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今日は金子みすゞさんの詩「明るいほうへ」。夜飛ぶ虫は、翅が焦げようとも、灯のあるところへ向かう。本能なのか、抗いえぬ運命なのか、あるいは自ら望んでなのか。たとえ翅が焦げようとも、灯のあるところへ向かって自らもまた飛び続けているのだ、と。こんなさむい夜は自分を信じてみたくなります。

THE BLUE HEARTS が誰よりも傍にいてくれたから、生きることを諦めずにいられた日が数えきれないほどあった。色褪せない歌を聴き詩を読み返しては、歴史は繰り返し人間は変わらない現実に愕然とする。武器はいらない。頼りない大人にはなりたくない。いつまでもどこか、青い心のまま。

音楽は不自由なときもあり、それは楽器の場合、常に持ち歩き、いつでもどこでも思い立った時に奏でることができないためですが、そんな時は賢治さんの詩を思い出し、空を眺めることにしています。そこにはいつも、私だけのパイプオルガンがあるのだと教えてくれたから。私も貴方の、弟子のひとりです。

高等遊民とも呼ばれた九鬼は「いき」の根底に武士道と仏道を見出しこれを構造的に美事に分析しました。「いき」の反対は「野暮」ですが、「いき」が九鬼なら敢えて「野暮」を貫いたのが安吾であるように思えてなりません。けれど両者共に真剣に、徹底的に。その愚直さは、どちらも愛おしくて仕方ない。

今日のひとことはニーチェです。彼は〈力への意志(Wille zur Macht)〉はあらゆる感情の源泉であると同時に「原初的な感情形態」であると、絶えず語り続けました。人間が喪失し価値を失くしたもの、〈取り戻されるべきもの〉としての意志は、時に冷笑的でもあり、そして無垢なのです。

今日はシュルレアリスムで知られるアンドレ・ブルトンの美しい言葉を。愛する術を知ることこそ詩より先に…それは愛に生きた彼ならではの言葉かもしれません。「猛毒」はやがて時代と共に淘汰され、今や遺物を示すかのような「シュルレアリスム」という言葉。それでも私は今なおブルトンが大好きです。

今日は大切にしているアルトーの一文、テクストとタイトルを訳出し直してみました。ここでは錬金術的な思考とラテン語の残響が重要であり〈テアトル〉という言葉が担う意味の複数性は本質的に翻訳不可能であると感じるため、演劇という言葉に敬意を表しつつ、敢えてこの語を用いることを控えています。

「料理は哲学」であるという思考を深め「一汁一菜」は「念仏」でありそこには「愛と希望がある」という土井善晴先生。その観察眼は、生きるために食べ、食べるために調理するという不可欠な時間のうちに人が何を想い何を見出してきたのか、和食という思想のうちに潜む大切なものを沢山教えてくれます。

ネイティヴアメリカンの言葉が好きです。いつか訪れてみたい、自分がかつて生きたことのあるような親近感。生命を捉えることは究極的には瞬間でしかないのかもしれません。夜闇のうちに光る蛍が、そこに生きている存在を示してくれるように。幼い頃、父と一緒に見た辰野町の美しい蛍が思い出されます。

76歳になったパティ・スミス。時に少女のようにはにかむ姿に、あたたかい気持ちになり胸打たれる。彼女の音楽を通ってきた世代ではないが、一度は聴くべきだと言ってくれる誰かがいるような時代だった。両親より年上の彼女が、今なお凛と生き方を貫く勇姿。時間を重ね生きることはきっと素晴らしい。

安吾は心から信頼している作家のひとりであり、私が愛してやまないひとりの人間でもあります。弱さに醜さ、滑稽さを曝け出すことも恥じぬ、まさに赤裸々。それでいて優しく、繊細でありながら、骨太。焼け野原にただふたり立ち尽くしたとしても、この人となら生きてゆけるのではないかという、安心感。

ヘンリー・ミラーが好きです。読んだのはだいぶ大人になってからですが、読み返してみて、今このときだから胸に響く言葉に出逢うことができたように感じました。すべては繋がっているのだということ。あたかも宝探しの最中のように、一瞬一瞬、胸躍らせるような気持ちで生きられたならと願っています。

今日は空海、ふたたび。20代の頃、空海の思想に関心を寄せ高野山へ旅をしました。宿坊に泊まり、「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」という儀式を体験(春は胎蔵界・秋は金剛界)。双方受けると完成するともいわれ、いずれもう一度と思いながらはや幾年。またいつでも旅ができる世界を願っています。

素敵な言葉に出逢うと手帳に書きとめ、お守りのように眺めていました。サン=テグジュペリの言葉もそのひとつ。大聖堂が先にあるのではなく、石の上に大聖堂を想い描くことこそすべての始まりである。飛行士として生き、大戦中に偵察機と共に消えた彼と、今なお繰り返される戦禍…あらゆる生命の無念。

雲とは、時間の流れと空間の中をうつろいながらとどまることなく生きる私たちが、あたかも自分の姿であるかのように見つめることが叶うもののひとつなのかもしれません。ヘッセが生涯に渡り誰よりも雲を見つめ、唯一の友を見出していたように。雲は空に現れ共に流れゆく心の友です。朝も、昼も、夜も。

ひまわりや糸杉などに代表されるゴッホですが、今日は《La Berceuse(揺りかごをゆする女)》(F504)に寄せた大好きな言葉から。「子守歌が聴こえるような絵」は、あたかも聖母像のように、ひまわりの絵を左右に配した三幅対としても構想されました(R:F454/ L:F456)。

何度も、何度も、何度でも。同じモティーフを描き続けたセザンヌの作品はまさに〈反復と差異〉を可視化してくれます。南仏プロヴァンスのセザンヌのアトリエは静謐で、木漏れ陽が眩しく、緑の色はまさにビリジアンそのものでした(動画も見られます)。 https://www.cezanne-en-provence.com/en/the-cezanne-sites/atelier-de-cezanne/

今夜の「漫勉neo」は手塚治虫先生でした。『火の鳥』連載中断時の幻の原稿からは、自らすべてペン入れしたという圧巻の場面の数々。結末を生と死の対比ただ2コマで伝えるという前例なき表現。その根底には、手塚先生の自信と読者への信頼、作者と読者が共に挑みあい育てあう、漫画の素晴らしさ…。

死に対抗する真の盾、バターとパンと美味しいチーズ。そこに温かいスープが加わったなら、さらに口福に長生きもできそうです。フランス家庭料理の基本は塩・水・野菜なのだそうですが、和食の澄んだものだけでなく、切れ端から余り物まで何でも放り込むブイヨン鍋の旨みと逞しさも見倣いたいものです。

谷崎は日本の美学の底に「暗がり」と「翳り」を見つめました。九鬼が黒として、谷崎が沈んだ翳りとして眼差したものたちを想うとき、〈オフィーリア〉( J.E.ミレイ)を観た時の衝撃が思い出され、明暗とは本来人間に共通するもの、あたかも死と生のコントラストであるかのようにも感じられます。