カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況』(樋口陽一訳、岩波文庫、2015年)

■概評


 議会制民主主義に対する批判を行った文献。カール・シュミットの思想を手軽に触れられる入門書。


■要約(現代議会主義の精神史的状況(1923年))

0、序言

 〇近代議会主義への批判
 近代議会主義には以下の批判が度々行われた。政党の支配、不明瞭な人治的政治、政治素人の統治、議会演説の無目的性と陳腐さ、議事妨害、特権乱用、適当でない院内人事などである。代表原理も党議拘束によって無意味となり、公開の原則も重要な決定は諸党の秘密会議で行われてしまっている。

 議会主義は結局、諸政党や経済的利益主体の支配のための飾り文句でしかない。


 〇本文献の目的
 近代議会制の核心にふれること。そしてそうすることで近代議会制が、その成立させた基礎をどれほど喪失させたか、そして空虚な装置として維持されているに過ぎないかを明らかにする。


1、民主主義と議会主義

 〇民主主義の本質
 十九世紀及び二十世紀初頭において民主主義は広く伝搬した。その過程で民主主義はブルジョワ(市民)的自由主義、社会主義、時には王制ですら(ブルジョワに対抗するため社会主義と結びつく形で)、そして政治の領域だけでなく経済の領域で、それらと結びついてきた。すべての政治的方向が民主主義を利用してきたのだとすると、民主主義は単にひとつの組織形態という形式でしかない。つまり民主主義に政治的な内容を与えられないのならば、それでも民主主義に残るものこそがその本質である。それは一連の同一性である。下された決定は決定する者自身にとってのみ妥当する、というものである。

 同一性を生み出す際多数決によって敗れた少数派は無視されなければならない、というのは外見上の話である。ルソーのいう一般意思のように、市民はその意思に反する法律に同意する。つまり投票から生ずる一般意思に対して同意を与えるのである。

 一方で一般意思は真の自由と合致するもののため少数派が一般意思と同一である場合がある。ジャコバン派はそうやって民主主義の名のもと少数派による多数者の支配を正当化した。


 〇民主主義の意思形成
 しかし上記の法律と国民意思の同一性は現実ではなく、同一性の承認にもとづいている。つまり同一性は現実のものでなく、それは同一化という形で現れる。同一性を常に目指すが必ず距離が残るのだ。そして国民意思を真に築かんとするものが少数派であることは度々起こる。

結果として、少数の民主主義者が多数の非民主主義者を、非民主主義的な方法で排除してでも民主主義のための国民意思の形成を図ろうとしてしまう。そして真の国民意思を名乗るものが、そうでないものを国民意思を認識し形成させるために教育的洗脳を行う。この教育の帰結は独裁であり、民主主義の名のもとに独裁が発生する。したがって独裁と民主主義は対立関係にないのだ。

 こうしたことから議会主義なしにも民主主義は存在しうるし、その反対もあり得る。


2、議会主義の諸原理

 〇当章の議題
 この章では議会主義の究極の精神基礎を問題とする。現代の「議会主義」という用法は立法府による行政府の統制を意味する場合があるが、これは権力の拡大の話であって精神基礎の問題ではない。

 また議会主義は便宜性が基礎にあるという意見もある。つまり雑多な国民をひとつの場所に集めるのは困難のため、一部の人を信任し国政の委員会を結成するというものである。しかし実際的な問題で国民の信任をえた人が決定するのならばたった一人の人間でも足りる。したがって議会が委員会であることもまた本質に属さない。


 〇公開の討論
 議会の存在理由は正しい国家意思を結果として生み出すような対立と意見の討論過程にある。人々の間に散在し不均等に分けられている理性の小片が集まり、公的な支配にまでもたらされる場所である。これは典型的な合理主義的発想といえる。

 そしてまたこれは自由主義的な発想である。そこでは真理は永遠の競争の単なる関数でしかなく、最終的な本当の真理を導き出すことを断念している。そして真理は意見の自由な闘争から、競争からおのずとあらわれ調和として生じてくるものなのである。

 このような自由主義的合理主義において二つの政治的要求が生ずる。

 その一、公開性。

 公開性は秘密政治に対する絶対的な抑制手段であり、政治上の腐敗への万能薬となり得る。そうすることで公論は権力の濫用を完全に不可能にする。

 その二、権力分立。

 立法府と行政府といった権力同士が均衡し合い、それによって競争がはたらき、その結果として正しいものが生み出される。また立法府内でも権力の分立があり、それは二院制や野党の存在がそうである。

 そしてこのような権力分立は憲法と同一のものとなる。


 〇議会主義の法律概念
 立憲主義的思考において法律概念は普遍的なるものという本質をもつ非人格的な一般的合理命題である。一方で絶対主義的思考において例外的事態に決断を下せることを主権と定義することから法律概念を個別具体的な命令とする。


 〇討論への信念への一般的意義
 公開性と討論という二つの原理のもとに立憲主義的思考と議会主義が一つの体系をなして基礎付けられている。そしてこの体系の全信念を言い表すと、「すべての進歩は、社会的進歩もまた、代議制度により、すなわち規律ある自由によって、また、公開の討論により、すなわち実現される」というものである。

 だが現代の政治情勢を見るにこの信念からはひどく遠ざかっている。政治上の重大な決定は公開の討論による帰結によって行われない。形式化した本会議でなく閉ざされた小委員会での決定によって行われる。

 そのために議会主義は今やその精神的基礎を喪失している。


3、マルクス主義の思考における独裁

 議会主義的思考に対し、二つの敵対者が存在する。合理的独裁と非合理的独裁である。

 そしてマルクス主義的社会主義こそ合理的独裁の新たな担い手であり、これはヘーゲルの歴史基盤の上に建っている。

 ヘーゲルの弁証法的発展において、その発展と独裁とは相反する概念に思われる。独裁は発展の中断に他ならないからである。だが、具体的な政治的及び社会学的な実践において、弁証法の二者択一の発展でその活動の担い手と感ずる人間は「客観的必然」を貫徹するだろう。つまり多数派と異なり自分こそは世界精神に則っているのだと。世界史が絶えず進歩していくならば、それに反するものを除去していくために、独裁は永久的となる。

 
 マルクス主義において、その科学性とはヘーゲルに影響されたものであり、意識を発展の基準とするところの発展の形而上学の意識性である。正しい認識という発展段階がそこで生ずる。それが科学的確実性を与え、だから合理主義的なのである。そして科学性の名の下でプロレタリアートの独裁が生ずる。

 しかしこの合理主義の高揚は生ぬるい教育独裁に踏みとどまらず、ブルジョワの絶滅となる。そこではもはやヘーゲル的構成は合理主義的動機でなく、非合理主義のための知的道具に過ぎない。ここにおいて教育独裁の絶対的合理主義でも議会主義の相対的な合理主義でもなく直接的な暴力行使の直接行動の理論が現れる。そこにおいて民主主義の基礎もまた攻撃されうる。


4、直接的暴力行使の非合理主義理論

 以下の内容は直接的暴力行使理論者のソレルの著述に沿う


 〇神話への熱狂
 神話とは科学と違い生の個別的豊かさを与えるものといえ、最後の審判やフランス革命時の「徳」思想などが含まれる。

 そして真の生の本能の深みから偉大な熱狂、偉大な精神的決断及び偉大な神話が生ずる。熱狂した大衆はエネルギーを駆り立て、殉教への力や暴力行使の勇気を大衆に与えるところの神話像を、直接的な直観からつくり出す。このようにしてのみ、ひとつの民族や階級が世界史の動力源となる。したがって今日そのような神話への資質、そのような活力がどこで現実に生きているかに、すべてがかかっている。


 〇議会主義と熱狂
 ソレルにおいてプロレタリアは、階級闘争を生の本能から、科学的な構成なしに、暴力的な神話の創造者としてとらえるのであり、その神話の中に決戦への勇気を見出すのである。それ故に社会主義とその階級闘争思想にとっては、職業政治、および議会主義的活動への参与は危険なものである。それらは偉大な熱狂をおしゃべりと陰謀の中で弱めてしまい、精神的な決断の源泉である真の本能と直観とを殺してしまう。

 そして神話はまた今日の情勢をみるに、階級闘争よりも民族的な対立への方向に向かっている。

 このように自分の土台を攻撃されているのに対し、議会主義は他に代替物はあるのか、と反論するだけではもはや足りないであろう。


■要約(議会主義と現代の大衆民主主義の対立(1926年))

1、議会主義

 〇前文献への批判
『現代議会主義の精神史的状況』で議会の本質は討論と公開性にあると論じたが、その発表後、それはもはや古い思考であると批判を受けた。

 しかし討論と公開性という原理が崩壊する時、現代議会主義が新たな原理を発見し、その真理と正しさを明らかにできるとは考えられない。


 〇議会主義と討論
 討論とは、合理的な議論でもって相手に真理と正しさを説得し、もしくは説得されるという目的のための意見の交換である。 

 討論には前提としての共通の確信、説得される覚悟、党派拘束からの独立、利己的利害にとらわれないこと、が必要である。

 この諸規定から議会主義の諸制度は討論を前提としていることがわかる。

 あらゆる議員は党派でなく全国民の代表であり、党議拘束されない、演説の自由などは討論が正しく実施されてはじめて意味のあるものとなる。


 〇議会主義の状況
 議会主義の状況はきわめて危機的であり、それは現代大衆民主主義の発展が討論を空虚なものにしてしまったからである。

 議会が単なる役に立つという実用的な手段でしかなくなるとき、独裁でなくとも他のゆきかたが示されれば議会は片づけられる。


2、民主主義

 〇民主主義における同質性
 あらゆる実質的な民主主義においては、等しいものを等しく扱うだけでなく、等しからざるものを等しく扱わなければならないことに基づいている。それゆえ同質性が必要となり、場合によっては異質なるものを排除あるいは殲滅する必要がある。

 等しさは市民的特性のうちに見いだされ、近世ならば宗教的確信であったが19世紀以降は特定の国民への所属にある。等しさはそれがひとつの実質をもち、それゆえ少なくとも等しくないことの可能性と危険性が存在するかぎりにおいてのみ、政治的に関心の対象となり価値がある。


 〇民主主義と平等
 普通選挙権は実質的な等しさの結果であるといえる。だがすべての人間が人間であるとして選挙権を平等に有するという考えは、存続してきた民主主義ではなく人類民主主義というべきもので自由主義的発想である。民主主義的な平等は政治的平等や経済的平等といった特定領域の平等において存在する特殊的な平等と不平等をとりあげることとなる。

 政治的なる領域では、人間は政治的な味方と敵対者として対立しあうのである。そのような政治的なるものを捨象し、一般的な人間の平等のみを残すことはできない。


 〇国民意思
 同一性にまで高まった同質性の中ではすべては自明である。一方で契約は差異と対立とを前提としている。そのためルソーのいう一般意思は、個人の自由な契約によって形成されない。全員一致の同一性と一般意思は自然に存在するかしないかである。

 国民意思を形成し、同質性を創造するものとして、秘密選挙ではそれができない。国民は公法の概念であり、公的な領域でのみ存在し、私人が秘密に意思を表明することではないからである。国民意思は、歓呼や喝采(アクラマチオ)によって表明されうる。

 そして現代の議会主義の危機の原因は、今日において強く認識され始めた自由主義的な個人意識と民主主義的な同質性との対立によるものなのである。


■感想


 本文献は1920年代前半に書かれたものであり、世界大戦が終結してそれが一度落ち着いた時期のものといえる。議会がワイマール憲法のもとで再出発した。しかし結局党派政治になることを免れなかった。一方で足元ではサンディカリズム運動が盛んに行われていた時代でもある。そのような状況下でシュミットは議会に対する本質を抉り出した。その結果、議会の本質は当時において失われていることを明らかにしたものである。

 序章の議会の状況を見ると、現代の我々日本の国会に重なる部分があるのは多くの人が頷くところであると思われる。そのためこの文献を読み、議会に対する存在意義を考える必要があるといえる。この文献は岩波文庫から出版されているが同時期にハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値』もまた出版されている。こちらは民主主義を擁護する内容となっている。合わせて読んでほしいという岩波文庫からのメッセージだろう。

 
 さて、内容はというと議会主義は公開された討論を本質にもつが、これは自由主義的な理念である。自由な競争によってより高次の善にたどり着くことを目的としている。そこでは同様の人間同士が議論しても仕方なく、異質な人間による議論がなされる。一方で民主主義は統治者と被統治者を同一とする。ここにおいて重要なのは同一性である。このため自由主義を基とする議会主義と民主主義は居て異なるものとなる。

また民主主義はその同一性としての意志を生み出すことができればよく、それは独裁者の選任でも足りる。このことから独裁と民主主義は対立するものではないといえる。

 以上が本文献の内容だが、シュミットの民主主義の考え方は彼の思想にとって重要である。同質性というのは後の『政治的なるものの概念』における「友と敵」理論につながる。そこでは友は同質的な存在で敵(必ずしも悪ではない)は異質な存在である。そして政治とはこの友と敵を区別することである。自由と平等のためと思われてきた民主主義が人を区別し排斥する論理につながるとは皮肉的なものである。

 そしてこうしたシュミットの主張は現代において、「自由民主主義」という言葉で少なくとも政治学者にとって当たり前といえる。民主主義という言葉が日本では強く主張されるが、それは多数決を採らざるをえず、多数決の意志が国家の意志表示となる。しかしそうなると少数派にとっては専制となる。したがって自由主義が必要なのである。そのために議会において少数派の発言権などが認められる。議会は自由主義なものなのである。これは自由主義的功利主義、とりわけJSミルの主張にみられる。

 自由民主主義的発想でいうと、根本に自由主義があり、人々の差異をそこに見出す。そのような差異を守るために民主主義としての議会を置くという発想である。

 だが自由主義は、自由民主主義に対して同意しないものに対して弱小である。それが議会多数派を占めれば自由主義は奪われる。また民主主義的観点においてシュミットに言わせれば主権は決定的単位であり、同一的単一的なものである。また例外状態に決断を行えることである。それを生み出すための民主主義(議会主義ではない)なのであって、差異の自由主義は民主主義にひっつくことはできない。

 自由民主主義はこうした板挟み的な状況であり、これはシュミットの時代と変わらないだろう。そのためいかにこれを擁護するかの議論はまだまだ重要である。

 また本文献はシュミットの初期の著書であり、「決断」「アクラマチオ」また、「友敵論」に近い箇所(p.144)も見られる。比較的に薄い文献なのでカール・シュミットの入門書として読むのにおすすめできる。とりわけ第二部『議会主義と大衆民主主義との対立』は読みやすく30ページ程度でこちらだけでも読み甲斐がある

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ハンス・ケルゼン『民主主義の本質と価値』(長尾龍一 他訳、岩波文庫、2015年)