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『私が作家になるためにした二つのこと』

 私が少女小説家になろうと決めたのは、中学生の頃です。
 それまでもなにかしら書いておりましたが、この時期から“少女小説を書く”という目標のもとに、執筆してきました。
 当時はノートに横書きにしたものを、感想ノートつきで部活の先輩や同級生に読んでもらっていました。だいたいノートが一冊埋まるころ手もとに戻ってくるのですが、別のクラスの知らない子や先輩からの感想も書いてあったり、イラストが添えてあったりして、それを見るのが楽しみでたまりませんでした。
 今のようにネットで公開したりはできませんでしたが、書いたものの反応をそのつどもらえるという、大変恵まれた創作環境だったと思います。
 ノートの感想も、みなさんとても優しかったです。
 仲間内なのでシビアなことは書けなくて当然なのですが、そんなぬくぬくとした優しい輪の中で、他人に読んでもらえることの喜びだけを味わい続けることができたのは、本当に幸せでしたし、作家への夢も、自信も、ふくらむ一方でした。
 大変お恥ずかしい話ですが、高校生の私は大学在学中に少女小説家としてデビューできることを疑っていませんでした。

 今思うと私がしていたのは、投稿のための創作ではありませんでした。
 書きたいものや読んでもらいたいものを、枚数も気にせず書いていて、ノート十冊以上に及ぶシリーズが、いくつもありました。
 そうやって書きためたものを、中学三年生の夏と、高校三年生の夏に、投稿規定に合いそうな枚数のものを原稿用紙に書き写して、数作ずつまとめて投稿したのですが、どちらのときも一次にも引っかかりませんでした。
 賞の傾向についてまるで考えたこともない、好き勝手に書いた、シャーペン書きの拙い作品が入賞するとしたら、よほど強運か天性の才能があるかだけです。
 自分が下読みをするようになってから、当時の私の投稿作がどれだけハズしていたかが、よくわかるようになりましたが、当時は全然わかっていませんでした。
 なのに自信だけは満々で、少女小説家としてデビューする未来をまっすぐ信じていたのでした。

 大学を卒業するまでには、なんとかなるだろう。

 そのためにしなければならないことは、当然賞の傾向と対策を分析し、それに沿った作品を定期的に投稿し続けることだと、今ならばわかります。
 当時の、のんきな私に、そうアドバイスしたいです。
 けれど、大学生の私が四年間の修業時代にしたことは、対策を練ることでも、こまめに投稿することでもありませんでした。
 私が大学生活をはじめるにあたり、作家になるために自分に課したことは二つです。

 ひとつは、毎日ノートに五ページずつ小説を書くこと。

 これまでと同じように、枚数を考えずに、好きなものを好きなように書いておりました。デビューもしてないのに、シリーズを何作も書いていたこともそれまで通りで、中高時代から全然進歩しておりません。なのに自分では作家になるための修行のつもりでいたのでした。
 はっきり申し上げます!
 目標を『新人賞を受賞する』に定めるのでしたら、これはおすすめしません!
 事実、私が大学四年生の夏にまとめて応募した七本は、ただの一本も一次に引っかかることすらしませんでした。
 何故?
 どうして?
 なにがいけないの?
 当時の私にはさっぱりわかりませんでした。
 こんなに毎日、書いて書いて書き続けて、ノートの冊数はどんどん貯まってゆくのに、何故一次にさえ引っかからないのか?
 今の私には、ああ、それはダメでしょうねと、アドバイスできることがたくさんあります。あそこもダメだし、そこもダメだし、それもダメ。ダメだらけです。同じポストから七作一度に応募したのがそもそも大間違いです。でも二十二歳の私にはなにひとつわからず、絶望するばかりでした。
 四年間、なんの不安を覚えることもなく、のんきに平和に修行生活を送ってきた私は、こうして四年目の終わりに大きな挫折を味わいました。
 人生ではじめての痛すぎる挫折でしたが、とりあえずそれは置いておきます。
 
 もうひとつ、私が小説家修業のために自分に課したこと。
 それは、貧乏に慣れることでした

 少女小説家になりたいと最初に夢見た中学生のころから、小説家というのは生活が大変そうだというイメージを抱いておりました。
 私が読んでいた作品に登場する小説家が、ボロボロのアパートで家賃も払えず締め切りに追われていることが多かったからかもしれません。
 今考えると、締め切りに追われるほど忙しい小説家が貧乏というのはおかしな話なのですけれど、何故か小説家=貧乏と思っていたのでした。
 もし夢が叶って小説家になれても、きっとお金がなくて大変なのだろうな。
 ならば今のうち貧乏に慣れておかなければ。

 もともと『清貧』に強い憧れを抱いている子供でした。
 愛読していた児童小説には、貧しくても慎ましく心清らかに生きている女の子がたくさん出てきます。その子たちはみんな、古着を直して大事に着たり、わずかな食事を少しずつ味わって食べていて、それがとても素敵だったり美味しそうだったりで、私もこんなふうに貧しくても清らかに心正しく神様に感謝して暮らしたいと考えていたのでした。
 『チョコレート工場の秘密』で主人公のチャーリーがワンカさん(※最近の訳はウォンカさんなのですね。私の中ではずっとワンカさんです)の板チョコを、毎日端からちびちびちちびちび一ヶ月かけて食べるシーンが本当に美味しそうで、一枚のチョコレートをそんなふうに宝物のように食べるというのに憧れて、子供の頃よくチャレンジしていました。せいぜい一週間くらいしか保たなかったのですけれど……。

 そんなわけで私も、貧乏でも心静かに小説修行に邁進しよう、前向きな貧乏生活を送ろう、その中で宝物みたいな楽しいことや嬉しいことを見つけようと、お金を使わない訓練と貧乏を楽しむ訓練を四年間続けたのでした。
 父から毎月振り込まれる仕送りは、バイトをせずともじゅうぶん暮してゆける額でした。
 まずはこれを半分しか使わないと決めました。
 その他、父から臨時でちょくちょく振り込みがあったのですが、これも使わずに貯めておきました。
 子供に甘い父は大変マメな人でもありました。四月には「教科書を買うのに必要だろう」と振り込みが、夏休みや冬休みには「友達と旅行に行くだろう? セールがはじまるから服も欲しいだろう? 安物買いはしちゃダメだぞ、ちゃんといいものを買うんだぞ」と振り込みが、実家に帰省すれば電車賃としてお小遣いが渡され、父が仕事で上京してうちに泊まるたび宿賃を置いてゆかれ――そんなふうに通帳にお金はどんどん貯まっていったのですが、私は節約生活を送っていました。

 食費は一日千円で、あまった分は貯金箱に入れて雑費にし、服は年二回のセール時にまとめ買いしました。電気代が三ケタだった月もあり、そうした月はお知らせの紙を見て、やったぁ、とにこにこしてしまいました。
 甘いお菓子も当時から大好きでしたが、携帯もSNSもなく今ほど情報があふれていなかったため、近所のお気に入りのお店を訪れるだけで満足しておりました。また一、二年生のバイト先が個人経営のパン屋さんで、そこでケーキも作っていて、売れ残った商品は持ち帰り放題だったのです。どれも美味しくて、幸せでした。

 節約が辛いと思ったことは一度もなく、今振り返っても、あの満ち足りていた暮らしを懐かしく、まぶしく感じます。
 またあんなふうに慎ましくシンプルに暮らしたいと願いつつ、ファッションにしてもグルメにしても、次々と容赦なく入ってくる情報の多さに溜息をついてしまいます。
 すべての情報を遮断しないかぎり、多分あの日々には戻れないでしょう。
 
 そして、大学在学中にデビューするという夢は破れましたが、通帳には新入社員の初任給の三年分相当の貯金が残りました。
 会社を一年で退職して作家の夢に再挑戦したとき、このお金は大変役に立ちました。
 なので作家になるために節約生活をすることは、理にかなっていると思うのでした。