ムーンライト伝説

 二五歳になると、友人と会えば決まって仕事の話が出るようになった。たいていは愚痴か自慢話で、酔いが回ってくると夢語りをするものも多い。何の分野であれ、若手というのは舐められたりこき使われたりして自尊心が消耗しているものなので、ホームに帰ってくると何かと一席ぶってみたくなるのである。無論聞いている側も話している側もそれぐらいは理解しながらふんふん相槌を打っている。馴れ合いだとか傷の舐め合いだとか言えばそうなのかもしれないけど、やってる側からするとこれはこれで愉しいものである。それにサリンジャーなんかを読んでいると、昔から若者というものは自己評価と外部評価の差に苦しむ生き物であったことがよくわかる。いつの時代も若者はリスペクトに飢えていたのである。
 私に関して言えば仕事の話はほとんどしない。特別に奥ゆかしいからでもないし、齢二五にして悟りを開いたからでもない(釈迦ですら三五歳である)。単に定職を持っていないからである。
 ほとんどの同期はすでに社会人三年目であるが、私は未だに大学の文学部に身を置いている。なぜ七年も大学の学部にいるかと言えば単位が揃わないからであり、なぜ単位が揃わないかと言えばほとんど授業に出なかったからである。そうしてたまに講義に出ても話は聞かずに本ばかり読んでいた。米文科のゼミで生徒が二人しかいない時も 、”The Oxford Book Of American Short Stories” を開いた上に「ピクウィック・クラブ」を重ねて読んでいた。それで怒られたことは一度もない。東洋史の授業なんかでは「失われた時を求めて」を読んでいるのが見つかると、講師が授業を放り出して「プルーストとイカ」について語りだした。よい大学である。
 そういう大らかな精神がまだ残っているおかげか、文学部には留年生も比較的多い。その中でも私が所属する米文科の研究室は特に留年生が多い。極めて多いと言ってもいいかとも思う。何しろ私の記憶によればこの五年間でストレートに卒業したものは一人しかいない。モラトリアムの理由は様々である。学部を転々としているもの、孤独な学究生活に疲弊し心の風邪をひいたもの、あるいはたんにだらけていたもの。私もその一員であったが、今年はモラトリアムから抜け出すのは確実である。というのも文学部の在籍期限は七年なので今年は卒業できずとも退学になってしまうからである。
 偶然の一致ではあるが、今年は米文科のある名物教授も大学を卒業する(教授だから正確には退官である)。私を含め米文科の大半の学部生はこの先生にだいぶ迷惑をかけてきた。何しろ米文科にもかかわらずほとんどの人間が英語がちゃんと読めないのである。そのうえみな米文学自体そこまで好きなわけではない。じゃあ何で米文科に来たんだと問えば、「何ででしょうね」と答える人のいる暖かさである。
 けれども先生は基本的に我々ぼんくら学生を叱らない。しかし言いたいことが山ほどあるのはいくらぼんくら学生でも顔を見ればわかる。私は一度飲み会の席で先生はどうして学生を決して叱らないのか聞いたことがある。すると先生は
「だってモノにならない人にいくらエネルギーを注いだって無駄なんだもの」ときっぱりおっしゃった。蓋し正論である。半ば予想していた答えでもある。しかし先生はこうも続けられた。「それにね厳しくすると、教師というのはすぐにカリスマになっちゃうんだよ」
「いいじゃないですか、カリスマ教授。なりましょうよ」
「厳しくしてもいいけど、そしたら君は卒業できないよ」
「そいつは困っちまいますね」
「それにカリスマになると、みんながその人の真似をし始めちゃうんです。あれほど馬鹿らしいもんはない」
 先生の学生時代には恐ろしく厳しいが面倒見もいいカリスマ教授がいて、心酔する学生たちは先生の薦める本を読み、先生の吸っているタバコを吸い、先生の着ているブランドを着て、だんだん喋り方や振る舞い方まで先生を真似するようになったんだという。
「真似すること自体は悪いことではありませんが、教師というのはある程度で力を抑えないと、下が育たなくなるんだよ」
 そのとき私ははたと気づかされた。先生が飲み会で文学の話が出ると決まって学生間ゴシップに話題を切り替えられるのも、ぽっこりお腹があらわになるTシャツを好んで着ておられるのも、カラオケでセーラームーンを一オクターヴ下で熱唱されるのも、全ては自らリスペクトを退けるためだったのである。若者たちがあれほど身につけたがっているものをこの人は自分から引き剥がそうとしていたのである。自分が六五になったとき、果たしてこの境地までたどり着くことができているだろうか?
 
 その夜も先生はカラオケでセーラームーンを熱唱した。私は今までとはまるで違う気持ちでこの歌を聞いた。夜道は月が綺麗だった。しかし月に代わってお仕置きをしてくれるものは私の周りにはもう誰もいないのだ。


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