地下アイドル記事の「読後に得るものがない」に違和感を覚えた話

東洋経済オンラインで、姫乃たまさんが書いた地下アイドルの記事に胸を突かれた。

https://toyokeizai.net/articles/-/225218

自分ごとのように漠然とした不安感に襲われ、ぼくは「この文章の使い方がうまいな!」とライターとしての位置を保つことで、心の距離をとったくらいだ。

ただ、コメントを眺めてみると「読後に得るものがない」と書かれてあって、「なんか……そういうことじゃないんだよな!」と、ぼんやり思う。

生きていても目の前に答えや学びが提示されることなんて、あんまりないはず。それらのほとんどは体験から「得る」ものだし、むしろ明示されていないほうが、自分の頭で考えるからいいくらいだ。

(ただし、仕事を円滑にするために「答えだけくれ」という話はあり得るし、組織運営のために正しい情報伝達は必要です)

すくなくとも、姫乃たまさんの記事は、まとった空気感や言葉の置き方から、ある種のメッセージ性を感じ取ることは容易にできるタイプだとおもった。それが正解か否かが大事なのではなくて、感じ取ることそのものに価値があるはず。

以前にボルダリングをしたときのことを思い出すと、ボルダリングが提供しているのはあくまで環境であって、そこから「なるほど、頭と体をどちらも高速で使うから秘めたるパワーを発揮したような心持ちだし、一つひとつのポイントが仮説検証からの成功体験の繰り返しだから気持ちいいんだ」と考えつけば、自分の学びとして次の何かに活かせるんじゃないかしら。

とはいえ、ぼくも仕事で要点や答えをはっきり見せる「ライフハック」な記事をたくさん作ってきたのもあって、それはそれで価値があることもわかる。伝達速度が速いし、役に立つし、知的な充足感もある。

ただ、それは意図して見せているのであって、それが自分の望むようにわからないからといって残念がるのは、ちょっと違うようにおもう。

情報強者とは「情報をたくさん持っている人」ではなく「情報を導き出せる人」だ。

いかに感じ、見立て、考えられるかで、生きているだけで情報量に差がつく。それを生み出すための前提として知識がいる。誰と会って、どこにいて、何があっても情報は得られるし、何もなくても脳という無限のフィールドがある。

情報というのは、そういう図なんだろう。もっと、もっと意識的にならないと。自戒を込めて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?