見出し画像

渡辺京二による西郷隆盛

 吉祥寺美術学院のアトリエでやっているワークショップ形式の「ことば」の授業も今年で6年目。もともとは美大・芸大を目指している浪人生と高校生のセンター国語対策として引き受けたお仕事だったが、作文のワークショップを組み入れていくうちに、もっともっと「読む」ことと「話す」ことをしたいと思うようになり、最近はセンター対策を個別対応にして授業のほうは「ことばのワークショップ」と化している。

 今月は前半に「政治」の話を、後半は渡辺京二の評論とインタビューを読んでいる。先週の課題は渡辺京二「死者の国からの革命家」を読んで、紹介文を1000字(くらい)で書く、というものだった。1000字というのが(受験生には)難しい。最近は教えている先生も書けない(描けない)ということがよくあるそうだが、ぼくは自分がそうなったら、「教える」仕事は辞める。「書ける」かどうかというのは、自分の状態を示すひとつのバロメーターでもあるからだ。

 他の仕事があまりにも忙しくて、学生だけが書いて自分は書かないということもあるにはあるが、なるだけ書くようにしている。先週も、自分が書いた原稿があったので、ここに載せてみよう。短い時間でざっと書いてほとんど推敲もしていないので、雑といえば雑だけれど、流して書いたものから見えてくるものもあるだろう。

 渡辺京二による西郷隆盛(二〇一七年一〇月二〇日)

 ──西郷隆盛ってさ、何度か島流しにあってるでしょ。その時に離島で、理想郷を見たって言うんだよね。

 先日、空族の富田克也さんと話した際、彼は急に西郷の話を始め、しばらく止まらなくなった。私には西郷は故郷の偉人であり、彼にまつわる遺跡は身近にあったが、西南戦争において日本の近代化に反発する薩摩の士族に担がれ不本意な死に方をした悲劇の人という認識があった。富田さんに勧められて、渡辺京二『維新の夢』に収録されている幾つかの文章、たとえばこの「死者の国からの革命家」を読んでいると、これまで知っていた「西郷隆盛」の像がどんどんゆらいでいく。

 西郷隆盛は明治維新の立役者として英雄になり、西南戦争の首謀として叛臣とされた。死後たった百年の間にその評価は三転、四転している。昭和初期には天皇制下における「理想的人格」と評され、そのぶん太平洋戦争後には酷評された。死んでなお彼の精神は生き、惑っているようである。

 西南戦争には第二維新革命と士族反動という両面があり、当初から二重性を孕んでいたという。西郷は「近代」を拒んだ人ではなかった。それどころか彼は維新回天を行った「最高の指導者」だったではないか。西郷には政治思想的に突出したところはなく、「偉大なるハリボテ」だったと渡辺は言う。しかしその「ハリボテ」なくして明治維新は起こり得なかったことを歴史は示している。彼には「国家の進路、革命の進路をつねにひとつの理想によって照らし出そうとする情熱」と「誠心」があった。西郷は日本に近代がもたらされることを願ったが、彼の考えていた近代は実際に日本で起こった近代とは異なっていた、という渡辺の指摘は、アジアにとって「近代」とは何かという世界史的問いから発せられている。

 西郷は安政の大獄から明治維新まで生き延びた唯一の志士だそうだ。そのぶん彼の悲しみは深い。それだけたくさんの「友」を亡くして自分は生きた。彼は月照と共に錦江湾に身を投げたが自分だけ助かり、奄美へ流刑になった。二度目の島流しの前には、寺田屋の変で有馬新七ら同士を殺されている。彼らは裏切られて死んだ。「朋友は何のために死に、政治は何のためにあるか」──西郷はそれ以降「死者の国の人」になった。その彼の目に「生ける民の原像」が現れた。島の農民コミューンに理想郷を見たのだった。渡辺は島に残された挿話から、そうした西郷の「覚醒」を見る。「大地の片隅でひっそりと誰ひとり知られずに過ごされる一生、天意はまさにこのような生と合致し、革命はまさにそのような基底のうえに立ってのみ義であると彼には感じられた」。

 彼の夢見た「国家」は、この二〇一七年の私たちにもなお何かを問いかけているような気がする。「近代」とは何だったのか。それにより得られたもの、失われたものは何だったのか。これから私たちはどこへゆこうとしているのか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?