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「私は元気がありません」

3つの短編小説集。

まず1つ目の「私は元気がありません」
主人公の友人が亡くなったその時から、主人公とその友人が前に進めないで過ごしていたところから、彼氏の言葉により前に進めるようになるお話だ。

過去から未来へ進めないのはいけないことなのか。
変化とは、必ずしもいいことばかりではないと私も思う。

私の精神年齢はかなり低いと思っている。
子供の頃から前に進めていない気がしている。

物心がつく前に祖父が亡くなった。母の父だ。
私が大人になって、祖父が亡くなって20年以上経つが
いまだに母は祖父の話をするときに「お父さんは」と話す。
祖母はまだ生きている。祖母のことは「ばあちゃん」と呼ぶ。
母の中にいる祖父は、孫が生まれてからの「おじいちゃん」ではなく「父」なのだ。

私が実家を出てから10年経つが、母は未だに離れるのが寂しいと泣いている。
会えても泣いている。
私はいつまでも母の子供のままだ。

時が流れるのは恐ろしい。
人が変わって行くのは怖い。老いるのも怖い。

子供から大人になるのは成長、と喜ばれるが大人から時間が経つと老いになり悲しまれる。

母の母、私の祖母は認知症になり階段から落ちて背骨を折った。
1人ではまともに歩くこともできなくなった。
私の顔を見ても、もう私だとはわからない。
それでも一度思い出したら、数日は覚えていてくれる。

私の記憶にある祖母は、バイクを乗り回す祖母だった。
毎日ウォーキングに行く祖母だった。
祖母の家から帰る時、見えなくなるまで見送りにきてくれる祖母だった。

父は祖母の父から続く自営業の後を継いだ。
父の父は仕事がなくなったが会社に行き、自分の席で読書をして寝ていた。
私の記憶にある祖父は会社の社長だったし
父の母はそのサポートをしていた。
子供だった私と一緒に走ってくれるのは祖母だけだった。

そんな祖父母ももう、認知症で耳もよく聞こえないようだ。

両親ももう還暦だ。
自営業なので働き続けているが、私に記憶にあるハツラツとした両親はもういない。
涙もろくなって、できないことも増えた両親。

私たち子供が大人になると同時に、私の周りの大人は老いていった。

変化することは必ずしもいいことばかりではない。
変わらない1番いい時間に留まっていたいと思うのは悪いことではない。

だけれど、変わってしまった現実を受け入れて次に進むことも怖い。
変わらないでそのまま留まることが自分の中でよくないことだと思うのであれば
勇気を出して踏み出す必要はある。

そんな自分を救ってくれる人が周りにいるだろうか。
私にはいない。
それでも私は前に進まなければならないと思うので、自分で少しずつ勇気を出さなければならない。

短編集2つ目は「ベストフレンド犬山」3つ目は「万引きの国」

これらは中高生の性に対する考え方と、男女の関わりかたについて考えさせられた。

「ヘイケイ日記」の記録にも書いたが、私は自分が女であることが嫌だ。
男を好きになる心も体も女である私だが、男から女として見られることはとても不快だ。なぜなら自分の長所がわからないからだ。いいと思えるポイントがないにも関わらず、女であるだけでよく見られているなんて、恐ろしくてたまらない。

男女の友情は成立しない、と私は考えている。
私は男でも女でも友達になれると思うが、その友達にできた恋人から見たら、
女友達なんてものは邪魔なものでしかないと思う。
私たちの間には友情しかなかったとしても、その恋人が不快ならば友達はやめた方がいいと思っている。

男女の友情が成立する方がかっこいい。イレギュラーなのだ。

多様性の現代で、同性を好きになることは認められた時代だ。
それを認めたのは誰か?それが身近に起きている人だけのように思う。

私の周りには同性を好きになる人はいない。
実際にそのような人を前にしてカミングアウトをされた時、
私はどのようなリアクションを取るのだろうか。なんて答えるのが普通なんだろうか。

多様性の時代、これを分かったフリ、認めたフリをする方が格好いいのだ。
生きやすいのだ。
むしろ異性を好きになることの方が、普通で、古臭い。

時代に必ずしも則った生き方をしなければならないわけではないし
古き良き時代にも、そのような価値観に至った理由が存在したのではないか。

他人を受け入れること、自分を受け入れることはそんなに簡単なことではない。
しかし、複雑に考え込まず、単純に受け入れることも悪くないのかもしれない。

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