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文化人類学生が、デザインリサーチやってみる~#0 どうしてやろうと思ったの?~

向こう4ヶ月ほど、僕たち文化人類学を学ぶ学部生が、デザインリサーチをやってみた所感を、note記事としてコンテンツ化することにしました。
今回は、その初回盤として、なんでやろうと思ったのか、思いの丈を綴りました。少し長いですが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。



1. はじめに

ここ何年か、文化人類学が流行っているらしい。特に、HR領域とデザイン領域で注目されているとか。
文化人類学を専攻していると、

「文系の院進は就活からの逃げだから、印象良くない」
「理系に比べて全く予算がつかない意味のない研究だ」
「社会に出たら必要のないことばかりだ」

などと言われて、肩身の狭い思いをする。
だから形はどうであれ、僕は文化人類学に興味関心を抱いてくれる人が少しでも増えるいることが素直に嬉しい。
齢22の僕からすると、生まれてこのかたずーっとデータドリブンの時代だったから、どっしりと腰を下ろした定性調査が、現代社会で注目されるなんて思わなかった。

でも正直、よくわからないことだらけ。
僕が学んできた文化人類学と、巷で騒がれているそれは何かが違うような気がする。このモヤモヤはいったい何だろう?
もっと言えば、文化人類学という言葉が一人歩きして、生活に応用する方法としては実は誰もきちんとわかってない、なんてことがザラにありそうな気がしている。それはおかしな話だ。

2. 耳の痛い話 

僕の抱いている違和感を、頑張って言語化すると次のようになる。

デザインにそぐわない文化人類学

文化人類学では、しばしば「フィールドに骨を埋めるつもりで調査しろ!」と言われる。民族誌(エスノグラフィー)を記述するのは、本当に大変なこと。見ず知らずの人々に生活レベルでお世話になり、暮らしや活動全体に参与させてもらう。情報提供者(インフォーマント)と文化人類学者が一緒になって研究するから、人類学者自身が調査過程の中で体も心もモノの見方もどんどん変容する。インフォーマントがどのように世界を捉えているのか、その肩越しに世界を見る(同じ目線で物事を捉える)ことは、一朝一夕では成し遂げられない。そればかりか、一部の例外を除いて、積極的にインフォーマントに関与する、活動家のような振る舞いは御法度とされる。あくまで、そのフィールドのありのままを記述することが大切だ

だから、正直なところ”デザイン”とは相性が悪いと思ってしまう。
デザインにもいろいろ定義はあるが、有名どころだと、サイモンの次のようなものだ。

現在の状況をより好ましいものに変えるべく行為の道筋を考案する

ハーバード・サイモン

これを例にとって考えてみる。
そもそも文化人類学的な見方だと、”好ましい”という尺度が危ないように見える。”好ましい”とはいったい誰にとっての目線を、誰が理解したときのものなのかな?。
最も反発されそうなのは、”変える”という文言。デザインは、”変えることを前提”にしている節がある。そうすると、現状は何かしらの尺度によって好ましくないとみなされ、意図的に介入されることになる。これがいけいない。いったいどうして、変えるのか。お金のため?幸せのため?みんなのため?その〇〇のため、の〇〇っていったいどんな概念なんですか?とちょっと首を傾げてみたくなる。
トドメついでに言うと、クライアントがいて、お金をもらっている人には、決められた役回りがある。なにがなんでも実績を出さないといけない。だから、必死にデザインのきっかけを探すだろう。でも、「何かを変える者としての立場を変えられない人」に、本当に肩越しの世界が見えるようになるのだろうか?
※実はこのやり過ぎなくらい謙虚で前提を疑いまくる態度には、、植民地の開拓に利用された暗い歴史や、文化を書くことそのものへの批判によって基盤がボロボロになった歴史への反省があったりするが、今回は深入りしない。

方向性の違い

実は、文化人類学は”反省の学問”と言われるくらい、社会と文化人類学自身のあり方を、時系列の後ろから捉えてきた。自然科学的なものの見方や、人間中心主義的な振る舞いを批判的に捉える文化人類学の姿勢は、時代に逆行した反省的な態度だと言える。さらに、研究手法や理論、学問的態度に至るまで、”本当にそれでいいのか?”といつも思案している。本当に、反省が尽きない学問だと思う。
一方で、デザインは時系列の前から事象を捉えようとする。後々に”好ましく”あるために、将来を起点として今の事象を捉えるからだ。リスクの排除や利便性の追求といった、将来への”狙い”がそこにある。”狙い”は、資本主義の構造の中で”そうならないと困る必要条件”として、個人の範囲にとどまらず、組織や国家のレベルにまで膨れ上がる。そこには、不確実性をいかに排除・回避し、どうやって達成されるのか、中長期的なガイドラインが引かれている。

3. 文化人類学を応用する

デザインと文化人類学はなんとなく相性が良さそう。でも、前述したとおり、その関係性を精査するとなんだか相性が良くない気がする。
すでに雲行きが怪しいが、ひとまず、ここでデザインと人類学の良し悪しを問うのはよそう。
先に挙げた方向性の違いは、二項対立ではなくグラデーションだ。現実は割り切った関係性の上に成り立つのではなく、むしろグラデーションの海を泳ぎまわっている。どこかに、両者のいい塩梅があるはずだ。
もしかすると、言語化されている社会からの期待は、お互いの不十分な理解に起因しており、潜在的なニーズ・効果はまだまだ埋没しているのかもしれない。そこで、「いったい人類学のどんなところがビジネス応用に期待されているんだろう?」という疑問も大事だけど、もっとハングリーになって「人類学的知見はどうやったら社会利用できるんだろう?」という問いに基づき、社会と学問が歩み寄るような形で、一緒に共通項を見出していきたい。

なぜ応用を試みるのか?

先に述べたとおり、文化人類学の学問的態度は、必ずしもビジネスへの応用を全肯定するものではない。むしろ、ビジネスの根幹を批判することだったある。
しかし、僕が応用を試み、思案するのは、ひとえに開かれたアカデミアの実践者でありたいからだ。
確かに理系研究や法学、経済学などは既に社会基盤そのものである。開かれたアカデミア自体は、新しいものでもなんでもない。

一方で、僕の言わんとするアカデミアの実践者とは、決してこうした学問への憧れを端に発するわけではない。
未解決問題として有名な定理の生みの親のフェルマーは、裁判官でありながら数学を極めた。中村哲は、アフガニスタンでの水路建設にあたり現地の人が維持できるインフラになるように、既存の水路の知見を学び、活かした。
このように、アカデミアは常に生活の中から生まれ、生活に帰っていくものだと僕は思う。文化人類学は、まさしく生活から抽出された知見の権化のような学問だ。でもなぜか、抽出されたものはアカデミアの中でのみ共有されて、社会の中で宙吊りにされたままなのだ。

一番大事なこと~なぜ学生がやるのか?~

声が大きい人の言うことが正しくなる。
正しいことでないと発言してはいけない。間違ってはいけない。
知見は独占するもの。当たり前。
強くあれ。負けるな。弱さを見せるな。

全部、大嫌いな考え方だ。特に、0→1の分野において、上記の方針は決していい方向に事を進めない。僕たちは、これからの学習を阻害する姿勢を全て捨ててしまおうと思う。だから、無責任だと怒られるかもしれないし、自分の素性を明かして議論するのは怖いけど、積極的に今回の学びを発信していくつもりだ。

でも僕たちは所詮、学生。長期インターンの経験はあっても、実際に働いたことがないし、リサーチ対象の企業の内部事情まではわからない。(そもそも、勝手にリサーチするのは倫理規定に違反しかねない。)
学生だけで、デザインリサーチで本当に重要な「リサーチ結果を思索に落とし込む」ということまで考慮に入れて学習を進めることは、土台、無理な話である。

そこで、この大きな学習の壁を乗り越えるために、あらゆる大人の方にツッコミを入れていただきたい。僕らはお世話になっている恩師の教えに倣って、「全ての意見はいい意見」だと思い、真摯に受け止めたい。

少しだけ、個人的な思いを綴ろう。
文化人類学に出会えて、明らかに人生が変わった者としては、それがただの流行として消費されることは耐えかねる。どうせよくわかっていない人たちに雑に理解されて、その真価を発現させることのないまま「やっぱり違った」と言われてしまうこともあるだろう。それだけは避けたい。そのためには、流行に迎合せず、なるべく丁寧に解釈しながら情報発信を続ける必要がある。
しかし、一介の学部生にこの流行を先導する知識も責任能力もない。メディアでご活躍される大家の方々と裏腹に、おそらく、今回の流行を快く思っていない先生もたくさんいるはず。その上で学部生の分際であーだこーだ発信するのは、もはや文化人類学全体を愚弄する行為になりかねない。

一方で初学者の気持ちに近しいのは僕たち学部生だと思う。だから、僕たちが学びを深める過程を共有することは、多くの人にとって意義あることになると信じている。
また、失うものが無い僕たちは、常に建設的な批判に晒されることによって、訂正されながら紆余曲折を経て議論を構築する基盤となり得る。「学部生が考えていること」という曖昧で正確性の乏しい情報材として発信することは、不確実性の高さを逆手にとって、読者各々のリテラシーを高め、訂正と議論を活発化し、みんなで作り上げる試行錯誤の現場になるだろう。

より開かれたアカデミアと実践が混ざり合う場になれば、これほど嬉しいことはない。

(補足)デザイン人類学について

一部界隈で盛り上がりを見せるデザイン人類学は、日本だと多摩美術大学や大阪大学に研究室が有名だ。だけど、正直、デザイン人類学とデザインリサーチは別物の印象を受ける。「どこが?」と言われると、まだよくわからない。なんとなく、違う気がする。これからの学習の中で明確にでしていきたい。

4. (図々しいけど)協力いただきたいこと

活動に先立ち、いくつか困っていることがあります。
必要なものをまとめましたので、ご一読いただけますと幸いです。

① 皆様によるツッコミと拡散

もし、今後の記事が意義深いものだと思っていただけたら、ぜひ積極的にレビューや拡散をいただけますと幸いです。同じボートに乗ってくれる人が多ければ多いほど、この船は力強く進みます。目的地もスタート地点もありません。正解もありません。多少の仲間割れや小競り合いは大感慨です。みんなで悩める、議論できるように、ぜひご意見・ご感想をお寄せください。
※noteのコメント機能は課金しないといけないので、Xでの投稿にコメントを書き込んでいただけると嬉しいです。

② 実践環境

私たちは、学習したことをコンテンツとして取りまとめ、発信する都合上、実際にデザインリサーチを行うとなると、対象となるサービスや個人からの承諾が必要になります。
そこで、リサーチの実践にご協力いただける方を募集します。具体的には、上記を踏まえ、フィールドワークを行うことをご許可いただける物質的環境やサービスをご提供いただきたいです。

※お願いしている手前、大変失礼だとわかった上で申し上げますが、協力を申し出ていただいても対応はできかねる場合があります。今回は、完全に私たち学生起案で、バックに大人は誰もいません。学生である手前、責任能力に欠ける上に、社会経験が乏しいことから、認識のズレや不慮の事故を防ぐために、慎重にならざるを得ないことを、ご理解いただけますと幸いです。

③ 記事のサポートについて

noteには、記事のサポートして、投げ銭できる機能があります。
もし、記事から得られた知見が有意義だったと思っていただいたら、有志で投げ銭いただけると自信になります。コメントしたくないけど感謝は伝えたい方、コメントだけでは物足りない方、もっと頑張れ!と学生を応援したい方、などなどお気持ちをいただけると幸いです。

5. (仮)今後の予定

3月:先行文献を読破
長期休暇で、メンバー各々はフィールドワークに行くのでお休み。とはいいつつ、この期間にいろいろ読んでくる。
課題図書:ANTHRO VISION、アクターネットワーク理論入門、多元世界に向けたデザイン、デザインリサーチの教科書、はじめてのUXリサーチ、UXデザインの教科書 etc. (もちろん、これまで学習した知見も総動員します)

4月:認識の擦り合わせ
読んできた文献のと突合とレビュー(レビュー記事と、読み合わせの議事録を公開予定)

5月:いよいよ実践
(実践環境の候補が見つかれば)フィールドワーク(公開できる範囲で記事やレビューを公開予定)

6月:まとめ
結局、文化人類学からはどのような実践が可能なのか、メンバー各々の意見をまとめて結論とする。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

2024.2.
文責 大屋太亮

6. メンバー紹介

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