あいだを走り回る 2023/9/9 夏休みの日記

何日か前の日記に書いた「もっともっと一人になりたい」というのは、言葉に頼らないで、時間の中に在るということ? 何かを感じたときにすぐに言葉にしてしまうのは、社会的な生き物らしくて、とてもさみしい。言葉でしか何かを感じ得ないわけではないのだと信じたい。言葉が好きなのにどうしてこんなことを思うのかわからないけれど、中途半端に他人と混ざり合うーあるいは他人の世界と自分の世界が触れているうちは、まったくオリジナルではないことが、こわい。人間は時空を越えた交差点のように、過去と現在と未来の全部を持っている「いま」! すべてのパラレルワールド(あり得た、を、あり得る、に含んだ)をこの瞬間だけは生きていて、だからいろいろなものを、言葉を、うたを、空を、匂いを、温度を、喜びも悲しみも、叫びを本当は全部知っているはず。なるべく多くを選ぶのではなくひっつけて抱えて蹴り飛ばしてまた拾って、そうありたいと願ってた日のことを思い出した。ただ一つに執着したりされたりできないのなら、人間たちが一人のままに社会をつくっていく、そのあいだを走り回りたいと思っていたはずだった。それを始める前に他人を真似た幼稚で未完成な言葉で自分を、自分の世界を説明するのはもうやめたいです。言葉が自分だけのものにならないのなら、私だって言葉だけのものになっちゃいけない。なってやるもんか。昨日の夜付箋をつけたページには、「自己がなければ他者は存在しないのに、他者との関係の中にのみ自己を見出している。」と。複雑さがほしい。もっともっと一人になって、もっともっと複雑になりたい。

しばらくnoteに日記をあげるのやめようかな。せっかく続いてるのにもったいないかなあ


読んでた本:二十歳の原点

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