沈黙-silence-

ついに観てきました!
映画館で映画観るのいつぶりだろ…
おうちでゆったりDVD派ですが、とりあえずこの映画だけは製作を知った時から待ちきれず映画館行って来ました。

超寝不足で行ったので眠気を心配してましたが、映画がセミの声で始まりセミの声で終わるまで、一切の眠気は意識にあがることもなく完全にのめり込む…

前半では隠れキリシタン達の圧倒的な過酷さと信仰心に信者でなくとも感情移入させられ、対比的に後半では神の沈黙の理由、日本人にとっての宗教とは何かという根元的な問を考えさせられました。

私は信者ではないですし、フェレイラ元神父の台詞がほぼ私の思うところを代弁してくれている感じだったのですが、作者の遠藤周作はもちろんすべてわかった上で、フェレイラ元神父とは違い、それでも自分がキリスト教者であることを選んでいるということですから、私はそこに大きな興味を持ちます。

もちろん遠藤周作はフェレイラ元神父のように迫害を受けた訳でも、究極の選択を受けた訳でもないでしょうが、元々色々な物事に懐疑的な姿勢を持つ遠藤周作は、いくら幼少の頃からキリスト教に親しんでいたといえども、自分がはっきり納得しない限りキリスト教者であることを選ばないと思うのです。

誤解を恐れずに言うと、いわゆる知的階級の人が宗教を本当に理解した上でその宗教を選択する時に必ず立ちはだかるであろう葛藤が、そしてそれをどう乗り越えて信者となったのかという部分に一番興味があります。

それと、宗教とは関係なく、私は誰もが一時に同時に二つ以上のものを大事にすることはまず出来ないと思っているので、神が何よりも一番大切だとすると、人間の生活上としてはなんらかの矛盾を持たずにはいられないような気がします。

私の場合は息子がいる限り、なんらかの究極の選択があった場合、息子が生きていくためならば神や悪魔や仏や…あらゆるものを棄てると思うからです。

もちろん他にも大事にしたいものはこの世に沢山あります
しかし究極の選択の時においては答えは私の場合は決まっているのです

それがわかっていて、そんな状態で神や仏を信仰する訳にはいかない、信仰することが端から背徳のような気がします。

それにしてもこの映画、全編自然の音だけでほぼ進行して、音楽という音楽はモキチが歌う讃美歌、という凄い緊張感でした。

日本人は自然のものだけしか信仰の対象にできないという台詞がありましたが、肉体を持つキリストとは違い肉体を持たない森羅万象は人間の生業や煩悩などの及びもつかない存在で、人間と同列に試したり試されたりするような対象ですらないことが日本人からするとなににも代えがたい神的な存在だと認識されているのではないでしょうか。

観る前からこの映画の紹介でよく出ているこのシーンがこれほど心を打つ場面だとは…

後半、フェレイラ神父がロドリゴに「彼らは神の為に殉教したんじゃない、お前のためにしたのだ」というような場面がありました。

モキチの神への信仰心はもちろん驚くべきものですが、このシーンがこれほどまでに心を打つのは、神への信仰だけでなく、初めて自分の信仰心を形あるものに導いたロドリゴとの強い絆が、観る人の感情を揺さぶるからなのだと思います。

久々にこんな凄い映画を、がらがらの館内で笑、しかもみんな物音一つたてずに妙な連帯感を持ちながら観賞出来たことに感激です。

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