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井伊谷に生きたおとわと鶴と亀 『おんな城主直虎』を再び味わう

2017年に放送された大河ドラマ、『おんな城主直虎』は名作である。

年末年始の休みを利用して、50話からなる大作をもう一度観る気になったのは、昨年放送された『大奥』がとても面白かったことが影響している。森下佳子さん脚本の作品としては、やはり『おんな城主直虎』が最高傑作であるからだ。

大河ドラマを二度三度と観たのは、記憶にある限り初めてだ。何話で何が起こるか、だいたい覚えてしまっている。それでも、再訪した井伊谷には見た覚えのない直虎と直親と政次がいた。知っていたつもりの彼らの、見覚えのない顔。聞き覚えのない声。鳥のさえずりと虫の声。良いドラマは何度観ても新しい気付きをくれる。

今回、新しく気付いた点は大きく3つ。

1.脳筋男だと思っていた直親の意外な顔

今まで、直親は見た目こそ爽やかな好男子であるものの、父似の脳筋キャラであると非常に単純なとらえ方をしていた。だが、いったい何を観ていたのかと過去の自分に怒りたくなるほど、演じた三浦春馬さんのお芝居は違っていた。

直親は、そう単純なキャラクターではない。
井伊谷を追われていた10年の間にあった経験が、直親を作り上げたと考えるのが自然だ。好男子であるだけでは生きていけなかっただろう。ある種のしたたかさと、信頼できる人間をシビアに見極める目を携えて井伊谷に戻ってきた直親。政次は信頼できる人間だと判断したのであろう。

隠匿生活は、情報収集に必要な人間関係構築力や分析力を奪った。駿府へ足しげく通う政次にはかなわない。好男子ではあるのだが、隠れて暮らさねばならなかったことが井伊の跡継ぎから奪ったものは、あまりに大きかった。

三浦春馬さんのお芝居からは、「そんな自分を歯痒く思っている」ことが伝わってくるような気がしたのだ。だからこそ、政次との絆が美しくまぶしく感じられた。

2.「おとわ」という呼び方

幼少期は別として、直親と政次が「おとわ」と呼ぶ場面には明確な違いがある。

直親は、たまに「次郎様」と呼ぶことはあれど基本的に柴咲コウさん演じる主人公を「おとわ」と呼ぶ。一方、政次は「次郎様」「殿」と呼ぶのがデフォルトで、「おとわ」と呼ぶのは記憶にある限り2回だ。

直親の呼ぶ「おとわ」には元許嫁としての男女としての距離の近さを感じ、政次の呼ぶ「おとわ」には人としての信頼関係を感じる。

わたしの目からこぼれ落ちてしまっていたのは、単なる呼び方以上のものだった。

3.政次は月代前と後で人格が変わる

10話で奥山殿を刺してしまった政次は、落ち着いているようだが浮足立っている。おとわの元を訪ね、奥山殿を刺してしまったことを告白する。彼女と話しているうちに落ち着いてくるのだ。10話後半で、虎松の誕生祝いに所領を返すという時の政次は、声も弱弱しく目線も明後日の方向。

ところが、11話後半。
直親が今川に嵌められ、政次が駿府に幽閉されたあの時。直親が無事に井伊谷に帰ってこられないことがほぼ明らかになったあの時を経て、駿府から井伊谷に戻ってきた政次は、人が変わっていた。口調から弱弱しさは消え、まっすぐ冷淡に相手を見据える。彼の前で、嘘を突き通せる気がしない。

月代になっていた。月代は、兜をかぶっても蒸れないようにする工夫だという。要するに、「いくさの間」にするヘアスタイル。

政次は12話以降、ずっと井伊を守る戦をしているのだ。ずっと戦うと静かに決意したのだ。ひとりで。18話でおとわにバレてしまうまでは。そう気づいたとき、また胸が締め付けられた。

残念ながら正月休みの間に観られたのは、ここまで。
かえって良かったかもしれない。33話「嫌われ政次の一生」まで観たら、仕事に支障が出る。

何度でもいう。『おんな城主直虎』は、まごうことなき名作である。
非「マッチョ大河こそ大河の王道」派で未見の方には、ぜひお勧めしたい。

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