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バカと天才とパプリカと。



「まがり、くねり、はしゃいだみち〜♩」

道ですれ違った
女の子が唄っていた。

“パプリカ
花が咲いたら
晴れた空に種を撒こう”

両の手をつぼみの形に合わせて
胸の前でパッと開く。

妹たちの影響もあって
何度もその踊りを見ていると
覚えるともなく覚えてしまう。

ここまで人の生活に染みつく作品を創れるというのは、やっぱりすごいなと作者の人を思う。

そりゃあもちろん、短期間で大規模な影響を起こすには広告とかプロモーションとか、色んなその他の関わりがあるのは百も承知だが

打ち出すものそれ自体がB品なら
どんなに広告費をかけてもどこかで頭打ちする。


作者の米津さんについて私はあまり知らないが
この方の作品を聴いていると
天才とはなにかについて考えさせられる。

なぜ人の心に残る作品を創れるのか。
それが気になって仕方なくなる。

同時に、バカとは誰を指すのだろう、とも思う。

バカと天才を分つものとは、なんだろう。

各々のイメージがあると思うけれど、
暫定的な私の考えをまとめてみたい。


バカとは誰か。
天才とは何か。 


まずバカの定義から考えていこう。

はじめに言っておきたいのだけれど、これはあくまでも個人的な”定義”であって、特定の誰かを指しているわけでは無い。

バカの要素というのは人間誰しももっているものであって、それを定義化し観察できる形にする事で、バカになっている自分を省みて精進したいですよね、という趣旨に基づいてこの記事を書いている。


バカとは、
想像力が貧困で、
向上心が無い人のことを言う。

考える前に答えを欲し、
誰かのつくった価値基準に迎合して生きている。

教科書大好き、
正解大好き。

そして何より、
その、自分が迎合しているということに
“気がついていない”。

自覚がない、というのが、バカの特徴だ。

今回のコロナで
多くの人がマスクや消毒液を買い求めた結果かなりの品不足が起こったが

列に並ぶその姿は
「誰かのつくった価値基準に
迎合して生きている」

それと結びついてならない。

そもそもマスクは風邪など引いた人たちが
自分から感染が広がるのを防ぐために身に付けるものであって

予防のためにあるものではない。

そしてインフルエンザもそうだが
コロナもウィルスという特質状、
対策をしたいならマスクより健康的な生活習慣に気を配ることの方が根本的である。

考えてみれば当たり前なのだけれど
あまりにニュースが煽るものだから
それに反応した人たちがスーパーに長蛇の列を作ることになる。

もちろん、マスクを必要としている人がいることはわかる。

お年寄りの方や小さな子どもたちは
免疫力が弱いために人よりも敏感だろうし

飲食関係の人たちは
コロナを云々するまでもなく衛生環境に気をつけなければならない。

そして、花粉症民にマスクは必須だ。
(でないと目がフ◯ッシーのように「梨汁ブシャーッ!」と大変なことになる)

だが、ある程度健康体で
仕事上もそこまで必須ではなく
花粉症でもない人たちがマスクを買い漁る姿は

「私はニュースの言うことを鵜呑みにしている
 考える力の無い人間です」

と”自ら公言してしまった人”

そう私には映る。

こういう想像力の無さが
バカの一因にあると私は思う。

こういうとかなり上から目線に聞こえるけれど
先にも触れたが気を抜くと私を含め、誰でもバカになりうるということは横に添えておかなければならない。

あんまり認めたくはないけれど私は自分をバカだと思っているし、バカでない人間はいないとも思っている。

人間皆バカなのだ。

なんかこう言うと中二病っぽいだろうか?
…閑話休題。

重要な点は、

バカと自覚して頑張るか
バカということに無自覚のまま、バカでいるか。

どちらを選ぶかが天才とバカの分かれ道である。


「無知の知」、とアリストテレスは言った。

知らないからこそ
知りたいのだ。
分からないからこそ
やってみたいと思うのだ。

無知を知ることから、全ては始まる。

そこから出発し
探求を恐れず継続した人たちが、
電球を作ったエジソンであったり
飛行機を造ったライト兄弟であって。

結果的に偉人と呼ばれるのだ。

バカとは
知らないけれど、でもそのままでいいや
と、現状維持を望む者のことを言う。

けれど、
その在り方は人間の本質に反している。

人は常に進化してきた
時代は常に変わっている
それに適応できたものだけが
生き残ってきた歴史がある。

だから、現状維持というのは
頭を草むらに突っ込んで危険を回避しようとするダチョウのようなもの。

そんなことしたら
あっという間にライオンに食われて終わりなのだ。

Oh good-bye days

逃げるも闘うもせずにいるのは
淘汰の対象になる。

その意味で
現状維持は衰退の象徴だ。

現状維持をつくりだすものーーー
それこそ「想像力と向上心の停止」である。

闘うために必要なのはなにか
逃げるために足を速くするにはどうしたらいいか

考えて、自分を高める。
それを面倒臭がる人の元に
淘汰の波はじわりじわりと押し寄せてくるのだ。

私がこうやってブログを書くのは
そういう人たちに
「そのままでいいのかーー!!」
と修造のごとく声をかけたいのである。

全然熱くないけど。
晴れ女でもないけど。

人は誰でも、
沈みゆく船に乗っていると分かったら
すぐ降りようと思うだろう。
降りる方法を、想像力をもって探すだろうし
生きたいという向上心が湧くだろう。

けれど
足元がタイタニック号だとわからない限り
人々は今日も変わらずマスク買いに走るのだ。

今手にしているのはバカの象徴かもしれないと
疑問を持つことから始めなければならない。


話を元に戻そう。
ここまで、バカは誰なのかと言うことを考えてきた。

バカとは、
想像力が貧困で
向上心が無い人のことだと。


ではもう一人について見てみたい。

天才とは誰か。

いってしまえば、天才というのはここまで行ってきたことの逆を考えればわかる。

ただ、「想像力があって向上心もある人が天才です!」とだけ言うとなんとも味気ないので、もう少し深ぼってみたいと思う。

天才と呼ばれる彼らに共通することは、
常に世界に疑問をもっていることだ。


だから、想像力が結果として豊かなのだ。

あるいは、無知の知ともつながるが、自分をバカだと自覚しているからこそ向上心がある。

自分を高めるために毎日毎日疑問を抱き、
仮説を考え、実践し、また疑問を発見し、
繰り返す。

その途方もない積み重ねが
数年後にとんでもない変化をもたらす。

それが周りには理解不能なレベルだから
結果として天才と呼ばれるに至る。


つまり一言で言うとこうだ。

天才とは、

集中力を発揮した凡人

である。


イチローは言った。


努力せずに
何かできるようになる人のことを
「天才」というのなら
僕はそうじゃない。努力した結果、
何かができるようになる人のことを
「天才」というのなら
僕はそうだと思う。人は僕のことを
努力もせずに打てるんだと思うなら、
それは間違いです。


人間の能力は
先天的に生まれ持つものではない。
後天的な経験で育んでいけるものだ。

そうじゃなかったら
誰が努力なんてするだろう。

だったら私は、心身を削って絵を描いたり文章を打ったりしたくない。

「きっつ、」と独り言を吐いて脚を生まれたての小鹿のようにプルプルさせながら、スクワットなんてやりたくない。


…でもバカには、なりたくないのだ。
それは人生として”面白くない”から。

ニュースを見て世論に流され、なんの疑問も持たずマスクを買いに行ったり
Netflixを観て時間を浪費したり

考えること、成長することを放棄して受動的に生きることは
楽だけれど面白くないのだ。

そして、その楽の先には滝壺が待っている。

ナイアガラの滝を逆流して泳ぎ登れる自信があるなら
存分に流されればいいと思う。 

残念ながら私には無い。
25メートルプールすら怪しいのに。


天才とは、集中力を発揮した凡人だ。

過去の偉人も、今をトキメくパプリカの米津さんも
(もしかしたらパプリカについては既にちょっと時代遅れかも分からないけど)

それぞれの分野で、圧倒的に実践格闘を積み重ねてきた人たちなのだと私は思う。


その道は、一朝一夕では辿れるわけじゃない。

わけじゃないけれど、それを目指すのって面白くないですか。
そーゆー人生って豊かじゃないですか。

そんなことを言いたいのだ。

タイタニック号に乗って踊っている人にも
乗りながら疑問を持ち始めている人にも
勇気を持って、飛び出したいと思っている人にも。

バカと天才。

今これを読んでいるあなたが
どこでなにをしているのか分からないけれど

常に足元は二本道に別れている。

次の選択が、人生の方向性を決めるのだ。

昼食にマクドナルドを食べるのか
グラスフェッドバター入りのコーヒーを摂取するのか。

ちなみに私の今日のお昼はおにぎりだった。

悪くないが、もうすこし低糖質の生活に気を配らねばならないなあと、反省と検証をしながらの文章を書いている。

キーワードは、くどいようだが
「想像力」と「向上心」。

その2つを頭に置いて
昨日より今日の自分を目指していけたらと思う。


ちなみに冒頭の女の子は、
両手でやる花の開き方を上手く踊りたいのか
ちょっとずつ角度を変えて何度も踊っていた。

いいなあ、そういうの。

小さいところからでいいんだな、
そんな風に思う一コマだった。

はしの。