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第10回 しあわせになりなさい

おごと温泉駅のホームに立つと遠くに琵琶湖が見える。

うだるような気温だけど、高台にあるため風が吹き抜けて気持ちがいい。改札を出ると誰でも入れる足湯があった。気温よりも高い水温に足をつければ、逆に足以外は涼しさを感じたりしないだろうか?

そんなバカなことを考えながら入ってみたら、汗がどんどん出てくる。早々に切り上げたが、ハンカチしか持っていないことにも気づいた。真夏に足湯なんか入るんじゃなかった。少し湿った足のままタクシーに乗り込み、成安造形大学へ向かってくださいとお願いする。これからこの大学で講義をする。

どんな話をしようか新横浜から京都までの新幹線の中で慌てて考えて、足湯でぼーっとそれをまとめて、タクシーで少し練習した。

ぼくは写真家なので、写真論や表現の話をすることもできるし、作家がなかなかしたがらないお金の話も、SNSのうまい使いかたみたいなことだって話せる。とにかくこれからを生きる大学生に少しでも役に立つ話がしたい。

少し悩んで“死ぬこと”の話をすることにした。

この話題はなかなかタブーとされがちなのだけど、死ぬことの話って実は薄い皮を1枚めくると、幸福論だったりする。死ぬこととは何かと考えたとき、生きることは何かにたどり着く。何をやって生きるのか?ということを考え出すと、しあわせとはなんだろう、というところに最終的に行き着くのだ。

これまで多くの人が死の話をタブーとして語ることを避けてきた結果、幸福論や生きることの話までおろそかになってしまったのではないだろうか。怪しい宗教団体みたいなものが、やたらとしあわせを連呼したりするけど、あれはあれで理にかなってしまっている。

怪しい教祖さまみたいにならないよう注意しながら授業を始めると、みんな真剣に話を聞いてくれる。ぼくの話をノートにとったり、タブレットでメモしたりと、まるで先生にでもなったような気分だ。

「人の目を気にせずに、好きなことをしましょう」というのが幡野教の教義なので、馬鹿の1つ覚えのように何度も繰り返した。それぞれのしあわせを享受できるようになりましょう、と何度も伝えた。

学生さんからも質問がたくさん来た。時間がなくてすべてには答えられなかったけど、いい授業だったと思う。講義後に1人の女子学生が話しかけてきた。
少し緊張した表情だったので、きっと勇気を出して話しかけてくれたのだろう。

21 歳の彼女は、小学校に上がる前に父親をガンで亡くしたそうだ。
彼女の父親は、今のぼくと同じ 36 歳でこの世を去った。きっと彼女は、ぼくと父親を重ねたのだろう。

亡くなる前は、あまり父親と会話ができなかったそうだ。少し目を潤わせながら教えてくれた。それで、なおさらぼくの言葉を父親の言葉として捉えたのかもしれない。

彼女のお父さんは、弱っていく自分の姿を小さな娘に見せたくなかったのではないだろうか。もちろん子どもには会いたい。小さな子どもがいる父親が病気になって自分の死を意識すれば、子どものしあわせを願うだろう。彼女の父親も同じだったはずだ。

彼女はぼくに父親を重ねたのかもしれないけど、ぼくには彼女の言葉が成長した息子の言葉のように聞こえた。目に少し浮かべた彼女の涙を、息子の涙と重ねてしまった。

きっと父親がいないことで、彼女は何度もさみしい思いをしただろう。きっとぼくがいないことで、息子もさみしい思いをするのだろう。

彼女の母親は、「好きなことをしなさい」といつも声をかけてくれるそうだ。幡野さんとおなじことを言ってます、そう笑顔で教えてくれた。彼女の笑顔に救われるような思いで、ぼくも笑顔になった。ほんの数分の会話だったけど、彼女にはしあわせになってほしい。

訪問介護と看護の 10 月号で連載しているコラムです。表紙の写真は

来月のぶんもすでに書き終えたので、12 月分の 1 本を書いたら訪問介護と看護の連載も終わりです。連載途中で死ななくてよかったなとおもってます。そして今月の特集が住宅のなんとかケアのなんとかの漢字が読めません。医療用語って漢字がむずかしいんだよね。

連載も終わって月一ぐらいだったら原稿をかけるとおもうので、webでも雑誌でも、ぜひという方はご連絡を。

この日の授業の様子はこちらでも紹介されています。




サポートされた資金で新しい経験をして、それをまたみなさまに共有したいと考えています。