見出し画像

極悪人・佐渡の三世次の悲哀を高橋一生が魅せる 「天保十二年のシェイクスピア」

圧巻だった。もうそれしか言えない。ほかに言葉が見つからない。

高橋一生さんの出演する舞台のDVDは2本持っていた。「トランス youth version」(2005年公演)と、「深呼吸する惑星」(2011年公演)の2本だ。

気が付いたらチケットが手に入らなくなっていた、「天保十二年のシェイクスピア」のBlu-rayを購入したのが、昨年11月ごろ。ようやく届いたBlu-rayを年始休みに観よう観ようと思いつつ、うっかり「トランス」を観てしまったり、「岸辺露伴は動かない」を何度も観なおしてしまったりしていて、時間が取れずにいたのだ。

実を言うと私は、舞台で喜々として躍動する高橋一生さんを、生で観たことがない。けれども「天保十二年のシェイクスピア」を観て、感じた。やっぱり一生さんは生で観る機会があるなら、絶対観ておいたほうが良いと。

「天保十二年のシェイクスピア」ってどんな物語?

井上ひさしさんの戯曲で、『天保水滸伝』という任侠劇をベースに、シェイクスピアの全37作品すべてを登場させるという、なんだかごちゃごちゃと、てんこ盛りな作品だ。「祝祭音楽劇」と謳われていることからもわかる通り、ミュージカルと言って良い。

高橋一生さんが演じるのは、「佐渡の三世次」。そのネーミングから、リチャード三世的なだけかと思ってたら、いやはや、何ですかこれは。「ジュリアス・シーザー」のブルータス、「オセロー」のイアーゴーなんかの要素もあって、まあ忙しい。

こんな大変な役、他に誰が?? と思って思わず調べてしまった。唐沢寿明さんが2005年の蜷川幸雄さん演出の時に演じておられる。唐沢さんの三世次も観てみたかったな、と思う。蜷川さんの演出なら、今回とはだいぶ違っていただろう。

人物相関図は、購入したBlu-rayについていたので、写真を貼っておく。

画像1

清滝村の三姉妹と跡目争い

清滝村を取り仕切る、鰤の十兵衛がトシなので隠居するという。三姉妹(お文、お里、お光)の誰に跡を継がせるかというところから、悲劇は始まる。

ってここまで読んで、まんまリア王じゃん。と思った方、正解。

十兵衛は、自分のせいで跡目を継がせたかった三女のお光を、家から追い出すこととなってしまう。結果的に、薄情なお文とお里が、十兵衛の持つ旅籠を一つずつわけることになるのだが、この2人、まあ仲が悪い。相当悪い。数年後には、お文とその亭主のほうは「よだれ牛の紋太一家」、お里とその亭主の方は「代官手代の花平一家」と呼ばれるようになる。

お文とお里が、素晴らしい歌声を披露する。お文役の樹里咲穂さんは元宝塚、お里役の土井ケイトさんは、それほどたくさんミュージカル経験はおありにならないようだが、舞台経験は豊富。経験に裏付けられた確かな実力が、観るものの心を揺さぶる。

三世次、清滝村に登場

そんな対立が水面下で進行している清滝村に、足を引きずり、顔に大きな火傷の跡がある男がやってくる。佐渡の三世次(高橋一生さん)だ。

この登場シーンから、さっそく一生さんの歌が聴ける。

・・・意外と上手い。声量もある。
そして、声の出し方がいつもと違う。「岸辺露伴は動かない」の時の声の出し方に近い気がした。この声の出し方をするとき、一生さんは何をどのように意図して、使い分けているのだろうか。非常に気になる。もしかしてこの出し方だと、出せる声の高低の範囲が変わるのだろうか。

三世次は言葉を操ることで、人の心を惑わし自分の望みを叶えていくだけではなく、ほくそ笑みながらそれをやってのける、極悪人である。野心にあふれ、そのためには多少の犠牲は仕方ないと思っているフシがある。

そして三世次、「リチャード三世」モチーフだからか、早口で長台詞のシーンがとても多い。「岸辺露伴は動かない」の長台詞程度で、驚いていてはいけなかった。高橋一生さん、よく噛まないなと感動する。噛むときもあったりするのだろうか。あるのだろうな。

シェイクスピア的世界観へ

対立構造の舞台装置を、江戸時代のやくざの世界ふうに整えたところで、シェイクスピア的要素が入ってくる。

お文は亭主の弟と共謀して亭主を殺してしまうし、お里は用心棒の幕兵衛(ってまんまマクベスじゃないか)をたらしこみ、亭主を殺してしまう。

最初はリア王だけかと思っていたら、あるタイミングでオセロー的な要素が入ってくる。あとで”きじるしの王次”(浦井健治さん)が登場してからは、「ハムレット」も。

どうやら、この舞台は次々に、これでもか!というほどシェイクスピア要素をバンバン入れ込んでくるようだ。といってもそこまで詳しくはないので、細かいところに入れこまれても気づかないだろうな、と思いながら観ていた。

きじるしの王次は王子

父の死を聞かされたきじるしの王次が、清滝村に戻ってくるシーン。浦井健治さんの歌と踊りが、惚れ惚れするほど素敵だ。一気に場の空気を持っていく。もちろん、叔父に父を殺されたハムレットの王子としての意味合いで「王次」なのだろう。その証拠に、やたらと「To be, or not to be. That is the question」の訳語を死ぬほど言わされるシーンがある。

この後お光と恋仲になるところでは、「ロミオとジュリエット」も入ってくる。ロミオになってしまった王次は、腑抜けになるが、これも三世次の計略によるものだ。三世次、恐るべし。

佐渡の三世次は忙しい

三世次は、まあ忙しい。きじるしの王次(浦井健治さんを幽霊(百姓に頼んだ)を使って騙し、お光を使って骨抜きにし、口八丁で紋太一家と花平一家を混乱させる。

そして、「シェイクスピア」であるからには、死人が出る。それも、かなり多い。死人が出るたび、極悪人・三世次は権力と地位という、望むものを手に入れていく。二つを除いて。

三世次の悲哀

双子の姉妹、お光とおさちに想いを寄せている三世次。お光は恋しい王次が死んでから塞ぎ込んでいるし、おさちは代官の妻だ。それにしても顔が同じならどっちでも良いって言うのは、一体どういう了見なのかと、三世次にツッコミたくなる。女の欲しいものを全く理解していない。
キンキーブーツの「What a woman wants」を、三世次に大音量で聴かせてやりたくなる。

計略を巡らせ、代官を殺しておさちを手に入れたばかりか、ついに代官の地位まで、三世次は手に入れる。

だが、この後のおさちとの場面での表情が、何かおかしい。
清滝村の花平一家の後釜に収まった後の、「全てを手に入れたかのような、晴れがましい表情」とは全然違う。心に重りを抱えているかのような、そんな顔をしている。

おさちの態度と、台詞から理由が判明する。ついにおさちの心は、手に入らなかったのだ。

どれだけ三世次の口が上手くても、おさちの心は動かなかった。おさちは前の夫を愛していた。

また、言葉の力で金と権力ばかりを追い求めて来た三世次には、人望がなかった。そしてその人望の無さが、彼の命取りとなるのである。口八丁で人を陥れ、世を渡って来た三世次が手に入れられなかったもの。今際の際に、これまで犠牲にしてきた人たちが見えて、三世次に恐怖を与える。

最期、切られた後の三世次の表情に、悲哀を強く感じた。

終わりに

なんだか、シェイクスピアでてんこ盛りにするために、適当な舞台装置を設定して作られたような感じだな、という印象が残った。細かいことを考えず、シェイクスピア作品との繋がりを楽しみつつ、上手い役者たちの競演を楽しむ。そんな作品だった。

佐渡の三世次は、シェイクスピア作品の色々な要素をぶち込まれる、難役だ。高橋一生さん、これは怪演と言って良いだろう。何度も何度も、一生さんの三世次を観たくなる。

もっとも、ほかの人が演じた三世次も観たい。上川隆也さんも演じていらっしゃるようなので、探してみようと思う。

舞台の面白さを存分に感じた作品だった。
今も公演中止が相次いでいるけれど、コロナウイルスの猛威が収まり、舞台作品を気軽に心から楽しめる日が、早く来て欲しい。そう願ってやまない。



この記事が参加している募集

コンテンツ会議

いただいたサポートは、わたしの好きなものたちを応援するために使わせていただきます。時に、直接ではなく好きなものたちを支える人に寄付することがあります。どうかご了承ください。