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母の最後のなぞなぞ

乗り慣れない電車を乗り継ぎ、
母の眠るお墓へ向かった。

先日、母の6回目の命日を迎えた。

年に数回程度しか行くことはないが、
毎度清々しい気分になれる空気の澄んだ高台だ。

秋晴れの青空がより一層大きく見える。
ここに来るたび
「空はこんなに広かったのか」と気付かされる。

余り華美な事を好まなかった母は生前

「私が死んだら自然葬でいいからね」と冗談混じりで良く話していた

しかし、残された方としてはやはり手を合わせる物と場所が欲しいものなのだ。

せめてもの折衷案で、自然に囲まれた高台の見晴らしの良い場所で眠ってもらっている。

当たり前だが、母の墓前で線香を焚き、手を合わせてきた。

ただし私の手を合わせる時間は
割と短く、また形式じみたものである。

実際、墓前で手を合わせる時に、
生前の姿を思い出したり、偲んだことはまだない。

厳密に言えば、「まだ出来ない」のだ。

母は特段大きな前触れもなく突然旅立った。

いつも突拍子も無いアイデアと行動力で周囲を驚かせ

常に周りに迷惑を掛けないことを信条とし、
笑顔を絶やさなかった人なので

今思えば、
母らしい旅立ち方であったのかもしれない。

しかし、残った方はたまったものでは無い。

突如現れた後悔と無念の大嵐は
未だに吹きやむことは無いのだ。

「日にち薬」とはよく言ったもので、

今ではその嵐もわずかばかり風を弱めた。

亡くなってからの最初の3年ほどは、
どうにか思い出さないようにするだけで精一杯であった。

ふと気を抜けばあらゆる思い出と悔悟の念が頭と胸を覆い、
ついつい苦しくなってしまうのだ。

あの時ほどせわしない自分の仕事に感謝したことは無い。

今ではようやく振り払わずとも思い出さないようになった。

しかしまだその程度なのである。

こんな調子なので墓前で思い出話をする事も、

在りし日の母の写真アルバムを開き、
懐かしむのも当分先である。

写真と言えば、自分が幼かった頃
母は大の写真嫌いであった。

当時はインスタントカメラが普及し出し
写真の撮影が手軽になっていた頃で

みなこぞって写真の撮影を楽しんでいた。

しかし母はカメラを向けられようものなら

慌てて逃げ出し、顔を隠し、写り込むことを拒んでいた。

私が成人したある日、ふと気付いた事があった

あの母が写真に写りたがっていたのだ。

その変化に気づいた時とても驚いた。

今やその変化の理由を彼女に聴く術も無いが

晩年の写真の母は

何故か左手を大きく開いた
お決まりの滑稽なポーズで、
どれも満面の笑みで写っている。

理由は分からないが、晩年の母は
何かしらの自信を取り戻し、
そして幸せそうに暮らしてくれていた。

あの笑顔が、しぶとく残る悔悟の念を
僅かに緩和させてくれるせめてもの救いだ。


当たり前だが人はいつか旅立つ、

人生は無限に水の出る蛇口ではなく
限られた一杯の、グラスの中の水なのだ。

母の遺品を整理していた時
母の手帳の中にポツンとこんな言葉が書かれていた


「死に方は、生き方」


母の背中を追い越すことは出来ないかもしれないが、

せめて
母が最後に残してくれたなぞなぞを
いつか解ける日を楽しみに

残りの人生を、出来るだけ丁寧に
過ごしてみたいと思うのだ。

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