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学校行きしぶりについての本音と現場

小学一年生の次女が、学校に行けなくなってしまいました。

理由はひとつではないだろうし、特定するつもりもないので、学校を休ませつつ様子をみているんです。

でも、本音をいうと、学校行ってほしいんです。

なぜなら、ひとりの時間が欲しいからです。

次女が学校休みがちになってからというもの、私の“ひとり時間”がなくなりました。

ゆっくりトーストとカフェオレを楽しむ朝の時間。

ピアノの練習もしたい。

本を読んだり、パソコンしたり。

家で過ごすひとりの時間は、私にとってなくてはならないもの。

こどもたちが学校に行っている間だけが、私がひとりで過ごせるチャンスなのです。

「そんなに一人になりたいの?」

「欲しくて産んだ子なのに、無責任」

「こどもを優先すべき」

私の中の「ワタシ」が、私を責める。

妊娠がわかった時は「無事に産まれてきてくれたらそれでいい」、そう思っていたのに。

こどもが成長するにつれ、願望はふくらむばかり。

早く寝返りしてほしい
移動中グズらないでほしい
夜泣きしないでほしい

乳児期

言葉を話せるようになってほしい
読み書きができてほしい
字が上手になってほしい

幼児期

学校に行ってほしい
得意科目をつくってほしい
気の合う友達を見つけてほしい

そして今

はぁ、なんだかなぁ。


そして今日。

次女と一緒に登校し、授業中は私が廊下で待機する作戦を決行。

常にママと同じ場所にいることで、次女は学校で落ち着いて過ごすことができるようです。

ひとり時間は今日も絶望的、そんなことを思っていましたが、数時間後私の考えは大きく変わります。

一日学校で過ごしてみて、いろいろわかったことがありました。

まず、こどもにとって「教室に入る」ことは、とても勇気がいる行為だということ。

学校の中では、教室に入りたくない、入れないこどもの姿。

下駄箱でうずくまる少年、廊下で固まっている女の子。

お母さんと一緒に、廊下で授業を受けている子もいました。

教室の一歩手前で苦しむこどもたちをみて、頭にゴチンとゲンコツをくらったかのような気持ちになりました。

この子たちの苦しみに比べたら、私のひとり時間がもてない事へのストレスなんて、大した事じゃない。

学校へ行くべきなのはわかっている、でも無理なんだ。

どうして?それはとても一言で表現できることではないし、もしかしたら文章として表すことも難しいのかも。

下駄箱や廊下前は、彼らにとってギリギリの妥協案。

みんな、偉いよ。

ママと一緒に学校に行けた次女も、偉かった。

ひとり時間は、見つければいい。

そもそも今こうやってnoteを書いているんだから、一人時間がゼロということではないはず。

ひとり時間が取れないと嘆くのは、ほどほどにしよう。

そんなことを思った、週の真ん中、水曜日です。

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