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鍛錬、修練、訓練

雑記。

たった今、プロフィール欄の年齢を35歳から36歳に変えた。つまり、そういうことだ。私は10時間ほど前に36回目の誕生日を迎え、晴れて36歳となったということだ。

年齢は数字だと言う。なるほど確かに。正直私は年齢より謙虚にいうと幼く、正直に言うと若く見られる。実年齢より精神年齢とうことだろうか。それだからか、感慨深いものはない。だって実を言うと、36歳になった瞬間はすっかり夢の中だったのだもの。そしてふと目が覚め、0時19分、私は36歳になっていることに気付いた。36歳なんてそんなものだ。けれどどことなくこの日を待ち望んでいた。こっそりひっそりとワクワクしていた。彼に欲しいものリストを提示するほどには(叶うかは不明だけれど、一応自己主張だけはするべきかと)。

36歳。確実に老いに近付いている。母になるリミットも近付いている。それだけは、忘れずに過ごしたいと思っている。どうするか、迫られている感覚はないけれど、いつか、そして近々選ばなければならない。けれどいつもする話だけれど、私は母が40で産んだ子なので、どことなく、40歳までは大丈夫な気がしている。それに甘んじているのか少しだけ余裕を感じている。

ところで少しスピリチュアルな話になるが、私たちは過去において、「来世も会いましょうね」という契約を結んでいるという。ただ、来世で出会う時期だけは選べない。ただそこだけが、私と彼の問題だったと思う。けれど物事には順序があるし、もう少し若い頃に出会っていたら機が熟しておらず、私たちはただ通り過ぎる人同士だったかも知れない。私たちの問題。鍛錬、修練、訓練。

魂の伴侶は簡単には結ばれないなどと聞く。そう。私と彼に課せられた鍛錬、修練、訓練。

誕生日を控えた数日前、少しの理由から彼を傷付け喧嘩をした。何故このタイミングで、と思ったけれど、少しの喧嘩は愛を深めさせる。日頃忘れがちな彼への気持ちを再確認させ、彼の優しい愛を感じさせ、私の感謝が足りなかったんだなと振り返らせる。鍛錬、修練、訓練。

二人で紡ぐ時間はまるで「年輪」だ。2年前に出会い、私たちは2年分の年輪を築いた。ときどき喧嘩をし、その年輪に傷を付ける。傷は癒えることなく一生残るだろう。でも、それでも、癒えない傷を修復したり添え木をしたりして「年輪」を育んでいる。いろいろあるけれど、本当にいろいろあるけれど、一緒にいたいという気持ちが気持ちだけが私たちを繋ぎ止め「年輪」を育ませる。二人で樹を育てましょうね。大樹になるまで、お互いにやりきるまで、二人で夢を見ましょうね。

昨夜、彼は一番に「おめでとう」くれて、「いつもイブの夜は来てたのにね」なんていうものだから会うつもりなどなかったのに丑三つ時に私を呼び出し、私が少し前に贈ったホヨードモントレーのリオセコを目の前でカットした。一緒にシャインマスカット食べて、少しだけ肌に触れた。いつかこの気持ちが昇華し、いい意味で変化し、過ぎる日が来るのだろうか。

僕たちは、明日を、諦められない。

だってこの恋は、鍛錬、修練、訓練を乗り越えて実るのですもの。

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