せむ・すぃうみ

 今日もわたしは木橋の上に立っていた。立っていたと言うより、誰かが橋の下に落ちてしまわないために、塀みたいなものが橋の両端に設置されていて、それに背中をもたれるようにして佇んでいた。橋の材質に反して、その塀は黒い金属で作られていた。不釣り合いだった。巨大な街道のはじまりにある堀に川はかかっていて、さらにその上に橋が架かっていた。わたしはその上に立っている。
 暇な時であれば、わたしは大体この橋に立っている。ほぼ毎日いる。けれど誰からもお金はもらえない。お金以外ももらえない。それでたまに、いつもこの橋に立っているわけを訊かれる。
「別に」
「え」
「理由とかないよ」
「はあ」
「考えたことない」
「そうですか」
 たいていこんなふうに答える。それが本音だったからだ。理由などない。もしも理由があるとしたら暇潰しだった。地の底に娯楽は少ない。それでも新たな娯楽が生まれないのには、ここの体制によるところが大きかった。地下も地上もひとつの世界で、それを管理している連中がいるのだが、普段どこにいるのかはよく知らない。地下では滅多に見かけないから、おそらく普段は地上にいるんだろう。
 わたしが立っている橋はいちおう地底の要所とされていて、この橋を渡ると「旧都」がある。旧都はこの地底において一番大きい場所だ。名前の通りそこは街で、通りに沿っていろんな店が出ている。住宅街もある。建物はたいてい木でできている。
 それで、わたしはこの世界の管理人に、橋を監視するように頼まれている。それはかいつまんで言うと「できるだけ変な奴は入れないようにしてくれ」という話だった。暇な時だけでいいから、と管理人は言った。そうは言っても、わたしはいつも暇だ。友達もほとんどいない。趣味のひとつもありはしない。
 旧都はいつも薄暗い光に包まれている。結構高いところに天井があるけど、地上にある太陽の光はここにはない。街灯の光が旧都を照らしている。
 旧都に入りたがるやつは、たいていろくなやつじゃない。妖怪だらけだ。いや、妖怪以外はわたしが送り返すよう言われている。管理人に。地底に落ちてくる人間は、たいていは間違って落ちてくる。それもそうだ。旧都は、地獄に住んでいた鬼が作り上げた街だ。
 鬼というのは恐ろしい種族として、地上では広まっている。地底にいくと食べられるだとか、問答無用で殺されるだとか言われている。実際にはそんなことはない。しようと思えばできるけど。
 怖いもの見たさでやってくる人間もたまにいるが、わたしが「身の安全は保証しないよ」というと、みんなすごすごと帰っていく。逆に妖怪はいかれているやつが多いので、わたしが初めて来る妖怪に同じことを伝えても、まったく問題にされない。見るからに弱そうな奴でさえそういうので、わたしはもう止めないことにしている。わたしが強く止めていないからか、橋を渡って旧都に入っていった妖怪のうち、二割ぐらいはそのまま帰ってこない。もしかしたら、旧都に定住しているのかもしれない。
 街灯は一日中ついている。というか、一日という区切りさえあまりない。朝も昼も夜も同じ光量。だから地上とは違う。極端に変化を嫌う、捻くれ者の妖怪に人気なのも頷けるかもしれない。
 わたしが橋に来てから、一度帰るまでにだいたい三百、多いと七百の妖怪が地上からやってくる。そこから大体二割を差し引いた数が地底から出ていく。地底と地上を繋ぐ場所はこの橋一本しかないから、地上から旧都へいく時には、必ずここを通らないといけない。逆に、地底から地上に上がる時にも、この橋を渡る。
 わたしは地上には滅多にあがらない。光が旧都よりも強いからというのもあるが、それ以上に、地上の連中が妬ましかった。生まれつきが旧都だったわたしには、地上のそれこそ太陽だとか、流行みたいなもの、吹き抜ける風、そういった地底にはないものが羨ましかった。羨ましい、が行きすぎて妬ましい、になった。
 無自覚に、わたしはなにかを妬ましいと思うらしい。知らない。よくわからない。すぐどうでもよくなる。そしてまた別のことを妬む。そういう体質だった。前に嫉妬狂いだとか言われたことがあるが、別にわたしは狂ってはいないと思った。嫉妬に次ぐ嫉妬をうっとうしいぐらいにアピールすることはあるが、それも地上の大物に向けたパフォーマンスだった。わたし以上に狂ってるやつなんていくらでも旧都にはいる。
 わたしも含め、妖怪は長時間の睡眠を必要としないけれど、それでもつかれはする。そのつかれの感覚が人間と同じかどうかは知らない。どっちにしろ、わたしはつかれたら眠る。五分ほどで目覚めると、つかれは取れている。そういう生き物だった。
 わたしと交友関係のある人は少ない。鬼が数えるぐらいと、地上に妖怪がふたりほど。この世界において、著名な人物について概要がこと細かに記されている「幻想郷縁起」という本には、わたしについて「人間友好度:皆無」と記されていた。実際そうなのでなにも言わない。
 楽しそうにしてるやつは気に食わない。旧都の妖怪はいつも暗そうな顔をしている。だからわたしには暮らしやすかった。


 いつも通り、わたしが橋に立っているときの出来事だった。
「渡ってもいいですか」
 少年は言った。妖気の気配がない。
「あなた人間?」
「はい」
 人間だった。
「悪いけど、人間には帰ってもらうようにしてるから」
 相手にしない。
「どうしてですか」
「死ぬから」
「え」
「知らないの」
「知ってます」
 知ってるのかよ。
「じゃあ帰りなさい」
「いやです」
 ここまで食い下がってくるお子様は初めてだった。めんどくさい。でも、力ずくで帰すのもなんだかいやな気がした。わたしはそれにいらいらして、
「渡ってもいいけど」
「え」
「どうなっても知らないから」
「はい」
 ありがとーございます、と言ってそいつは橋を渡っていった。そして曲がり角を曲がって見えなくなった。途端に、わたしは取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと思った。顔といい背といい、まだ寺子屋に行ってる年頃だった。親もいるだろう。
 怖くなってきた。今まで、わたしは一度たりとも人間を旧都に入れたことがなかった。わたしが休んでいるときは違うかもしれない。それでも、全員追い返していた。言葉で追い返せていた。
 肝の据わり方が妬ましいと思った。気合に負けた気がした。でもそれもすぐどうでもよくなる。
 何人か妖怪を旧都にいれたあと、わたしは早めに切り上げて家に帰った。
 時計がいちおう置いてある。寝る。


 地底にも四季がある。つくりものの季節だ。管理人が決めて、管理人が作り出した四季がかろうじて、わたしたちの時間感覚を狂わせまいとしている。
 もうすぐ冬だった。肌寒さはあまりない。
 起きて、橋に行く。すると、あの少年が橋の上に立っていた。生きていた。わたしはほっとする。
「何してるの」
「いつも橋の上にいるけど、どんな気持ちなのかなって思って」
 別になにもない。
「どんな気持ちもないよ」
「えー」
「仕事でやってるわけじゃないし」
「え、お金もらえないの?」
 ひどくあわれみの視線を向けられた。
「別に、お金とかいらない」
「どうして」
 あほか。わたしは妖怪だから、ご飯を食べなくても生きていける。
「そうなんだ」
 興味なさそうに言われた。
「なに、帰るの」
 気になって聞いた。
「帰らないよ」
 少年はいった。
「親とか、いないの」
 無神経なことを聞いたと思った。
「いない。だからぼくが働いてた。ちょっと前まで働いてたけど、やめたよ」
「地上で?」
「うん」
 少年はいった。悲しそうな様子が見えそうで見えない。
「地上にはいつ帰るの」
「いや、ぼくは住むよ」
 え。
 住むってどこに。地底に?
 意味が分からなかった。
「地底に?」
 率直にきいた。
「うん」
「なんで?」
 きかずにはいられなかった。
「面白そうだから」
 能力ひとつも持たない人間が? 鬼や妖怪しかいない地底で? 無理がある。ありすぎる。止めよう。止めたい。
「あてはあるの」
 そうじゃない。違う。
「鬼のおじさんのところで働かせてもらうことになったよ。手紙配達。前までやってたんだ」
 鬼のおじさん。どうして人間に仕事を任せようと思ったのだろう。わからない。妬ましいかもしれない。
「家は」
「そのおじさんと暮らす」
 え。
「人間がめずらしいって言ってた。親がいないって言ったら、身寄りになってやろうか、って」
 少年が笑っている。なんなのこいつ。怖いもの知らず?
「明日から働くんだ」
 少年はそういって、旧都のほうに引き返していった。遠巻きに
「近くにきたら、おねーさんに会いに行くね」
といって、そしてまた見えなくなった。わたしはずっと、とんでもない間違いを犯している気がした。止めればよかったと思った。今でも思っている。
 なにより、楽しそうなのが気に食わない。人間ごときが、もっとめちゃくちゃな目に遭ってきたらいい。そう思った。視界が小さく緑を帯びた。


 いまはもう地上の妖怪に、里に遊びにこいと言われた。ご飯食べようと言われた。わたしもむこうも、別に食事をとる必要はない。無視したかったけど無視しなかった。行くことにした。誘う友達もいない。
 もともと、管理人には「用事があったら橋は空けていいよ」と言われている。だから行ける。行った。
 眩しかったけどすぐに慣れる。地上の光が届く場所が、地底にもある。
 寺で待ち合わせた。わたしが着くと、すでにみんな集まっていた。久しい顔ぶれだった。
「あれ、勇儀はこないの?」
 あいつは来ない。予定があるらしい。多分なんかの会合。
「へー」
 里を歩いた。こいつらはいま仏教徒だ。酒が飲めないということで、酒がメインで置いてある店はやめようというのが暗黙のルールだ。わたしもアルコールはきつかった。
 それとなく団子屋の出店で団子を人数分買う。別に特別おいしくもまずくもなかった。
「地底は最近どお?」
 玉露茶をすすりながら言われた。別にと答えた。
「まあ、あそこは色が薄いからねー」
 笑って言われた。月から逃げてきた兎が作った団子を、地下から逃げてきた妖怪が食べているという構図は、どこか皮肉めいたものがあって面白かった。
「でも、最近変なやつがきたよ」
 思い出したようにいった。
「なにそれ」
 ぽつぽつとこれまでのことを話した。すると案の定面白がって
「その子に会いたい!」
とか言われた。地底に戻ってきたらいいよと皮肉をとばした。またひと笑い起きた。本当にのんきな連中だ。
 そいつらと別れたあと、わたしは里をぶらぶらした。知り合いが少ないから、当然そいつらとはばったり会わない。里を流れる小川にかかる橋はわたしがいつも立っているそれとは違って道幅が広かった。大勢の人が通るために作られたからだと思った。

 鈴奈庵という本屋は名前だけ知っていて、実際に行ったことはなかったしどこにあるのかもまったく知らなかったのだが、たまたま通りかかったところにあったから入った。
 内壁は立て本棚が占めており、店主らしき人物の座るカウンターには古そうな蓄音機が置かれていた。そして小さく妖気が漂っていた。その妖気というのはそこまで強くなく、しかし屋外に比べると、どこか異質な雰囲気をそれは作り出していた。
 よそ行きのためにお金は多めに持ち歩いていたし、本の一冊や二冊はぽんと買えた。でもわたしは本に興味がなかった。別にどうでもよかった。
 ふと、あの人間のことを思い出した。地上から降りてきて、手紙配達。そういえばわたしは手紙をもらったことがない。出したことも当然ない。むしろ、ずっと橋に立っているだけの妖怪と親しくしようとするのが間違いだ。
 本を買った。一冊買った。小説だった。誰が書いたのかは知らない。
 これはあの人間にあげようと思った。むしろそのためだけに買ったのかもしれない。

「近くにきたら、おねーさんに会いに行くね」

 そう言っていた。その時に渡せばいい。もうすでに死んでいるかもしれなけど、それだったらこの本は読まずに捨てる。
 地上の太陽がものすごい速さで沈みかけていた。地上でしか太陽は昇らず沈まない。妬ましくないこともなかった。それはあくまで、わたしが地上に上がっていけばよいという程度のものじゃないか、わたしが本当に妬ましいと思うものは先天的に生まれてもった才能とか運とか、それから


 何日か経った。橋を訪れてきたあの子供に、予定通り本を渡した。上着の裏のポケットに本を入れていた。ぎりぎり入った。
 わたしが本をあげると、子供は飛んで喜んだ。わたしが他人にもらった本を横流ししているかもしれないことを、子供は大げさに喜んだ。そして数えきれないほどの礼をされた。純粋さに触った。悪い気はしなかった。
「ところで、おねーさんは名前」
「え」
 突然切り出されたからおどろいた。
「なんていうのかなって」
「水橋」
「みずはし?」
「パルスィ」
「ぱるすい」
 おしい。
「最後だけ弱めて」
「ぱるすふぃ」
 こじれた。
「ちょっと違う、パルスィ」
「ぱるすぃ」
「そう」
「苗字なんでしたっけ」
 調子が狂う。
「水橋」
「じゃあぼくは」
「え」
「蔡です」
 さい。
「うん」
「うん、ですか」
 うん。そうだ。
「うん」
 別れ際、家教えてください、いつか手紙出します、と蔡はいった。教えた。別に知られて困ることはなかった。ほとんど家にはいないし。


 数日後、ほんとうに蔡から手紙がきた。紙の封を開ける感覚をはじめて知った。そして、紙で指を切った。すぐ治るからいい。

本、あらためてありがとうございます。読みました。これは外の世界の本ですが、本当に面白かったです。この話に出てくる人たちは、みんなほんとうに悲しい表情をしていると思いました。みんな、悪い人ではないけれど、けっして聖人と呼べる人たちでもありません。救われるべくして、救われないのです。他人との上手い付き合い方とか、自分とはどういう存在であるのかなど、いろいろ考えさせられる本でした。
水橋さんがぼくのことを心配してくれているかもしれないので、近況もかるく報告させてください。仕事はなんとかうまくやっていけています。おじさんは種族こそ鬼かもしれませんが、ほんとうに優しくしてくれます。ぼくが仕事を終えて事務所に帰ってくると、決まってお茶とお菓子がぼくのために用意されています。こんど水橋さんにも紹介したいと思います。
この手紙はぼくが直接届けにいきました。どうか、その気になっていただければお返事ください。

 かあいらしい文字で、腰の据わった文章が綴られていた。うまくやっていけてるのか。複雑だった。人間の子が旧都にすでに馴染み始めている、というのがどうも素直に受け入れられない感じがした。
 ひとまず、返事を書くことにした。ペンはあったが紙が無かったので、便箋を買ってきた。

はじめて手紙書きます。
お手紙どうも。なにやら、楽しそうで妬ましい限りです。

 それ以上は、なにを書いたかさっぱり覚えていない。


 それから何日か経って、わたしが家に帰ると、蔡から返事がきていた。

蔡です。元気です。このところ、ちょっと忙しくてお返事書けませんでした。ごめんなさい。水橋さんは体調どうですか。
それで、お詫びといってはあれなんですけど、こんど旧都で初めてのお給料が入るので、どこかおいしいものを食べに行きませんか。おじさんも連れていきます。いかがでしょうか。

 忙しかったのか。そうか。ずっと暇なわたしと違って、働いてるもんね、と考えると、それはそれで腹が立たないこともない。いやそうでもないか。
 ともかく、この誘いはちょっぴり嬉しかった。しかし旧都含め、地底のグルメ事情がわたしにはわからない。わたしの好きな店に行きましょうとか言われたらどうしようと思った。適当にごまかしておけばいいか。いやどうなんだろう。


 数日後、蔡と鬼のおじさんと旧都で一番大きい広場で落ち合った。そしてご飯を食べた。旧都にしてはずいぶんと小綺麗な店で、料理もそれなりに美味かった。今日初めて見たおじさんは精悍な顔つきで、顔の整い方がちょっと怖かった。

「今日、水橋さん家泊まってもいいですか」
 帰り道だった。蔡にそんなことを言われた。
「え、家遠いっけ」
「はい」
 送ろうか、と言おうかどうか迷った。え? なんで迷うんだ。だいいち、わたしの家には布団が一つしかない。つまり、そういうことが起きる可能性のある異性を泊めるということは絶対に避けるべきだった。
「ええと」
「俺ん家は無理やで? だって、狭いし」
 割り込むようにしておじさんが言った。変なしゃべり方、言葉遣いだ。
「うん」
 蔡がいった。
「そもそも、布団だってちゃちなのが一個だけしかないしやな。ちゅうことは、無理やんな」
 布団が一個しかないのはわたしも同じだけど、と言いたかったけどやめた。なぜやめた。いやよくわからない。
「無理なん?」
 同じようなしゃべり方で蔡がいった。口調が移った。
「無理やで」
 反復するようにおじさんが言った。おじさんは履いてた下駄を鳴らすという小技を見せた。ただそれがどういう意味合いなのかはわかりかねた。
「じゃあ、うち泊まる?」
 確かにそういった。その反動でわたしは一瞬硬直した。すぐにでも訂正したかった。
「え」
「いいんですか」
 自分から提案してきたくせに、蔡は驚いた。
「別にいいよ」
 ああもう。引くに引けなくなった。
 わたしには考えられる選択肢がふたつあった。ひとつは、今すぐにでもこの発言を訂正して、蔡を家まで送る。ふたつは、このままわたしの家まで連れていく。そして蔡を抱く。
 いずれにせよ、わたしは相応の覚悟を決めなければならなかった。わたしは
「別にいいよ」
と言いながらもその顔には苦難の表情を浮かべ、薄くともる街灯を数秒見つめてから、昼か夜かもわからない空間に向かって、弱々しく息を吐いた。



 歯を磨いて、蔡と一緒に寝た。
 五分で目が覚めた。それから、蔡が起きるまで待った。
 蔡が起きてから、わたしは蔡を家まで送った。