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わたしと尻手黒川線

小さい頃から今に至るまで、気づけばすぐ近くに尻手黒川道路がある。尻手黒川道路は多摩川沿いに細長い川崎市を縦断する幹線道路で、うちでは尻手黒川線と呼んでいた。トラックもバスも乗用車もたくさん通り、いつも混んでいる。

私はその中腹の住宅街で幼少期を過ごした。母の育児日記には、今日は「おっきい道」を渡ってお散歩に、などとある。今でもその辺りを通ると、黒煙をあげて走り抜ける大きな銀色のトラックを身長100センチから見上げた記憶が立ち上る。

何度かの引越しを経て、思春期手前で尻手黒川近辺の別の街に越してきて、思春期の大半をそこで過ごした。セブンで部活帰りにピザまんを頬張ったり、進学塾とは呼ばれない学習塾でただでさえ冴えない成績を落とさぬよう苦心したりした。バイト先の先輩が送ってくよと車に乗せてくれたけれど、下手な運転ともしや口説かれてるのかという動揺から理由をつけて下ろしてもらい、夜の尻手黒川で公衆電話を探して父に迎えにきてもらったこともあった。

14、5の頃だったと思うが、父が尻手黒川をはるばる下って川崎駅の京急ストアまで正月準備の買い物に連れて行ってくれた。筋子を塊で買って、安くいいものを買えたと満足そうだった。住んでいた北部にも似たようなスーパーはいくらでもあったと思うのだが、不在がちだった父との数少ないお出かけの思い出として、私は年の瀬の雰囲気と父の嬉しそうな横顔をよく思い出す。

父はだいぶ前に他界したが、結婚して親になった私は、川崎駅から遠くないところに住んで、母が暮らす実家や父の墓参りへ行くために、今日もまた尻手黒川線を北上する。

尻手黒川線を走るたび、私は3歳の私、15歳の私、20歳の私とすれ違うのだ。父が、母が、あるときは友だちが、彼女らの隣に寄り添っている。庇護され安心の中にある少女時代の彼女たちと、やや疲れつつ家族を守る今の私が、この古く太い幹線道路で直線上につながっている。彼女たちを横目に車をはしらせながら懐メロを口ずさむ。ちょっとした人生讃歌だ。

尻手黒川線は今日も混んでいて、でもトラックもバスも軽もシャコタンも、行楽家族も仕事帰りも仮免許練習中も、みんなを等しく優しく運んでいる。