樹木図鑑 vol.20 イチイガシ 〜保険には必ず入りましょう〜
学名 Quercus gilva
ブナ科コナラ属
常緑広葉樹
分布 茨城県以西の本州太平洋側、四国、九州、済州島、台湾、中国中南部
樹高 30m
漢字表記 一位樫
別名 ー
英名 ー
平安時代初期の、西暦841年のこと。時の天皇・仁明天皇が、東大寺裏手の春日山での狩猟を禁止するお触れ書きを出しました。それ以来現在に至るまでの1000年以上、春日山には人の手がほとんど入らず、原生的な照葉樹林が保存されました。いまでも、春日山原始林の奥に一般人が立ち入ることはできません………。春日山は、まさしく「聖域の森」なのです。
照葉樹林の分布域は、人間の活動が活発なエリア(関西、中京圏、関東)と完全に被ります。それゆえ、有史以来、照葉樹林は破壊され続けました。現在、照葉樹林は2000年前と比較すると2〜3%ほどしか残っていないと言われています。
春日山のように、原生的な照葉樹林が残された場所というのは本当に貴重なのです。そういった希少さを買われて、当地は1955年に国指定天然記念物に、1998年に世界文化遺産に登録されました。
ぼくは、春日山に何回か足を運んだことがあるのですが、やっぱりあそこの森は特別です。他の森とは明らかに違う厳かな空気が、森の中に充満しています。2000年前の日本にタイムスリップするのと同じなのですから、特別な雰囲気を感じ取るのも当然かもしれません。
春日山が特別な場所である、というのは、そこに住む樹木たちにとっても一緒。今回ご紹介するイチイガシという樹種も、春日山を重要な生育地としています。
神降りる樹
イチイガシは、最大で樹高30m以上、幹直径1.5m以上に育ち、カシ類の中では最も大きく育ちます。
古来カシは、神が降臨する神聖な樹木とされていました。日本史が花開いた地である奈良に、橿原(かしはら)、甘樫丘(あまかしのおか)などなど、「かし」の言葉が入った地名が多いのも、その影響でしょう。
カシ類の中でもひときわ大きく育つイチイガシは、特に厚く信仰されており、神社の境内によく植えられました。いまでも、多くのイチイガシ大木が御神木として残っています。
冒頭でご紹介した春日山は、関西随一のイチイガシ観察スポット。見事な大木がそこかしこに生えていて、散策していて飽きません。
イチイガシの大木を見ると、その威厳に圧倒されます。「これは神宿ってるわ…」と納得してしまう樹姿をしているのです。
イチイガシは、多くの場合単幹(一本の幹を直立させること)で、株立ち樹形に育つことはほとんどありません。僕のホームグラウンドだった六甲山には、アラカシ、スダジイなど、株立ちに育つ樹種が多かったので、イチイガシのような単幹の照葉樹の大木を見ると新鮮な感じがします。
太く、恰幅のある幹が真っ直ぐ伸びていく様子はなかなか壮観。イチイガシが群生する森を歩いていると、俗世とは切り離された場所に来てしまったような感覚を覚えます。威勢良く伸びた幹、地表と空を断絶するかのように濃厚に茂った枝葉が、森の深さを体現しているのです。
一級ステンドグラス職人
イチイガシは、多くの照葉樹と同じく、厚ぼったくて光沢のある葉をつけます。
特徴は、葉の裏側や枝に黄褐色の細かい毛が密生すること(専門用語で「星状毛」といいます)。
イチイガシの葉の裏面は、アイボリー(黄色がかった白)で、ピアノの鍵盤によく似た色合いです。この色を持ち合わせた照葉樹はイチイガシのほかには殆ど無く、大きな識別ポイントとなります。そして、このアイボリーの素が、黄褐色の細かい毛なのです。
イチイガシの枝に陽の光が当たると、アイボリーの葉裏がいっせいに輝き、森の天井がステンドグラスに早変わりします。あのメタリックな輝きは、イチイガシにしか作り出せない、一級品。ステンドグラスづくりにおいて、イチイガシの右に出る照葉樹はいないと思うのです。
衰退の歴史
堂々たる姿を我々に披露してくれるイチイガシですが、意外にも彼は繊細な樹種です。
ブナ科コナラ属に属する樹種(一般にどんぐりの樹とされる樹種)の多くは、萌芽能力(何らかの理由で樹の本体が枯れ、切り株の状態になったときに、また芽を出して復活する能力)を持ち合わせているのですが、どういうわけかイチイガシはそれを持ち合わせていません。伐られたら、そこでご臨終です。イチイガシに単幹の大木が多いのも、萌芽能力の欠如が理由だったりします。
萌芽能力は、樹木たちにとって保険のようなもの。樹を伐採しまくるニンゲンという生物に、いつ襲われてもおかしくない環境で生活する照葉樹たちにとって、萌芽保険は必携といえます。なのにも関わらず、イチイガシはその保険に未加入。なにしとんねん。他の樹種であれば保険を使ってやり過ごせる「伐採」というアクシデントを、イチイガシだけは乗り越えられない、というわけです。
当然のことながら、イチイガシは人間の歴史が進むに従って徐々に勢力を弱めていきます。日本における森林破壊が本格化した奈良時代ごろから、イチイガシは急速に数を減らしていったとされています。彼は優秀な木材を産出するため、集落の周辺等で大木が盛んに伐採され、建築材として用いられました。もちろんその大木は、再び芽吹くことなく朽ちていきました……。
さらに、イチイガシ衰退の原因は、もうひとつあります。気の毒なことに、彼は人間にかなりの量の種子(自分の子供)を横取りされてしまったのです。
多くの樹種のどんぐりは、生で食べると渋く、とても食べれたものではありません。そのため、木の実を主食としていた縄文人・弥生人たちはどんぐりを食べる際、手間暇かけてアク抜きをしていました。しかし、どういうわけかイチイガシのどんぐりには全く渋みがなく、アク抜きなしで生食できる。面倒なアク抜きを免除してくれる木の実を、古代人たちが放っておくはずがありません。
毎年秋には多量のイチイガシの種子が収穫され、人々の食卓に並びました。実際、西日本の縄文・弥生遺跡からは、溢れんばかりのイチイガシの種子が発掘されており、いかに重要な食糧だったかがわかります。
ここで困ったのはイチイガシです。萌芽保険を利用することができず、ただでさえ勢力に陰りが見え始めているのに、頼みの綱の種子まで誘拐されてしまっては、もうなすすべがありません。結果、彼は人間の活動が活発な森で世代交代を行う手段を完全に失い、やがて人里から姿を消しました。
人間活動の圧力に弱い彼らにとっての最後の砦が、人間の介入が全くない、「禁伐の森」。春日山に大木が集中している理由は、「イチイガシの大木が春日山にしか残らなかった」という非常に単純なものなのです。
我々日本人の文化・社会は、悪い言い方をしてしまうとイチイガシ(に限らず原生的な森に依存する生物全般)の繁栄を食い潰しながら発展してきたものなのです。そう考えると、彼の悠々とした樹姿を見たときの感動に、後ろめたさが混ざります。
日本の国土のほとんどは、原生林を一掃した後に”再編”された土地です。人間が日本列島の覇権を手にする過程で、多くの生物種が生態系の表舞台から姿を消したことも事実。これを忘れてはいけないと思います。
<おまけトリビア>
広告・宣伝の世界では、「〜1位」「〜ナンバーワン」などの、いわゆる「最上級表現」は、景品表示法という法律によって規制されています。最上級表現を用いる場合、その根拠も合わせて明示する必要があるのです。
となると、「一位のカシ」という樹種名は景品表示法に引っ掛かるのではないか。ちょっと心配です。
ということで、イチイガシの語源について調べてみました。彼の名前の由来には、いくつか諸説があります。
1 カシ類のなかで最も優秀な材を産出するから
2 昔、「聖なるもの」を意味する「イチ」という言葉があった。「聖なるカシ」という意味をこめて「イチのカシ」→イチイガシ。
3 そもそも、「一位樫」は根拠のない当て字である。奈良時代、イチイガシは「厳白樫(いつかし)」と呼ばれており、これが訛って現在の名前になった。そこに「一位」の漢字が当てられた。
残念なことに、由来として一番味気ない3の説が最も有力です。ステンドグラスの出来栄えはダントツのトップなんだから、全然「一位樫」で良いと思うけどなあ。あ、これは僕の個人的な主観だから、法律に引っ掛かるのか(笑)。
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