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僕は毎日、何かを買っている

先日、財布をプレゼントしてもらい、長年使っていたものから替えた。買いたいと何度も思っていたのだけれど、しっくりくるものに出会えなかったのだ。「今日じゃなくてもいいか」なんて、ひっそり口にするのも、3回目から数えるのをやめてしまった。

その長年使っていた財布はいろんな思い出があって、たとえば奇跡の生還を果たした。社会人2年目だったのではないかしら。酔っ払って終電を乗り過ごし、遠くの駅で降りることになった僕は、駅前で倒れこむように眠ってしまった。

おまわりさんに起こされて朝を知り、帰ろうと思ったけれど財布がない。交番で事情を説明したら500円を貸してくれた。「ちがう交番でも良いから」と後日返す約束をして、僕はそこからおまわりさんの言うことは、なるべくちゃんと聞こうと決めている。

その財布は、どうやら悪い人にすられてしまったらしく、たしか1週間後くらいに電話がかかってきた。小松川警察署に出向いてみたら、気の良さそうなおじさんが、ピンク色のプラスチックのバスケットに、ぺたんと力無げに倒れている財布を乗せて現れた(まるで酔っ払った時の僕みたいだ)。財布は江戸川の河川敷に捨てられていたのを、犬の散歩をしていた方が届けてくださったそうだ。

現金、免許証、保険証を抜き取られ、川の水でびっしょり濡れ、さらには小松川警察署の粋な計らいでドライヤーをかけてくださったらしく、僕の財布は少し縮んで手元に戻ってきた。そのタフさが、どこか愛おしくて、そのままずっと使い続けてきた。

ほんの少しだけ、「ご利益がありそう」とも思った。しかし現実は、まぁ、現実だ。僕の財布からはするすると偉人の顔が出たり入ったり、出たり、出たりした。

時計の針を今に戻す。財布を新調する時に、苦楽を共にし、くたくたになった相棒を見つめながら、冷静に「僕は毎日のように財布を取り出している」と思い当たる。つまり、お金を払う機会がそれだけあったわけだ。でも、いったい何に使っているのか。ひらりと現れたレシートを見て、「なぜ一昨日の僕は珍しく野菜ジュースを飲んだのだ」と、そんな簡単なことさえ思い出せない。とたんに、切なくなった。僕のことを、僕が知らない。

僕は愛用のEvernoteに新しいノートブックをつくった。「僕は毎日、何かを買っている」と名付け、日付と一緒に買ったものをメモし始めた。少しだけ、暮らしの輪郭がはっきりしたような気がした。3ヶ月ばかり続けるうちに、買い物メモを通じて、文章が立ち上がってきそうなワクワクが訪れた。

2000年の11月1日は、自分の“ホームページ”をドリームキャストで作って公開した、僕だけの記念日なのだけれど、そこには何年も日記を書き綴っていた。mixiにどっぷり浸かった大学生の頃にも日記を書いた。とりとめのないことが多かったけれど、つい最近になってアーカイブを読み返してみたら、そこには確かに“僕”がいた。

少しだけ、その当時のことを思い出したりもした。好きだった女の子の後ろ姿、もつ焼き屋のべたつくテーブル、自意識を露わにキーボードを叩き続ける深夜2時。

僕は最近、僕という人間が、ちょっとだけわからなくなっていることが多いから、日記のようなものを黙々と書くことで、世界と僕の距離感を捉え直せるのではないかと考えた。

それで、今度はnoteにマガジンをつくって、「物書きの物入り」と名付けた。日々の買い物を入り口に、インターネットが大好きで仕方なかった“僕”を取り戻すように、誰に頼まれるでもなく、ひっそりと書いていこうかなと思っている。

「いつもお金のない人の性質を笑う」という楽しみは、たぶん提供できないだろう。でも、たまに良いことを言ったり、買い物の参考になったりはするかもしれない。僕は思いつきで物を言うのが得意なのだ。

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