らされた地域の農地を買ったのかは、全く不可解。多分、農地の価格が戦争で下がったからだろう。またはこういう不安定な時期に、何か実体のあるものを手に入れたいという欲求に駆られたのか? ヴェルディは34才だった。それまでに彼はロンドンにも、パリにも、その他のイタリアの主要都市に行っていた。イタリアの農民、特に彼の故郷の農民にとって、土地に対する愛着はひとしおだった。ヴェルディも例外ではなかった。彼は一生、彼の生まれ故郷のパルマの一角の土地を愛した。なぜその時この農地を買ったかの理由が如何であろうと、それは気まぐれではなかった。この購入契約はなかなか複雑だった。以前に持っていた土地との交換だけでなく、関係のない土地のローンの補償も含まれていた。しかし、初めから彼はこの新しい農地がとても気に入ったようだった。新しい農地に立っていた建物のコンディションは悪く、彼はその改築と修繕を頼んでから、急いでミラノに戻った。

このサンタガタの農地は、住宅用家屋を新しく建て直したあと、彼の自宅となり、今でも彼の家族が所有している。彼がオペラの仕事をしたイタリア中の都市とか劇場などより、この家と彼が造った庭園ほど、彼の実在を示すものはない。

戦争は良い方向に向かっていたというのに、ミラノではさまざまな政治的色合いの愛国者グループ間の、政治的駆け引きはひどくなる一方だった。ポー川北側の「四辺地域」内のラデッキーは、西からはピードモント王国の軍隊に攻め込まれ、これに一番威圧された。東からはヴェニスが彼を脅かしたし、南からは2つの法王領地の軍隊が控えていた。その一つは法王の常備軍だが、もう一つは数千人のボランティア軍だった。北部イタリアのポー川南岸はすでにオーストリア軍は皆無だったし、もしラデッキーがウィーンからの支援を受けられなかったら、ポー川の北側も、戦勝またはウィーンからの強制譲歩で、オーストリア軍を追っ払うことができそうだった。

しかしこの「四辺地域」の内側のラデッキーは安泰だった。4隅のどの町へも、彼は1日で軍を動かすことが可能だった。ぺスキエラからヴェロナまでは12マイル、ヴェロナからレニャーノまでは25マイル、レニャーノからマンチュアまでは20マイル、マンチュアからぺスキエラまでは20マイル。ぺスキエラとヴェロナの間にはアディジェ川がポー平野に流れ込んでいる。ラデッキーがアルプス山脈で一番低い海抜4400フィートのブレンナー峠までのアディジェ渓谷をコントロールできれば、彼の軍はポー川流域にいつまででも、いることが可能だった。

イタリア軍にとっての戦略的問題ははっきりしていた。このブレンナー峠とアディジェ渓谷は、過去の歴史においてドイツ軍のイタリア侵略の伝統的ルートだった。5月には他の都市からの志願兵もミラノに集まり、カルロ・アルバートの軍隊は「四辺地域」の端を攻撃した。ウィーンでの新たな蜂起のニュースに、イタリア人は多分夏までにオーストリアからの支援を断たれ、ラデッキーは交渉に応じるだろうと見ていた。ヨーロッパの他の国も同じ見方で、イギリスは5月に交渉妥結の調停役を買って出た。妥結案は、モデナとパルマ公国はピードモント王国に併合され、ミラノとヴェニスは憲法改革と補償を約束して、オーストリアの管轄下で残るというものだった。イタリア側のリーダーたちはその申し出を断る。自分たちでやった方が、良い交渉ができると信じてぃた。

しかし、マッツィーニやマッフェイ伯爵夫人のように、見る目と聞く耳を持った人々にとって、政治的状況は悪化する一方だった。軍隊音楽隊の騒音と民衆の歓声とは裏腹に、様々な政党、州、市町村のリーダーたちの間には、激しく破壊的な議論が続いていた。ヴェルディはヴェニスのピアヴェにこう書いている:せせこましい地方の偏狭な考え方は捨てるべき!我々が友好的な手を広げれば、イタリアは世界的な国になりうる」と。しかし、それはリーダーたちがそう簡単にできないことだった。オーストリアを追い出す以外に、戦争の目的について意見一致を見なかった。その最初の目的達成である、オーストリア軍に勝つためには、弱者も強者も統一する必要があった。5月になっても、カルロ・アルバートの進軍は鈍く、それにはリーダーシップの問題以上に、政治的方向が見えないことがあった。

この現実は北部イタリアの随所に見られ、同じ質問が繰り返された。オーストリアを追い出した後に、いかなる政治的統制が妥当かという基本的なことだった。ピードモント軍の戦場では、彼らが何百年間モットーとしてきた「サヴォイは常に進軍」の叫び声が聞かれた。しかし、その叫びの犠牲となって死に直面した者に、サヴォイ王家のためだけではなく、イタリア統一のためだと信じさせることはできなかった。ミラノの市民たちは、ピードモントとの合併の条件が見えない中、新しい北部イタリア国の首都はミラノだと信じていた。それはピードモントの皇族と民衆には受け入れられないことだった。ジオベルティの法王を大統領としたイタリア連盟国案の遊説は、どこでも大勢の聴聞者を集めた。そしてヴェルディを含む共和党派は北部イタリアの新政権は絶対に共和国だと主張した。

共和党派は4月に行われたパリの総選挙の結果から、楽観的になっていた。そこではラマーティン派と革新的共和党派が、下院の900議席のうち500議席を獲得したので、イタリアの共和党派は、フランスはハプスブルグ家相手に戦う兄弟共和国イタリアを支援するだろうと信じていた。しかし、信じていたもう一つのこと、彼らが政治的方向を示せば、民衆は愛国的な誇りを持って、支持に立ち上がるという予測は期待はずれだった。これはある程度は都市や町では成功だったが、農村部での再び少し様子を見る態度は、5月になるとはっきりしてきた。彼らは革命軍に志願しないだけでなく、献金にも応じず、またオーストリア人支援に回ることもあった。この無関心さは農民たちの根強い田舎風偏見によるものであったが、それだけでなくピードモント方言は、彼らにはオーストリア帝国のドイツ語と同じように響いたこともあった。しかし、失敗の一番の原因は、都市や町の市民が市街戦によってオーストリア政府を追い出す以外、何の政策案も持っていなかったことだった。追い出すという意味は単に町の城壁の外に放り出すだけで、そこには農民が住んでいることも多い。辺りの農民のコミュニティは小さいし、時には孤立して、オーストリア軍の1部隊の犠牲になるかもしれなかった。都市の狭い通りに造られたバリケードは、なんともロマンティックではあったが、広い農村地帯では、全くお話にならなかった。

従って、戦争に勝とうとしたら、急ぐ必要があることがはっきりしてきた。そうしないと、オーストリア軍は再編成して、不慣れなピードモント軍や訓練もされていない志願兵団を破り、孤立した町や村を騎馬隊でひとつひとつ取り返すことになるだろう。しかしスピードには方向性の統一が必要だった。が、無かった。さらに、5月になり革新的と見られていたピオ・ノノ法王が、革新派グループと手を切ったことで、その可能性はさらにほど遠くなった。

彼は4月29日にローマで公開されたアロキューション(枢機卿会議などでの法王の見解表明)の中で宣言した。その後数週間内に、これはヨーロッパ中で読まれ、分析され、議論された。これは3部に分かれている。第1部で法王は全般的な改革運動の歴史をたどり、彼の法王領の改革に触れている。意味深いことに、彼はその中で1848年3月に自ら制定した憲法について何も触れていない。それは彼がそれを正しい改革と考えていないことを意味した。第2部は戦争について。彼は自分の信者がオーストリアと戦うため志願することを止めることはできないとし、さらに続けて「他の民族やイタリアの皇太子たちと一緒に対オーストリア戦に参加したいと考える人々もいるが、聖なる集まりである教会として、そのような行為は我々のこの世における役割の趣旨とは無縁のであるとする。なぜならこの世において平和と慈善を愛す我々の神の教えに従い、我々は全ての人民、国家を受け入れるべきだからである」と結んでいる。そして最後の第3部で、彼が大統領で連盟共和国形成の案については、彼は全く関与していないことを明らかにし、イタリア国民にこの案に反対し、さらに自国の皇太子たちに忠誠を誓うことを要請した。

このアロキューションというのは、独立を目指して戦っている北部イタリア人に対して書かれた公の声明だったので、対象となったイタリア人は各自の政治的、または宗教的な信条によって、それぞれ、悲観したり、憤ったり、またはヴェルディのように、イタリアでは法王に期待はできないという共和党派の偏見を強くした。オーストリア人たちは、もちろん、喜んだ。ローマでは法王への崇拝を示すデモは一夜にして消え去った。

同時にピオ・ノノは、フェルディナンド皇帝に、イタリアとオーストリアはそれぞれの自然の国境を守り、平和を維持することを個人的に請願した。その請願はウィーンでは嘲笑の的となる。フェルディナンドは、オーストリアはローマ法王の政治的権力を再保証した条約によって、イタリアの諸国を所有する権利を持っているとコメントする。

この皇帝の身勝手なコメントは、法王のぼやけた善意につけ込み、メッテルニヒと同様、ピオ・ノノより、深刻にイタリアの問題を考えている態度を皮肉った結果になった。自然の国境など、英仏海峡ほどの距離がなければ、国境とは隣接する国と国が、認めるか、破るかで決まるもの。法王もハプスブルク家も言語、文化、または気候の違いを超越しようとしたが、北部イタリアの人民に、自然でできた境界線を元にした独立王国を、形成させることはできなかったではないか。

オーストリア帝国としては、旧神聖ローマ帝国の玉石混淆の国々をまとめるという原則もあるが、それより、もっと現実的な問題として、ロンバルディア・ヴェニス王国は、人口はオーストリア帝国の6分の1だが、そこからの富は3分の1を占めていた。オーストリアとしては、これを諦めるわけにはいかない。同様に、法王領の中でも最も豊かなところは、アペニン山脈という自然の国境の北側とポー川流域にあるぺザロからボローニャの地域。そこを失うことは、法王庁経済にとっては痛手で、それなしで残りの法王領を維持するには外国勢力が必要となる。

この現実がメッテルニヒが、革新的法王はありえないと言った意味だった。イタリアの革新派は、立憲君主だろうが、共和国だろうが、少なくとも、北イタリアでの統一を、制覇または併合で求めようとした。法王も、彼の政治的権力の低下、または壊滅を受け入れるなら、革新派でいることは可能だった。そこまで折れた法王はそれまでいなかったし、ピオ・ノノも今回のアロキューションで、その意志がないことを明らかにした。

法王の政治的権力の理論は実利的であるし、宗教的でもある。この二つの性格は複雑に絡み合っている。中世において、法王が宗教的な権力(司祭の任命とか、破門とか)を行使するには、ある程度の独立性が必要で、それにはローマという要塞化した都市と、さらに法王領を護衛する軍隊、それを支える土地が必要だった。さらに都市を支える農業地帯も付随することになる。こうした要塞化した都市と軍隊と農業生産地を確保しなければ、法王は世界の皇帝たちが彼の御身体を誘拐して、彼の決定に干渉することから、防衛することはできない。この危険性は理論上だけではなかった。ピオ・ノノの時代にも2回起こっている。1798年と1809年に、ナポレオンは法王領を侵略し、まずパイアス6世を、ついでパイアス7世を、戦争捕虜としてフランスに連れ去っている。前者は彼の地で死去、後者は1814年にやっとローマに帰還することができた。

パイアス7世とピオ・ノノを含む彼の後見者たちにとって、法王領というのは、まさしく神から教会への贈り物で、聖ペテロから引き継いてきた世襲財産だと信じていただろう。その証拠として、法王による法王領の統治権がヨーロッパで最も古い統治権だということで十分だった。従って、どの法王もその世襲財産を何が何でも守ろうとした。神からの賜物をどうやってないがしろにできるか? 革新的な法王は、裁判制度の改革や、住宅向上や公共施設などで改革を試みた。しかし、彼としては、どんなことがあっても法王領を州とか国とかのもっと大きい世俗的統治枠組みに入れることは許さなかった。それでも1848年3月に憲法を制定して、彼の政府に聖職者以外の一般信徒を入れることを、初めて許した。しかし、それは神への冒涜ではないかという考えがピオ・ノノを脅かし、彼は他に解決法を見出せず、アロキューションを発布したのだった。

もし法王権威が、英国教会のようにローカルな存在だったら、時間をかければ、台頭してきたイタリア統一国家と、独創的な対応法を模索できたかもしれない。しかし、何世紀間に亘って、築かれた‘世界の教会’という存在は、どんな調整案をも妨害した。ピオ・ノノにとって、法王とは全てのクリスチャンの父であり、全ての神の子たちは神聖都市の市民だった。全てのクリスチャンは永遠都市ローマに来る権利があり、誰もが同様に愛され、歓迎され、地球上の永遠のホームの、精神的な清涼剤を平等に分かち合うことができると。世界中のクリスチャンたちは、イタリア人がローマ市を剥奪することを阻止するために戦う準備があった。1848年において世界のほとんどのカソリック信者は、ローマ市民はイタリア人とは、また都市ローマを、イタリアの都市とは考えなかった。

しかしその後、多くのローマ市民はカソリック市民権とイタリア市民権の選択肢があるべきと考え、選択を迫られたなら、後者を選択すると表明した。1870年までには、世界のカソリック信者は、ローマ市がイタリアの一都市だと受け入れる心の準備ができていた。しかし1848年にはまだそうではなく、ピオ・ノノがそういう判断をしたとしても、彼の司教たちやカソリック信奉者たちは、それを阻害しただろう。

軍隊のレベルにおいて、ピオ・ノノのアロキューションは愛国者たちには何の影響もなかった。法王領からの志願兵たちはそのままで、法王の常備軍はカルロ・アルバートからの命令に従い始めた。しかし政治的にこの合流は混乱を招き、勝ち取った地域も失われそうな状況だった。千年に亘ってイタリアを覆ってきた法王の政治的権力の問題は、ピオ・ノノの表面的な愛国者への裏切りという新しい毒素を持って、引き続き継続した。

5月末、ミラノがまだ政治的方向を公に示せないでいるとき、ヴェルディはパリに戻ることにする。共和党派は連日、負けが続き、彼らの目標は見失われた。ピードモント寄りの立憲君主派に率いられた市は、条件次第でいずれ、ミラノとロンバルディア州共ピートモント併合を成立させそうだった。そういう状況でミラノに居残る理由はなく、反対にパリには、仕掛けた仕事がそのままでなっていた。その内のいくつかは、すぐに取り掛かる必要があった。彼は大きな希望を持って、イタリアに帰国したが、失望感を抱いて去ることになる。パリから、ストレッポーニはフィレンツェの友人に苦い思いをこう書いている:彼らは王家を倒すには、犠牲が多いことを忘れて、すぐにまた違う王朝を立てようとする、まるで王様なしでは生きられないかのように!」と。これは多分にヴェルディの意見が反映されていると思われる。

ヴェルディはスイスの国境を越える時、ナポリのカンマラーノに手紙を書き、彼が提案したオペラの脚本に取り掛かってくれるように頼んでいる。それはドイツ人の侵略を、イタリアの連合軍が阻止したという12世紀に実際に起こった祖国愛の話。もし彼がミラノで共和党派政治家としてイタリア統一のため、何もできないなら、彼はパリから、音楽家として、一役を担おうとしたのだ。

【翻訳後記】
イタリアの近代史に疎かった私には、このような日を追っての政治情勢の展開と戦況、さらに法王の存在、役割などの詳しい説明は全く「寝耳に水」の驚きでした。

著者のジョージ・マーティンは歴史学者ではありませんが(音楽評論家でもありません)、この本を書いている時に、リソルジメントに関する(英語の)本があまりないことに気づき、この本の後に「赤シャツとサヴォイ家の十字架―イタリアのリソルジメント」という本を書いたことは第5章で書きました。研究熱心なこの著者のお陰で、私たちはヴェルディの一生の話と音楽をエンジョイしながら、「その時代」をも知ることができるのは、思いがけない喜びです。

第17章は1848年4月から6月までの2ヶ月間の経過。3月23日にラデッキーが率いるオーストリア軍をミラノ市民が追い出したことを聞いて、ヴェルディはすぐに駆けつけて4月初旬には到着。ミラノ解放前の勢力図は下記のようでした。

ミラノ解放前の勢力図

つまりナポレオン失脚後のウィーン会議で決められたままです。ナポレオン時代ピートモント王家は本土の領地を奪われ、サルディニア島に疎開していましたが、ウィーン会議でそれを取り戻し、またオーストラリア帝国はミラノ・ヴェニスを勝ち取りました。その南にあるのが法王領です。ここもナポレオン時代は統治権を奪われ、イタリア王国の一部となりましたが、ウィーン会議で独立を再確保したのです。その大きさに注目してください。

1400のバリケードを造って、ミラノ市民はオーストリア軍を追い出します。軍を持たないミラノは隣国のピードモント王国に支援軍の嘆願書を送り、それに応えて、4月に初め国王カルロ・アルバートはオーストリアに宣戦布告して、軍を東に進めます。そして下図にある「4辺地域」に追い込むのです。こうして第一次イタリア統一戦争が始まります。
ウィーンでの蜂起でメッテルニヒはイギリスの亡命、皇帝は国外に逃亡、1848年5月にはラデッキーは「4辺地域」に孤立状態でした。

「4辺地域」とその周辺

しかし問題はオーストリア軍を追い払った後、どういう政治体制にするかで、トリノ、ミラノ、ヴェニスの意見は合いません。そこで法王に期待をかけます。上図で観たように法王領のサイズは広大で、しかもローマ市の法王庁を護る城壁や要塞は多分ミラノやトリノを上回る堅固なものだったと思われます。常備の護衛隊に加え、法王の掛け声一つで、各地から支援軍が集まると思われていたでしょう。一般イタリア民衆からも信頼と尊敬と愛情を受けていたと思います。その法王を大統領にしたて、イタリア連盟国を作るというアイディアが注目されたのは当然だったと思います。特に時の法王は革新的でピオ・ノノという愛称で呼ばれ、就任当時は圧倒的な人気をもった法王でした。ジオベルティのアイディアが人々の注目を集めたのは当然です。ところがピオ・ノノはそのアイディアには応じない意志発表をします。

ローマ法王という存在をもよく理解していない日本人の私には、著者ジョージ・マーティンの法王、法王庁、法王領の説明は貴重です。現在、法王庁はローマ市の横のバチカン市に閉じ込められているが当たり前の姿ですが、1871年まではローマ市全体が法王庁のもので、上図に示された広大な領地はその独立性は維持するめに必要なインフラだったという説明でかなり納得できました。

ところがあっけなく、統一イタリア連盟国の首長となる気はないと法王に断られ、イタリア人は他の方向に向かうことを強制されたのです。イタリア人に幸だったのは、フランスと国境を接したピードモント王国の存在です。この王国が唯一イタリア人による独立統治国で、唯一軍隊を持った国だったのです。そこの国王が憲法を発布し、軍事的にはいつでもラデッキーに潰されそうな状況にも関わらず、息子の新しい国王をそれを守ったことです。この新国王が現在イタリア中の地名などに見られるヴィットリオ・エマヌエーレです。ジョージ・マーティンは著書の後半にイタリア統一がピードモント王国を中心に展開していく過程を丁寧に説明してくれています。

ヴェルディはこの2ヶ月のミラノ滞在中故郷のブセット近郊のサンタガタに広大な農地を購入します。なぜ?この時期に?なぜ生まれ故郷に?という疑問をこの著者は投げかけています。私が観たテレビ・ドラマでは1月にバレッジがパリを訪問した際、この案件をヴェルディに持ちかける場面があり、4月にミラノに帰郷した時に始まった話ではないことになっています。これに証拠があるのか、それとも単にヴェルディの行動を正当化させるために脚本家が書いたのかはわかりませんが、これで納得できる行動になっています。

このサンタガタの農地は広大で、何軒もの小作農家の家も散在しています。ここは現在ヴェルディ・カントリー観光の必見の場所になっていて、私も2021年に秋に行きました。


サンタガタの地理的位置

場所としては、一番南にあるフィデンザにはミラノ行きの電車が走り、特急なら1時間くらいでミラノに着くはずです。ヴェルディの時代はもちろん、馬車で丸一日はかかった距離だと思います。

私が撮った写真はあまり良くないのですが、多少でもどんな感じかを見ていただきたいのでここに入れます。確か、住宅の写真は撮ってはいけなかったと記憶しています。

正面玄関の門と前庭です。親しい友人たちと、または一人でこのガーデン・チェアーに座った晩年のヴェルディの写真はよく見かけます。
本宅の塀の内側の庭園には川の流れのような長く大きな池があり、周りには巨木が林立しています。彼は巨木が好きで、世界各地から集めたという話でした。ローマ風の彫刻もいくつか置かれています。
これは農地に出る裏門です。多分ここに見える農地は全て彼所属だったと思います。

パンデミックで観光客も少ないためか、池の水が濁り、手入れが行き届いてない様子でした。昨年6月ごろ、オペラ関係の雑誌に、ここが売りに出ていることが伝えられましたが、2、3ヶ月前の報道では、イタリア政府が維持することになったようです。

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