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人間ヴェルディ:彼の音楽と人生、そしてその時代 (11)

著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子

出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年


第二部  ヴェルディアン・オペラの確立期


目次
11章:ヴェニスと「エルナニ」(1843―1844;29歳から30歳)
19世紀の慣習では作曲家が初演地に旅する・新作オペラ作曲依頼の契約・オペラの題材選択・ヴィクトル・ユーゴと「エルナニ」・戯曲「エルナニ」と音楽構成・オペラの政治的意味・ヴェルディのアーティストとしての信念
【翻訳後記】ヴェルディのビジネス手腕・ヴェニスのフェリーチェ劇場・ヴェニスは共和国・神聖ローマ帝国のカール5世・YouTubeから「エルナニ」のvideoを7本

(順次掲載予定)
12章:ガレー船時代(1)「二人のフォスカリ」(30歳から31歳)
13章:ガレー船時代(2)「アッティラ」(31歳から32歳)
14章:ビジネスとしてのオペラ作曲と「マクベス」(32歳から33歳)

ヴェニスと「エルナニ」

(1843―1844: 29歳から30歳)


「ロンバルディア人」の後、次の新作オペラ作曲を、ヴェルディはヴェニスのフェニーチェ劇場と契約した。フェニーチェ劇場は当時、そして現在も、イタリアで最も重要なオペラ・ハウスの一つ。カルロ・モチェニゴ伯爵が率いる理事会は、1843~1844年のカーニバル・シーズン幕開けに、ヴェルディ演出・指揮による「ロンバルディア人」の上演と、その翌月に彼の新作オペラ初演を提案する。この提案自体、ヴェルディにとって魅力的なものだったので、これを持って彼は初めてスカラ座以外の劇場と契約をすることになる。彼はその表向き理由として、それまで四年もの間、ミラノの市民に毎年、オペラを提供してきたから、そろそろ彼らもヴェルディから、離れてもいいのではというものだった。この弁解は本心の半分だけしか説明していない。ミラノでの「ロンバルディア人」公演のすぐ後、ヴェルディはメレッリに付き添って、ウィーンの「ナブッコ」公演に見学に行った。大成功とは言えなかった。明らかに、メレッリはあまり良くないキャストを配したらしい。ドニゼッティはアッピアーニ夫人とサロン仲間に、イタリア歌劇団は物笑いの種だったとウィーンでの反応を報告している。ヴェルディは4月4日の初演の後すぐに、落胆した気持ちでウィーンを発った。そして彼はメレッリに良いキャストと演出を強要するには、作曲家をないがしろにさせないことだと気がつく。5月までにヴェルディとモチェニゴ伯爵との契約は、いろいろ検討された後、合意に近づいていた。
メレッリは演劇界において誰よりも、ヴェルディのぐらぐらしたスカラ座でのデビューを助けた。作戦と資金のやりくりで手腕家のメレッリはそれを成功させたのだった。ヴェルディのモチェニゴ伯爵との契約は、その時代の慣習を知らなければ、恩知らず者の巣立ちに見えるかも知れない。が、当時の人々は慣習からそうは考えなかった。ヴェルディとメレッリには「オベルト」と「ロンバルディア人」の間4年間の協働関係があった。それより25年前、ロッシーニはキャリア形成期に6つの劇場のため、12のオペラを作曲している。イタリアのオペラ作曲と上演の伝統は、徐々に変化してきてはいたが、1843年にはまだ興行師が全てを握っていた。興行師はある作曲家を雇って、ある劇場のあるシーズンに、ある観客相手の上演のため、オペラを書かせ、劇場所属の歌劇団に上演させた。作曲家たちは都市から都市に旅して、オペラを作曲するのが普通で、確立した作曲家でも、オペラを作曲してから、上演してくれる劇場を探すことはめったになかった。
ヴェルディのモチェニゴ伯爵への手紙で、オペラ制作契約がどのように進行したかを、見ることができる。これはヴェルディのビジネス手腕が見える典型的なもので、その腕はバレッツィの食料品店で訓練されたものと思われるが、非常にはっきりと条件を提示している。


1843年5月25日

親愛なる伯爵へ
契約書を受けとりました。その中にいくつかの問題点があり、貴殿も私も後で訴訟問題を起こしたくないので、問題解決の妥協案を書きました。受け入れるか、または拒否するかは貴殿次第です。

私は契約書第2項に縛られたくありません。というのは、監督がセリフ台本の第1案と第2案の両方を拒否して、決まらないことが考えられます。監督としては、作曲家の私が作曲したいようにセリフ台本を書くと、信じているかもしれません。したがって、監督がもし作曲家を信用できなければ、彼自身が台本を書き直し、その経費を私に回せば、私は払える範囲で支払います。

契約書第3項も受け付けられません。というのは、私は常に(私のウディーンからの手紙に説明した通り)ピアノ・リハーサル中にオーケストラの作曲をします。ですからドレス・リハーサル前に楽譜が完成することはないのです。

第7項の「上演3回目の後」は削除してください。というのは、3回目は実現しないかもしれなく、それに私は縛られたくありません。

第10項には次の文言を追加していただきたい。
2.セリフ台本の出版経費はマエストロが負う。
3.マエストロ・ヴェルディは「ロンバルディア人」上演の約1ヶ月後に、新作オペラ初演ができるように準備を進めることを誓いますが、上演の質向上のため、十分なリハーサルが行われることを条件とします。
7.彼は12,000オーストリアン・リラの報酬を受け取ります。支払いは3回の分割で、1回目は貴市に到着した時、2回目は第1回目のオーケストラ・リハーサル、3回目はドレス・リハーサルの後。
10.マエストロ・ヴェルディの新作オペラ上演に出演するアーティストは、マエストロ自身が、貴歌劇団員の中から選択できる。

契約書はかさばるので、同封しません。しかし、貴殿の希望があれば、返送または破棄いたします。貴殿から返信を頂く時は、パルマまたはミラノ宛てでお願いします。

最高の敬意を持って、忠実なる  G・ヴェルディ



題材選びは常に厄介なものだ。その夏の間中、ヴェルディとモチェニゴ伯爵はいくつもの台本を検討し、却下した。まず、キャサリン・ハワードのものを取り上げたが、ヴェルディはイギリス人の主人公に興味がなかった。彼はコーラ・ディ・リエンツィに惹かれたが、1347年にローマで共和国を設立して、イタリア国の統一を試みた歴史上人物のオペラを、オーストリア・ヴェニス国の検閲が許可するとは思われないことから、諦めた。ヴェルディはその前年に、ワグナーがオペラ「リエンツィ」を作曲して、ドレスデンの宮殿劇場で上演したことを知らなかった。知ったとしても、気にしなかっただろうが。英国にはリエンツィに関するブルワー・リットンの歴史小説があり、大人気で、戯曲にもなった。民衆から出たリーダーとして、リエンツィはヨーロッパ中で、革新派と共和制派のシンボルとヒーローとして人気があった。

フェニーチェの歌劇団に良質のバス、またはバリトン歌手がいないことで、ヴェルディはシャルルマーニュ大帝、リア王、バイロンの海賊、およびヴィクトル・ユーゴのクロムウェルの台本を拒絶した。しかし、最後の候補作から、ヴェルディとモチェニゴ伯爵はユーゴの「エルナニ」にたどり着き、やっと合意する。すでに9月に入っていて、ヴェルディには作曲する時間が、たった3ヶ月しかなかった。彼はすぐに大体の筋書きと、ドラマが盛り上がるシーンを書き出して、あとはフェニーチェ劇場の専属詩人、ヴェニス出身のフランチェスコ・マリア・ピアヴェにセリフ台本を任せることにする。

1830年にコメディー・フランセーズで初演になったこのユーゴの戯曲は、パリの若いロマン派作家が、フランスの古典主義を守っている護衛団を打ち破ったものとして、ヨーロッパ中で有名になった。古い護衛団はドラマには、時、場所と行動に統一性があるべきだし、コーネイルやラシーヌのように、ドラマの頂点で高揚はしても、一歩下がった詩的な言葉で表現するべきとしていた。これに対して、「エルナニ」は全て逆をいっていた。暴力的な激しい感情を庶民の日常語で表現し、30秒間の間に、何人かの死と、3人の自殺が平然を舞台上で繰り広げられた。古典主義戯曲なら、ギリシャ悲劇のメッセンジャーが舞台に現れ、惨事を観客に伝えるところだが。

劇の筋は、3人の男性が一人の女性、ドーニャソールを愛している。彼女はもちろん、黒髪と輝く目と気品ある立ち振る舞いで、とても美しい。サラ・バーンハートはこの役を演じる時、特別な目の動きと、「敬意」という言葉を発する時、素早くある表情を作ることで有名だった。3人の男性とは、まず非常に猛々しいスペインの地方君主で、ドーニャソールの叔父であり、後見人のシルヴァ公爵(彼以外は皆、彼はドーニャソールには年取りすぎていると思っている)、それにスペイン王のドン・カルロ、のちに神聖ローマ帝国の皇帝に選出された、歴史上のカール5世皇帝、最後にアラゴンのジョンというセゴヴィアの公爵の息子。可哀想なジョンは追放され、エルナニという名前で、謀反者として、山岳地帯をさまよっている。しかし、ドーニャソールから愛されているのは、ジョンだけ。(彼の名前はちょっと謎。エルナニというのは、ユーゴが以前に行ったことがあるスペインの村の名前で、ヴェルディはそのままオペラの中で使っている。ユーゴがなぜ、彼の主人公の名前に‘H’で始まる名前を選んだのか?は全く理解に苦しむ。単にイニシャルが気に入ったとしか考えられない)

戯曲は男性たちがオタやかに相手を非難するスピーチで始まる。その間、ドーニャソールは行ったり来たり。こういうスピーチは当時の名誉心、自尊心、復讐心などについて語り、非常に長く、間で邪魔を入れたくなるところだ。

ヴェルディのオペラのセリフ台本では、原作のドラマの筋書きをほとんど取り入れるが、登場人物の性格や動機などの説明に役立つかもしれない細かい点は省いている。このやり方は、観客がその戯曲をよく知っている場合には、問題ないが、現代のように全くその知識を持っていない観客が相手だと、ただ混乱の中で、大言壮語のシーンで、分かることは、いずれ、誰かが仮面を剥ぐということだけ。ヴェルディはドーニャソールの名前をエルヴィラに変えている。これで違う音の組み合わせになり、音楽的に可能性が増える。第1幕の幕が上がると、追放された貴族、アラゴンのジョン(テノール)がエルニナという名前で、山岳地帯に仲間と隠れているシーン。彼は部下たちにエルヴィラをシルヴァの城から誘拐するのを手助けしてくれと頼む。そして、舞台はエルヴィラの部屋に移る。彼女がエルナニを恋しがっているところに、ドン・カルロ(バリトン)が変装して入ってきて、愛を打ち明け、彼女を拐おうとする。そこにエルナニが入ってくる。二人の男はお互いを脅迫し、エルヴィラが両方を見比べているところに、シルヴァ(バス)が入ってくる。彼は当然として、我が婦人の部屋にいる侵入者2人を始末しようとした矢先、ドン・カルロが変装を脱ぎ、自分はスペイン王だと名乗る。これで舞台は騒然となり、驚いて集まった人々のコーラスをバックに、主人公たちは次の作戦を練る。

ヴェルディはエルヴィラが歌う有名なアリア「エルナニよ、一緒に逃げて」を3拍子のワルツにしている。そのあとは少しオペラッタ風とも聞こえる、当時のスタイルの音楽をつけている。このスタイルは彼自身が後年、新しいものに変化させ、以前の自作オペラを、時代遅れのものにしてしまった。それから何年もの間、批評家も一般市民もこの変化は良いものへの変革だと信じた。現代においては、この意見は少数派のものではあるが、チャレンジされている。彼は晩年にはイタリアン・オペラを横道に導き、そのままになっている。

オペラ・ハウスに初めて来た人なら、このシーンの組み立ての粗雑さを見ることになる。歌手たちはまるでコンサートの時のように、舞台に入ったり、出たりする。一人ずつ、舞台に入ると、まずは短いレチタティーボを歌い、スロー、ファーストの2つのアリアを歌う。この順序で観客は熱狂的な拍手喝采を送る。ファースト、速い部分は、馬がギャロップで走るようなので、「キャバレッタ」と呼ばれる。ドン・カルロのアリアは一つだけなのだが、同様のパターンになっていて、フィナーレの形式になっている。このパターンが6回も繰り返されている。

しかしコンサート形式というのは、いくらよい音楽を提供しても、ドラマにはならないのだ。ヴェルディがエルナニで使ったこの音楽パターンは当時の典型的なもので、ここで説明するまでもない。このレチタティーヴォ、スロー、ファーストのアリア2つのパターンを維持するため、作曲家はドラマの展開をファーストのアリアの後まで、または次のレチタティーヴォまで、抑える。ここで、ドラマの進行と音楽的パターンが衝突する。そして、この衝突は解決できないオペラの欠陥なのだ。作曲家はドラマを選択するか、音楽を先行させるか、迫られる。完璧な解決法はない。どちらをより先行させるかは、当時のスタイルで多少決まってくる。

このオペラ固有の問題の上にさらに、ヴェルディは登場人物の性格をよくつかんでいない問題があった。3人の男性とエルヴィラのアリアは、それぞれの声域と機敏性以外、入れ替えができるほど、似ている。ヴェルディがシルヴァに歌わせたアリアは、エルナニのアリアより、猛々しいとか、年寄りっぽいということはなく、ただ、バス歌手に合っているというだけ。同様に、これらのアリアのセリフと音楽にあまり関連性が見られない。ファースト・アリアが愛の言葉を弾き出すにも、敵に挑戦する時にも使われている。されにオーケストラの音楽が粗雑で、時には野蛮に聞こえる。ヴェルディはまだブセットの広場でのブラス・バンドの音楽を奏でているかのよう。彼がロッシーニのウィリアム・テルとか、ドニゼッティのドン・パスカルのような洗練されたオーケストラ音楽が書けるようになるには、さらに数年要した。

このオペラの特異点は、メロディーの多さだ。素晴らしく、輝かしく、調子いい旋律の歌の連続で、男性が憤って歌ったり、家で涙したり、または通りで口笛を吹いて歌えるようなメロディが満載されている。80年もの間、これらアリアの多くは、コンサートのプログラムに入っている。現代でも、エルヴィラとシルヴァのデュットは、ソプラノとバスのゲスト出演には欠かせないレパートリーになっている。さらに第3幕と4幕は、第一幕と同じくらい、またはそれ以上に評判のアリアが続く。バリトンのための見事な2つのアリア、カール5世となるドン・カルロを讃えるフィナーレの合唱曲。さらに第3幕でエルナニの仲間たちが歌う「カスティーリャの獅子よ、もう一度目覚めるのだ、、」という合唱曲は、最も有名になった曲である。イタリア統一運動中、イタリア中で、マッツィーニ支持者も、色々なカラーの反オーストリア派も、皆カスティーリャの代わりに、ヴェニスとか、イタリアとかに入れ替えて歌い、ヴェルディと彼の音楽は彼らのものになっていった。

ヴィクトル・ユーゴ

ユーゴの「エルナニ」をこう解釈するのは当然だった。というのはユーゴはロマン派文学とは自由主義運動のもので、政治的目的と暗示が盛り込まれていることを、彼は前書きに書いているからだ。ヴェルディが彼のオペラの中に同様のことを試みた証拠はない。ただ、曲をつけるのに、いい筋と思っただけらしく、彼のオペラは政治的シンボリズムよりも、4人の主人公の人間的内面に焦点が当てられている。政府に反抗している謀反者を讃え、中世的騎士道に準じたシルヴァの復讐を無益なものとし、そして、ユーゴの考えに基づくのか、ドン・カルロに革新的な君主制を歌わせている。「ナブッコ」でヴェルディは、民衆が自由を求める主題を扱い、「ロンバルディア人」では、イタリアの栄光の時代を扱った。「エルナニ」では、政治的背景に中の4人の悲劇的運命を扱った。これはアイーダにも見られる典型的ヴェルディと言える。しかし、この頃彼は共和制派で、だからこそ、この戯曲に惹かれ、他には目もくれなかったのだ。やり始めると、彼はシャルルマーニュの霊廟の横に謀反者たちを集めて、舞台効果を狙った。彼もモチェニゴ伯爵も、もちろんオペラの興業的成功を狙ったが、政治的トーンは下げながら、ユーゴが盛り込んだ政治的シンボリズムに、イタリアの一般観客が共鳴することを望んだ。それはイタリアだけでなく、ドイツでもフランスでも。1848年のヨーロッパ中の国々を襲った革命事件は、それからたった4年後のことだった。オーストリア・ヴェニス国の検閲は、図らずも、たった数行の書き直しを命じただけで、この台セリフ台本を許可した。

他にも書き直しを強いられたが、ヴェルディは、すでに有名な作曲家というパワーを利用して拒んだ。それからも彼はそのパワーを活用している。角笛にも問題があった。猛々しい老公爵のシルヴァは、古い騎士道的もてなしの礼儀を重んじて、ドン・カルロの要求を退け、ゲストのエルナニを差し出さなかったことで、国王に借りを作ってしまう。憤慨して、ドン・カルロはエルヴィラを人質として攫っていく。シルヴァはエルナニに決闘を申し込むが、エルナニはドン・カルロへの復讐を果たす時間をもらうため、シルヴァに角笛を渡し、彼がそれを吹いたら、自害すると約束して、その場をしのぐ。最終幕で、エルナニとエルヴィラの結婚祝賀パーティの後、シルヴァは変装姿で現れ、角笛を吹く。明らかに、この角笛は重要な小道具で、シルバはそれを持って舞台に現れる必要がある。ところがモチェニゴ伯爵はなぜか狩猟用の角笛をフェニーチェ劇場の舞台に持ち込むとフェニーチェの威信に関わるとして、反対する。ヴェルディは角笛を舞台裏とか、ピットの中とかから、吹かせるたら、効果は半減すると主張する。そして、ヴェルディが勝つ。

角笛

角笛の意味と筋書きの中での役割の重要性について、ヴェルディは自害の前に、エルナニにその約束について歌わせ、テーマの純粋さに音楽的価値を加えている。短いテーマだが、純粋に儀礼的で、ヴェルディはこれを使って、このオペラ全体を締めくくっている。実はこの不吉な運命を暗示する旋律は、オペラの前奏曲でも聞かれ、第2幕でもエルナニが誓う場面で再度聞かれ、最終幕でシルヴァが、死を強要するときに2回聞かれる。こういうことができることが、オペラが戯曲に勝る点だと言える。

ヴェルディのアーティスティックな戦いは、ソプラノ歌手、ソフィア・ロエヴェに関した方がもっと深刻だった。ソプラノ歌手によく見られるのだが、彼女も気難しいことで知られていた。「ロンバルディア人」のリハーサルのときは、ヴェルディは礼儀正しく、距離を置いて上手に対応した。彼は友人にこう手紙に書いている:私たちはお互いに褒め言葉を2、3交わしただけで、終わった。これ以上、私は彼女を一度も訪問したこともないし、する気もない。今までのところ、彼女はすることはちゃんとしたし、むら気な様子はないので、悪口を言う必要は全くなし」と。

しかし、このよそよそしい関係は、突然悪い方に展開して、大変な結果となる。
問題の原因の一つは、「ロンバルディア人」のヴェニス公演が成功でなかったことで、ロエヴェ女史は「エルナニ」について、神経質になっていた。なぜ「ロンバルディア人」がヴェニスで成功しなかったのかは、不可解。多分、前評判が高すぎて、ヴェニス市民は地元の誇りから、このオペラを拒否したのだろう。ヴェルディはアッピアーニ夫人への手紙にこう報告している:


おそらく、「ロンバルディア人」のヴェニス公演についてのニュースを待っていらっしゃるでしょうから、幕が降りてまだ15分もたっていませんが、急いで報告すると、これは典型的「フィアスコ」に終わりました。幻覚のキャバレッタ以外はすべて、彼らのお気にめさなかった様子でした。これは本当の話で、喜びなしに書いていますが、悲観はしていません。



フィアスコとはイタリアのガラス吹き技術の専門用語で、何かの原因で吹いたガラス器がしおれると、失敗作としてワラを敷いたカゴに落とされること。オペラ・ハウスで使われる意味は明らかで、それが起こると関係者はみな気短かに怒りまくる。典型的な失敗作となると、それからの爆発は避けられない。

ヴェルディとロエヴェの喧騒は「エルナニ」の最終幕で起こる。ヴェルディは最終場面でシルヴァ、エルナニとエルヴィラの3重唱を入れることで、ユーゴの原作より、手っ取り早く、クライマックスをオペラで表現できると信じた。シルヴァはエルナニの命を要求し、エルヴィラは容赦してくれとシルヴァに哀願し、エルナニは彼の運命を天に抗議する。ユーゴは戯曲の中で、首尾よく一人ずつ演説させるが、ヴェルディはそれらを一つの曲の中にまとめたのだった。このような場面ではオペラの方が戯曲より効果的な演出ができる。
ロエヴェは多分、「ロンバルディア人」の中で彼女が歌った幻覚のキャバレッタが良かったことを思い出して、3重唱の後、エルナニ自害の寸前に、同じようなキャバレッタを彼女のために入れて欲しいと要求する。彼女はピアヴェにその歌詞を書いてくれと頼んだ。それまで、ヴェルディと仕事をしたことがなかったピアヴェは、彼が書いた歌詞が突然、取り上げられ、驚く。最後にはヴェルディが勝ったが、初演のとき、ソプラノの機嫌が悪いことが、他のキャストにも影響したらしい。再び、彼はアッピアーニ夫人にこう書く


昨夜、初演された「エルナニ」は、まあ成功でした。もし、音をはずさずちゃんと歌える歌手ばかりなら、「エルナニ」はミラノでの「ナブッコ」や「ロンバルディア人」と同じくらいに成功したでしょう。テノールのグアスコは、声がまったく出ず、恐ろしいほどでした。ロエヴェも昨夜は最低でした。グアスコのキャバティーナ(ゆっくりのアリア)を除いて、それぞれのアリアでは拍手喝采が入りました。一番喝采を浴びたのは第一幕のフィナーレ、謀反者の策略の場面で、デュットからトリオになる前に入るロエヴェのキャバレッタ、そして、第3幕の3重唱。
カーテン・コールは第1幕の後、3回あり、第2幕では1回、第3幕では3回、最終では3回か4回でした。これは本当の話です。1週間後にミラノに戻ります。



当時の批評記事はヴェルディの自己評価を裏付けている。初演はただの成功だったが、2、3回の後には、歌手たちの風邪も治ったのか、または作曲家のご機嫌をとるべきと思ったのか、「エルナニ」は大成功になった。フェニーチェの2ヶ月のシーズンの後、サン・ベネデット劇場で、別のもっと良いキャストで上演が続けられた。ヴェニスの市民たちは、何度も何度も足を運んだようだ。彼らが気に入ったのはメロディーだった。ある批評家はアリアなどを1曲ずつ吟味して、特に興味とインスピレーションのクライマックスを最後の3重唱に持ってきたことを褒めた後、こう書いている: ミュージックは非常に強い印象を与え、日曜日の公演の前に、人々はすでにテノールとバリトンのアリアを口ずさんでいる」と。さらに「初めて聴いた時から、印象を強く持ち、人気が出るということは、良いミュージックの特権である」と付け加えている。こうして、ヴェルディは「エルナニ」を持って、戯曲的にも、音楽的にも、時代の気分にぴったりな作品を生むことに成功する。

彼はヴェニスでお祝いの会や、称賛を待たずに、作曲家が指揮する慣わしの3回目の公演がフェニーチェで終ると、すぐにミラノに出発した。そして、伝統的な習慣である、主役のソプラノ歌手を訪ねて、人々の前で大げさな称賛の言葉の応酬などもせず、ただ、カードを書いて、ロエヴェ女史に送って、礼は尽くした。しかし、今回ヴェルディがそそくさと帰宅の途についたことは、劇場での問題があったからではない。全てがうまく運んでいた「ロンバルディア人」公演の初日の前から、ヴェルディは友人に、「ヴェニスは美しい。まるで詩そのもので、神々しい。しかし、、私はここに自発的に滞在することはないでしょう」を書いている。

ヴェニス

1年前の春にもウィーンで、「ナブッコ」の初演の後、彼はウィーンを出発して、ブセットに行き、パルマに寄ってから、ミラノに帰っている。パルマでは「ナブッコ」の公演とストレッポーニとの再会があったが。そして、その時またブセットに寄ってから、ミラノに戻っている。こうした急いだ様子は、必ずしも、ビジネスのためだけではない。彼の手紙などから、見えるのは、常に時間表を調べ、前もって、予定を組み、新住所を残す落ち着かない新進音楽家の姿。ヴェニスやウィーンの絢爛豪華な光景に、彼は興味がない様子である。ロエヴェ女史に対する怒りも、数ヶ月後、ボローニャでの「エルナニ」公演で再会した時には、忘れられていた。マルガリータと子供を亡くしてから、4年になる。過去の3つのオペラの成功で、彼は30歳にして、イタリアで最も人気のある作曲家となる。彼は決して自分の気持ちを言わない人だったが、彼の行動や手紙から見る限り、彼はあまり、幸せな人間ではなかったようだ。

シルヴァとエルナニ


【翻訳後記】
ヴェルディにとって、新しい時代が始まりました。初めてミラノのスカラ座以外の劇場の興行師と契約を交わし、彼の劇場のあるヴェニスに乗り込みます。オペラの題材が決まってから、初演まで3ヶ月しかなかったのに、彼は充分自信を持って、ヴェニスのフェニーチェ劇場での新作オペラを引き受け、オペラを完成させています。頼もしいですね。自信が出てきたのでしょう。

本文にあるモチェニゴ伯爵へのヴェルディの手紙は、内容的にも文調にも駆け出し作曲家が書いたものとは思えないものです。著者はこのビジネス感覚はバレッチ商店で学んだものとしていますが、私が観たテレビドラマでは、その春のパルマ滞在中に、こうした契約に精通したストレッポーニが助言、時には代筆したことになっています。「然もありなん」です。手紙の日付が5月23日ですから、彼がパルマを去った頃です。この手紙にいたるまでに、ヴェルディはストレッポーニに相談する時間は充分あったはずですから、そういう解釈は当たっていると思います。でもヴェルディ自身のビジネス手腕も大したもので、後年サンタガタで作曲の傍に農園経営をしますが、細かい帳簿付けも自分でやっていたようです。

フェニーチェ劇場のフェニーチェとは、不死鳥のこと。その名の通り、この劇場は何度も焼失しては建て替えられた歴史があります。建て直されて、再開館された1792年を記念して、正面2階のバルコニーの上にローマ数字で1792とあります。羽を広げた不死鳥のトレードマークも見えます。1836年に再度火事で全焼しましたが、すぐに最新の技術を導入して1年後には再建されています。ヴェルディの「エルナニ」の初演は1844年ですから、再建されて間もない頃。強いパトロンがいたからか、またはオーストリア帝国が惜しみない援助をした結果かは分かりませんが、フェニーチェの華やかな時期だったようです。

フェニーチェ劇場正面

サンマルコ地区にあります。サンマルコ広場から歩いて10分ほどのところで、舞台は小さめで、観客席も1000と少ないですが、音響効果は素晴らしい。

またもう一つ注目したいことは、ヴェニスの町のこと。イタリアのオペラは1600年頃から始まりました。活動の中心は北はヴェニス、南はナポリでした。バロック期のバッハ、ヘンデルは1680年代生まれ。ヴィヴァルディは1678年ヴェニスで生まれ、牧師で、女子孤児を集めたオーケストラを指導しながら、ヴァイオリンニスト、作曲家として活躍します。ヴィオリンの曲が一番有名ですが、オペラも50作も書いています。今でもヴェニスはバロック・ミュージックが盛ん。

「エルナニ」も2ヶ月のフェニーチェでの公演のあと、別の劇場で公演が継続されます。このように演劇が商業的に定着していた状況は、ヴェネチア国がナポレオンに制覇されるまで、共和国だったことがあります。西ローマ帝国が崩壊した(476年)あと、20くらいに分裂したイタリアで、伝統的に共和国を維持したのは、ヴェネチアとジェノア、それにボローニャの3国。またヴェニスで17世紀からオペラが盛んになったのも、初めから宮廷で培養されたものでなかったことが、その背景にあったからでしょう。
モーツァルトは宮廷音楽家でしたが、1791年に初めて民間の劇場で、庶民の言語、ドイツ語で書かれた「魔笛」を初演したそうです。フランス革命が1789年だったことを考えると、「魔笛」がドイツ語で民間の劇場で初演された事実は、それと無関係だったとは思えません。

ヴェルディは「エルナニ」の後も、この劇場と良い関係を維持して、「アッティラ」、「リゴレット」、「ラ・トラヴィアータ」それに「シモン・ボッカネグラ」をここで初演します。この期間はオーストリア帝国の管轄下で、ヴェルディはその点不満だっただろうと思いますが、台本作家のピアヴェは1848年の革命勃発後、志願兵になったところを見ると、地元民衆に共和政考え方が浸透していたのかもしれません。

著者も書いているように、「エルナニ」の原作はヴィクトル・ユーゴの同名の戯曲ですが、フランス語ですから“Hernani” です。フランス語はHを発音しないので、ヴェルディのオペラはイタリア語で題は「エルナニ」になりました。このお話は神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたカール5世が半主役的に登場します。ちょっと調べてみると、彼は1500年に生まれ、皇帝に選出されたのは1519年(ローマ法王によってボローニャで正式に戴冠したのは1530年)ですので、この話は彼が19歳の時に起こったことになります。彼の祖父は神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世で、彼とブルゴーニュ皇国の皇女との間にできた嫡子フィリップはスペインのイザベラとフェルナントの娘ファナと結婚します(これ以上の良縁があるでしょうか?)。ここからハプスブルク家のスペイン王家との婚姻関係が始まり、ハプスブルク家の版図が広がります。5人の子供のうち、長男のカールはブルゴーニュ公国が統治していたフランドル地方で生まれ育ち、次男のフェルディナントはマドリッドで生まれ育ちました。1516年にスペイン王が亡くなったとき、順序から言ってカールが当然次期スペイン王となり、マドリッド入りします。弟のフェルディナントは反対にブリュッセルに移住しますが、スペイン地元で彼の人気は高く、カール新スペイン王への反発が強く、「エルナニ」のようなカール打倒の叛逆者が出現したようです。
さらにマクシミリアンが1519年に亡くなり、神聖ローマ帝国は次期皇帝の選出をします。それがこのオペラの第3幕で帝国の首都のアーヘンのシーン。そこに駆けつけシャルルマーニュ大王の霊廟の中に隠れて、決定を待ちます。彼を追いかけて、エルナニと彼の叛逆団、それにカールを暗殺しようとするシルヴァの騎士団も集まります。ここで有名な「カスティーリアの獅子たちよ、もう一度目覚めるのだ!」が歌われます(一度目は1492年にムーア人を追い出した時)。この曲は「ナブッコ」の「行け、私の思いよ!」の次にイタリアの愛国運動の歌になります。とても調子の良い合唱曲だと思います。

このオペラはユーゴ原作の戯曲をもとにしているので、筋の展開と4人の主役級の人物のセリフが素晴らしい。4人の主役級のオペラ歌手はそれぞれ、十分に歌い上げる場面がはめ込まれていて、グランド・オペラらしい演目です。オペラ評論家のジュリアン・バッデンはヴェルディはこのオペラで男声による役割当てを体系化したと書いています。若き美女はソプラノ、彼女を愛する3人のうち、若い反逆者はテノール、自信あふれる若き国王はバリトン、そして老齢だが、彼女を熱愛し、また騎士道の掟通り生きる老貴族はバスとなっています。
またこのオペラは1519年のスペインということで、実際に新大陸からの金銀でスペイン王家が潤うのはもう何十年か後ですが、ここではすでにその栄華の中でのお話ということにして、ニューヨークのメトロポリタン・オペラの舞台は舞台の3分の2を占める大階段、4人の主役も衣装も豪華なもので、これだけでもグランド・オペラの風格が出ています。

私が持っているDVDはこの時のメトロポリタン・オペラのもの(1983年)で、パヴァロッティがエルナニ役。彼の適役とは言えないと私は思いますが、いい声は何を歌っても、いつ聞いてもいいということも本当です。エルヴィラ役は黒人のソプラノで、声量があって、カール5世やシルヴァの乱暴な主張に口を挟むところは、エルナニを愛するエルヴィラの必死な思いが迫力ある演技になっています。それにしても、このオペラには4人の主役級の歌手が必要ですから、それを集めるだけでもオペラハウスの力量が試されるわけです。

YouTubeでこのvideoを探してみました。
まずは一番評判になった「カスティーリャの獅子たちよ、もう一度目覚めるのだ!」を聞いてください。

次に前奏曲を聞いてください。明暗をはっきりだした曲で、初めの1小節が不吉な運命を暗示するこのテーマで始まります。

その後、雰囲気はガラリと変わって、気品ある宮廷文化、当時の貴族社会を表現していると思います。指揮者はムッティです。まだキリリと若いので、1980年代の録画でしょうか?

このオペラの4主役たちのアリアを聞いてみたいと思います。
まず、パヴァロッティのエルナニの第一場面、「山賊」と題された場面で、エルナニがエルヴィラのことを歌い、仲間に彼女を攫うのを手伝ってくれと頼むところです。これは1983年のニューヨークのメトロポリタン・オペラのvideoです。雰囲気が出ていると思います。

次に第一幕第2場でエルヴィアがエルナニを恋焦がれて「エルナニよ、一緒に逃げて」を歌い、その後明日に控えたシルヴァとの結婚への贈り物を女官たちが持っていきます。ソプラノはミレラ・フレニ。

その後ドン・カルロ(カール5世)が変装で現れ、愛を告白、そこにエルニナも現れます。次のvideoは、シルヴァがエルヴィラの部屋に2人の男を見つけて、その場で自ら刀を抜いて処分しようとする場面です。この後、ドン・カルロが仮装を脱ぐと、スペイン王だと分かり、皆ひざまずきます。

次にカール5世となったドン・カルロが第3幕のフィナーレで歌う場面。謀反者団の貴族は斬首、兵卒は牢屋へと言い渡すと、それではパヴァロッティが自分はアルゴンのドンジョバンニとして処刑されたいと歌い、そこにエルヴィラがカール5世に寛容の心を持ってと懇願します。カール5世はシャルルマーニュ大帝の像をみながら、では自分も彼に見習って、寛容の心を持って、寛大な措置をすると宣言。まずは愛し合っているエルヴィラとエルナニの結婚を認め、次に謀反者たちも赦免。ソロ・アリアから、3重唱、フィナーレで合唱曲になる美しいクライマックスです。カール5世はシェリル・ミルネという80年代に活躍したバリトン歌手で、素晴らしい。カーテン・コールでは初めは硬い表情で現れますが、観客の喝采に応え、また自分の出番はこれで終わりと気がついたのか、穏やかな表情になり、彼の人柄が出た茶目っ気ある笑顔になります。あとの3人にはまだ第四幕のフィナーレが控えています。

最後にオペラの最終場面。これはニューヨーク・フィルハーモニーのコンサートで、パヴァロッティのエルナニ、それにアプリル・ミロのエルヴィラ、スキャンデゥッチというバス歌手がシルヴァを歌っています。オペラではエルナニが自害し、エルヴィラに生きるように諭して、死にますが、ユーゴの戯曲ではエルナニに続いてエルヴィラもシルヴァも自害して幕になるそうです。


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