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日記処分振り返り企画その1『来ちゃった……な父の話』

 こんにちは、野村美月です。
 三十一冊の日記を処分した振り返り企画その一は、私の父の話になります。その一、その二を読んでおいていただけると、その三、その四での私のダメダメっぷりにはこのような背景があることをお察しいただけるかと思います。
 すべてはこの父ありきで、はじまりました。
 画像の『Bad!Daddy』は、悪の秘密結社の幹部をしているパパと、パパに内緒で正義の味方になっちゃった中学生の娘美夢【みむ】ちゃんの、ほのぼのご家族コメディです。
 娘を溺愛するあまり暴走しまくりな優介パパのモデルは、父でした。
 子供に甘い上に無闇に行動力のある父は、昔から本当に色々やらかしてくれました。

 あれは私が小学校に入学したてのことです。
 その時期、ちょうど新しい家が完成し、それまで住んでいた地域から一家で引っ越してきたばかりでした。まだ土地勘のない私を心配したのでしょう。入学式翌日の放課後、父が小学校まで迎えにやってきました。
 この日は母が弟の幼稚園の入園式に出席するため、父が会社を早退し家で私を待つことになっていたのですが、予告なしにふらりと現れたのでした。
 この突然の「来ちゃった」は当時から父の得意技で、携帯がなかった時代、様々な悲喜劇を起こしてきました。
 はじめは校門の前で私を待っていたものの、なかなか現れないので、教室まで様子を見に行ったそうです。今だと入り口で止められたりするのでしょうが、そのへんの危機管理は当時はゆるかったのでしょう。
 ところが教室にも私はおりませんでした。
 そのあと父がとった行動は、職員室へ行って先生に「娘がいなくなった」と血相を変えて訴え、校内放送で呼びかけてもらい、それでも私が見つからないため、一年生の先生たちを総動員して小学校の周囲を車で捜索してもらうというものでした。
 新学期がはじまったばかりで無茶苦茶忙しかったに違いない先生たちには、本当にご迷惑をおかけしました。
 そんな先生たちに私が会ったのは、自宅近くの空き地でした。
 母が朝の集団登校の際、私と同じ学年の男の子に「引っ越してきたばかりでまだ道がよくわからないから、○○くん一緒に帰ってあげてくれる?」と頼んでくれていたのです。
 なので授業が終わったあと私は○○くんと普通に帰宅したのですが、在宅しているはずの父がおらず、ドアに鍵がかかっていて家に入れなかったため、○○くんと空き地でのんびり四つ葉のクローバーを捜していたのでした。
 先生たちは私を見つけるなり、車からわらわら降りてきて、よかったよかったと口々におっしゃって、事情がわからずぽかんとしている私はそのまま保護され、父のもとに届けられました。
「迷子になって泣いているんじゃないかって、心配したんだぞ」
 と父は頼もしげに言っておりましたが、そもそも父が予定通り家で待っていてくれたら、こんな騒ぎにはならなかったはずなのです。

 私が幼稚園のときも、父は同じことをしています。
 夕暮れになっても帰らない私を心配し、ご近所さん総動員で捜しまわり、あのときも帰宅途中で出会った近所のかたに「○○ちゃん! まぁ、よかった! お父さんが心配しているわよ」と保護されたのでした。
 何故毎回、よそのかたを巻き込むのでしょう。
 
 私が成長してからも父の「来ちゃった」は変わらず、今度は大学受験のときのことです。
 マメな父は受験生の私よりも熱心に情報収集をして「受験校は十字架型かピラミッド型で選ぶといいんだぞ~。十字架の頂点に本命を置いて、真ん中に確実なところを並べて、一番下に滑り止めを置くんだ。日程的に、ここと、ここと、ここと、ここと、ここでどうだ?」と、それは得意気に、図に書いて説明してくれました。
 私は国文科ならどこでも良かったので、父が私の学力に合わせて選んでくれた大学を、なんの疑問も不満もなく、そのまま受験しました。
 ちなみに、父が本命にすえた大学は父の母校でした(私には無理めだったので、順当に落ちましたが……)。
 普通三者面談には母親が来るものだと思うのですが、うちは毎回当然のごとく父がやってきて、先生と楽しそうに語りあっておりました。
 受験勉強中、毎晩差し入れのお茶と、ちょっといいお菓子を運んでくるのも、母ではなく父でした。
 決して母が怠けていたわけではなく、家事全般かなりきちんとやっておりました。が、それ以上に父がマメな上に仕切りたがりだったのです。
 私は血液型占いを信じていませんが、父がO型なのだけは、なるほど……と思ってしまうのでした。考えかたがシンプルで迷いがなく楽観的、社交的で人見知りをせず、頼られるのが大好き、そのまんまです。
 こうして私の受験に合わせてがっつり休暇をとった父に、会場への行き帰りもぴったり付き添われ試験に臨んだのでした。
 ところが最終日だけどうしても会社に戻らなければならなくなり、父は試験会場までの道順を書いたメモを残し、試験前日、心配でたまらなそうに帰ってゆきました。メモには駅の何口から入って何番ホームの何番目から、何色の電車に乗って何駅目で降りて、駅を出たら右へ曲がって、そのあと赤い屋根の家の横を左へまっすぐ云々と、それは詳細に記されております。どうやら私が試験を受けているあいだに現地を歩いて調べておいてくれたようでした。
 方向音痴の私にはありがたかったです。
 会場にも無事に一人で到着し試験も終わり、さぁあとは新幹線で福島の自宅に帰るだけとなり、畑のあいだの長い長い道をぼんやり歩きはじめたとき――信じられないものが目に入りました。

 父でした。

 スーツを着ていて、道の反対側から私の名前を呼びながら手を振っています。
「やっぱり心配だったから、用事をすませたあと無理矢理出張を入れて来ちゃったよ」
 福島から東京まで新幹線で一時間とはいえ、昨日帰って今日戻ってくるのは大変だったでしょう。笑顔の父に、受験が終わった安心感もあり、このときは不覚にもジンときたりしたのですが……。完璧に公私混同で、社会人としてどうなのかと……。
 このとき試験を受けた大学が、後に私の母校になりました。
  
 そうして大学生になった私が、父が見つけてきた部屋で一人暮らしをはじめてからも、父は「出張を入れて来ちゃった」を繰り返します。
 そのたび「ホテル代が浮いたから」と泊まり賃を置いていったのですが、領収書はどうしていたのでしょう? 会社から経費として、ちゃんと落とされていたのでしょうか? だとしたら一体どうやって?
 父が勤めていたのは山奥の工場でした。「バルブを作っているんだよ」と誇らしげに語る父の言葉を理解したのはだいぶあとで、阿部寛さん主演のドラマ『下町ロケット』を見たときでした。
 ああ、父の会社もこんなふうだったなぁ。
 父もこんな作業着を着て出勤していたなぁ。
 こんなふうに生き生き働いていたなぁ。
 小さな会社だったので、多分いろいろ融通がきいたのかもしれません。
 子供のころによく、父の会社にカブトムシをとりにいったり、会社のテニスコートを使わせてもらったりしていました。
 クラスのお楽しみ会の劇でシナリオを書いたときも、父が毎回会社のコピー機で人数分コピーしてくれたりと、会社の備品や設備を私物化しまくりで……まさかと思うのですけれど、会社の女の子に私のシナリオのコピーを頼んだりしていませんよね? 「娘が劇のシナリオを書いてねぇ。悪いけど、七部ずつコピーしてくれないかな」と笑顔で頼んでいる様子がたやすく想像できて、領収書の件とあわせて、いまだに真相を訊けずにいます。
 
 そんな父は私が小説家デビューした際も、本が出版されるつど何十冊も買い込み、各方面に配るという恥ずかしいことをやってくださいました。
 私が卒業した小学校、中学校、高校、親戚、のみならず整体の先生にまで配って待合室においてもらったり――お願い、やめて~~~~と悶えていました。
 ネットで感想を検索していたら「知人の娘さんが書いたらしく、もらって読んだけれどつまらなかった」などと書かれているのまで見つけてしまって、画面の前で「あ~~う~~」と唸りました。そのかた、読んでいるジャンルが全然! 違うのですよっ! 社会派ミステリを愛読されているかたにライトノベルを差し上げるだなんて迷惑に決まっています。
 帰省すれば、父の書斎に私の本(同じタイトル)が大量に積み重ねてあり、本の塚をいくつも築いているのに目眩がしました。
 弟の結婚式の引き出物に、そのころ発売されたばかりの『うさ恋。』の最終巻だけが入っていて、司会者が「新郎のお姉様が書かれたご本です」と紹介してくださったときには顔が熱くなりました。

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 どうして弟も反対してくれなかったのでしょう!
 しかも最終巻だけって、ひどすぎませんか?
 せめて事前に相談してほしかったです。
 さらに、地元出身の児童文学作家さんが近所でサイン会をされたとき、なんと! 父は私の本をもってゆき、
「うちの娘も本を書いているんですよ~、ぜひ読んでみてください」
 と渡したのですよ!
 後日、その作家さんにお会いする機会があり、
「子煩悩なお父様ですね」
 と微笑まれ、もう恥ずかしくて恥ずかしくて、
「すみません、すみません」
 と、謝りっぱなしでした。
 
 父は私が書いている出版社にも「娘がお世話になっております」と地元銘菓の詰め合わせを送ったりして、担当さんから「お菓子美味しかったですよ」と連絡をいただいて、え! そんなことを! と仰天するということもありました。
 普通しませんよね。

 そんな父も近年は娘よりも孫に愛情を注いでいて、その溺愛っぷりと甘やかしっぷりに、私の過去のあれこれを重ねて、ほどほどにしておいたほうが良いのではとやんわり伝えたところ、にこにこしながら、
「なんだい、ヤキモチかい?」
 と言われて、脱力したのでした。

 かと思えば、二年ほど前に母方の叔母に会った際、
「○○ちゃんのお父さんが桃を送ってくださってね。お手紙に、自分になにかあったときには○○を頼みますと書いてあったわ」
 と聞かされて、
「え! あの汚い字で手紙を! よく判読できたね!」
 と叫んでしまいました。

 父の字はこれです。
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 会社を定年退職したあと、念願だった半年間の世界一周旅行に船で旅立った父は、滞在先からテンション高めの絵はがきをたびたび送ってきたのですが、よ……読めない、この字は一体? と何度首をひねったことか。
 その悪筆で! とっくに成人を過ぎた社会人の娘を『頼みます』だなんて……。
 やっぱり父はずっと父のままなのかもしれません。

 困った父についてあれこれ書き散らしましたが、子供のころから大学を卒業するまで私がずっと平和で幸せでいられたのは確実に父のおかげでした。
 なんでもしてくれて、どこまでも愛情を注いでくれる、絶対に支えてくれるし守ってくれる、この父の娘に生まれて幸せでないはずがないと信じていました。
 そんなお気楽な私も、人生には一人で泣きながら頑張るしかないことがあり、父にもどうにもできないことがあると知ったとき、もう父の娘というだけでは幸せにはなれないのだという現実に打ちのめされることになるのですが、それはまた次回に。

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