畠山丑雄

畠山丑雄

最近の記事

広大な街

ドゥルニツァルがまた繭になった。もう何度目だかわからない。無論父は辟易している。母は父に同調しているように見えるが、ほのかな期待は隠しようもない。それがまた折々父をいらつかせる。しかし喧嘩が始まったところでドゥルニツァルには聞こえていないだろう。ドゥルニツァルは二階へとあがる階段の裏側につくった繭の中で、もうさなぎになっているに違いない。その証拠に前までなら話しかけさえすれば不明瞭な返事が返ってきたが、今ではすっかり沈黙している。繭に耳を近づけると鼓動は聞こえるから死んでいる

    • 私の魂の還る場所

       大江の小説を読んでいると、ときどき魂の再生の話になる。大江が生まれ育った森のなかの谷間では、死ぬと魂がからだから離れ、グルグル旋回して森の高い所に昇り、木の根方で、また生まれるのを待っているという。  魂の還る場所について、そういったものを信じる信じないはさておき、そういったものを一旦定めてしまえば後がつけやすくはなるだろう、とはしばしば考える。  自分について言えば、それはまず出身の吹田ではないだろう。これはヴィジュアル的な問題である。吹田の生まれ育った街はニュータウンで

      • 修行のたまもの

        「それはちょっとしたコツがある」友久くんは言う。「君も行ってみて分かったと思うけどミシュランで星のついてるような店は難しい。基本的に静かで、客も料理に集中しがちだ。店の隅々まで意識がいきわたってることも多い。そういう店に私たちの居場所はない」  最後のバッターがセカンドゴロに倒れ、スコアボードにまた0がついた。球場が落胆のどよめきに満ち、応援団の鳴り物が高らかに響く。隣の老人がその隣のスーツ姿の若い男の二人組の方を見ながら何かをつぶやいているが、まるで相手にされていない。 「

        • ムーンライト伝説

           二五歳になると、友人と会えば決まって仕事の話が出るようになった。たいていは愚痴か自慢話で、酔いが回ってくると夢語りをするものも多い。何の分野であれ、若手というのは舐められたりこき使われたりして自尊心が消耗しているものなので、ホームに帰ってくると何かと一席ぶってみたくなるのである。無論聞いている側も話している側もそれぐらいは理解しながらふんふん相槌を打っている。馴れ合いだとか傷の舐め合いだとか言えばそうなのかもしれないけど、やってる側からするとこれはこれで愉しいものである。そ

          ローベルト・ヴァルザーのある詩について

           本はいつ読んだっていいものだが、やはり季節というものはある。ヴァルザーは秋である。空が高くなってくると、ヴァルザーが読みたくなる。本人が散歩の人だったことも関係あるのかもしれない。ヴァルザーは生涯歩き続けた。ベルリンからスイスに帰るときには、歩いて国境を越えもした。しかしヴァルザーは秋ばかり散歩していたわけではないだろう。ヴァルザーは窓辺の人でもあった。彼のよき理解者のひとりであるカフカと同じように。窓辺の人はあこがれる人である。気ままな人でもある。  ぼくは忘れられた遠

          ローベルト・ヴァルザーのある詩について