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失恋と君の好きなぼくを演じること

「別れたい」

と言われたのは人生で初めてだ。

自慢じゃないが、これまで振られたことはなかった。恋愛経験は豊富と言えば嘘になるが、ないわけじゃない。なんとなく気になる人がいて、なんとなく付き合って、それなりに好きになって、それなりに悲しく別れる。そんなことを3、4回繰り返してきた。

どれも「失恋」というほど悲劇的な匂いはしなかった。紅茶の在り処がわからなくなったこともないし、いつもより眺めがいい左に少し戸惑うこともなかった。同棲もしたことがないからセンチメンタルに歯ブラシや服を捨てたことも当然ない。

そんなぼくは前の彼女(正確には前の前の彼女)と別れてから4年ほど人と付き合うことをしなかった。別に避けていたわけじゃないが、向いていないとでも思ったのかもしれない。そもそもモテるタイプじゃないから、自分で行動を起こさない限り彼女はできないのはわかっている。でも、もういいやと思った。ちょいちょい見ていたマッチングアプリもアンインストールした。

家庭願望はあったし、結婚はしたいと思っていたが、恋愛欲はないという俗に言う面倒くさいやつだ。少し気になる子ができても、映画に誘って終わり。一緒にライブを観に行って終わり。一緒に家具を買いに行ってそれっきりなんて子もいた。今思い返してもひどい。恋愛に発展させることで生じる某を億劫に感じ、いつも手を引いた。

そんな折、君に出会った。正直最初の印象がそこまで特別だったわけではない。可愛いとは思ったが、胸が締め付けられる思いはしなかった。ただそれまでの子と同じように、「少し気になる子」ではあった。

彼女がいない4年間で培った、女の子を遊びに誘う「謎の行動力」で君も誘った。出会ってしばらくしてから、LINEを眺めていて君の名前を見た。「あ、ご飯に誘おう」と思ってLINEした。君は当然驚いていたが、受け入れてくれた。当日のことも鮮明に憶えている。「大学ちゃんといってる?」って親戚みたいにしつこく聞いたこと、夢を応援する面倒くさい年上みたいなアドバイスをしたこと、そのアドバイスを聞いていた隣のギャルに引かれたこと。いま思い返すと、君が嫌いなことばかり話していたように思う。君を知ったいまのぼくにはそんな話はできっこない。ただ当時は4つ上の社会人として、何か言いたかったんだと思う。そこで話したことはこんなに憶えているのに、その日帰ってから何を思っていたか不思議と全然憶えていない。きっと、ここではまだ恋は始まっていなかったんだ。

ーー恋の始まりはいつも曖昧だ。「少し気になる子」から「彼女」になるまでに、ターニングポイントがあるらしい。でもそれは「ポイント」と言ってしまえるほど明確な「出来事」ではない。君との恋の始まりはいつだったろう。

ある日、君から突然LINEが来た。ライブのお誘い。「お母さんが行けなくなったから」という何とも健気な理由で、だ。

音楽の趣味が近すぎず、遠すぎずなのは知っていた。それまで同じバンドを観に来てライブハウスで偶然会うこともあったし、Twitterで君がライブに行っているバンド名を見て全然ピンとこなかったことも何度もある。趣味の共有としては、実は理想的なのかもしれない。そんな彼女から誘われたのは、当時勤めていた会社の近くで開催される人気バンドのワンマンライブ。最近は「激おこ政治おじさん」なんて呼ばれるフロントマンだが、とても好きな類だった。世代の割にそこまで通ってなかったが、君からの誘いが嬉しかったのと何より会場が近かったことがあり、ぼくは誘いに乗った。

当日君とライブを見て、会場近くの居酒屋で晩ご飯を食べた。恋の始まりがあったとしたら、きっとこの日だ。帰り道、居酒屋が入っているビルの階段を登ったところで、ぼくは君を抱きしめたくなった。あのライブで何かあったのだろうか、あの居酒屋で何があったのだろうか。「ポイント」と言ってしまえるほどわかりやすい「出来事」はなかったが、君と過ごした時間の中で、ぼくは君を愛おしいと思った。「恋が芽生える」という表現からは程遠い、なめらかで、曖昧で、自然な感情。それでいて、ぼくにとって生まれてはじめての感情。大切にしたいと思った。

この感情は何なのか、しばらく考えたが答えは出なかった。少なくともそれまでぼくが知っていた恋ではない。ひとつ言えることは、しばらく考えている時間は決してネガティブでもなければ退屈でもなかったということ。できるだけ長く一緒にいたい、できるだけ幸せでいてほしい。これまですべての優先順位で「自分」と「家族」を最上位に置いてきたぼくにとって、その感情は新しかった。

数週間後、君を映画に誘った。「謎の行動力」と同じテンションで。使い慣れた言い回しで有名小説の実写映画を提案した。裏切りのある展開に定評がある原作者が特別好きだったわけではないが、口コミを見る限り外れないと踏んでいた。その日は何より外れないことが大事だった。

11月の下旬。冷たい空気が年末に向けて浮足立ち始めた人混みを包む夜の新宿。帰り道の横断歩道でぼくは君に告白した。正確に言うと告白ではなく「ぼくと付き合う?」という質問だった。ひどく照れながらも喜んでくれた君の笑顔が幸せそうで、この笑顔をずっと守りたいと思った。

それから2年半が経ち、ぼくたちは別れた。「別れたい」と言った君の気持ちがわかってしまうし、サヨナラを選んだ君は正しかったのかもしれない。ぼくはあの笑顔を守り続けることができなかった。

2年半の間に君がぼくに不満を抱いていたのは知っている。僕自身も負い目を感じていた。夜更かししてデートに遅刻するところ、負の感情を表に出すところ、部屋が汚いところ、姿勢が悪いところ、肌のケアが甘いところ、荷物が少ないのにバッグが大きいところ。些細なことかもしれないが、君は嫌った。スマートな振る舞いを好む君の期待に答えられなかった。なぜ付き合っている間に変われなかったのか。そんな後悔もあるが、ぼくは「人は簡単に変われない」という誰かの言葉に甘えていた。

君の好きな人間に近づきたくて、ぼくは意識的に言動を変えたことがある。「彼女に好かれるため」に自分を変えようと思ったのは初めてのことだった。それが功を奏したときもあれば、そうじゃないときもあった。

君に別れを告げられた夜、電話でぼくは嘆いた。「これから変わるから、チャンスがほしい」って、情けないくらいに。ぼくが嘆けば嘆くほど、君を苦しめていることを知っていながら、ぼくは嘆いた。結局君は、ぼくの申し出を受け付けてはくれなかった。それを受け付けることは、君がさらなる苦しみに足を踏み入れることになるのだから、当然だった。

大切なものを失って、ぼくは改めて思う。人は変われるのだろうか。スマートにだなんてなれるのだろうか。「人は簡単に変われない」という誰かの言葉を知っているのに。君はもう待ってはくれないのに。

君と別れてから、2ヶ月が経った。

ワールドカップを言い訳に夜更かしはしているが、認知行動療法を始めて自分の心の弱さと向き合い始めた。週末にクイックルワイパーをかける習慣もできた。さらには猫背のいろいろを調べてランニングを始めたり、ニューヨークで出会ったいけ好かない彼が就職したメンズスキンケアブランドのスターターキットを試したりもしている。なんなら小洒落たサコッシュも買った。

「人は変われるのか」そんな野暮な問に頭を悩ませるのは、もうやめた。

「君の好きな僕」を演じるのは、もう演技じゃないから。

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