日記をはじめる

 1969年に大学3年で自殺した高野悦子の日記3部作のうち、2作目、高校3年から大学2年の間に書かれた『二十歳の原点序説』※を少し前に読んだ。本が読めない、ずっと眠くて授業に出れない、自分のテーマがない、などがよくわかるなと思った。
 赤裸々で正直な日々のボヤキと告白。

 しかしなんというか、わけのわからない文章といったものがほとんどないのは、不思議といえば不思議だった。むしろお手本のような日記に思える。文法にどこにも瑕疵がなくて、説明も不足がない。誰が読んでもわかる。かといってまさか出版を前提としていたわけでもなかろうに。この安定感は何なのか。
 度々あらわれる「死んでしまいたい」という言葉は、たしかに唐突だしギョッとするところがある。なにかがあると思う。思うべきだ。でもそれは「日記」として読めてしまう。「日記」という形式、ルーティンの中に言葉がきちんと収まっている、そんな印象をどうしても受ける。マラソンランナーがそれ用の身体とフォームを鍛え上げるように、彼女は日記を「日記」として育ててきたのだろうか? 

 …うーん。育てる、というのは少し違う気がする。勝手に育った、のほうが合ってる。少し考えてそう思う。おそらく日記において、書き手は形式や文体を決して意識しない。内容だけがある。それが多くの日記で、高野の日記もそうではないか。人は気付かずに同じ文章を日々書き続けている。たぶん。

 あえて形式を自覚的に維持するという意識、形式を絶えず取り壊していくという意識、どっちも日記の執筆者にはない。何があったかを書く。どう書くか、ではない。記録。表現ではない。としたらそれを、やっぱり僕はつまらないと言ってしまいそうになる。高野の日記もつまらなかったといえばそうかもしれない。

 そういうものをこれから書いていく。また楽しからずや――?

  そういえば。僕が高野の日記で一番いいと思ったのは高3の時の日記で、ものすごく出来の悪いテストの点数をちゃんと5教科順番に書いて、そのあと自分で「ひどい点数で落ち込んでしまう」と書いてるところだ。これを読んで僕はこの日記が大好きになった(本を売ってしまったので正確な引用ができないのが惜しい。すごく低い点数が一個一個書いてあるのだ)。
 しかし、やっぱり多くの日の日記はつまらなくて、それを僕は構わないと感じる(ただしつまらないので売ってしまった)。日記は他人が読むものではない。でも場合によっては他人が読むという状況があっても、それはそれでありだと思う。それがつまらなくても良い。つまらない読書もまた楽しい。つまらない文章を書くこともたぶん、楽しい。面白ければ褒められるかもしれない。褒められなくても書く人は書く。

 高野悦子の日記が良い日記なのか(そもそも日記に良い悪いがあるのか)、そういうことで今のところ僕にはよくわからないが(世間的に褒められてはいる)、それがほかでもない「日記」であるのは間違いなくて、その微妙な納得感と、生ぬるく心地よい読後感のうちに、僕もまたこうして第一日目の日記を書くことになったのだった。質より継続を目指す。

※高野悦子『二十歳の原点序説』新潮文庫、1979年(リンクは新装版)
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