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佐藤剛さんのこと

昨年6月20日に71歳で亡くなった音楽プロデューサーで、随筆家でもある佐藤剛さん。剛さんと仕事した人たちが集まって、追悼の冊子を作って、その1部を、中心になって作っていた友人からもらった。ありがとう。

ペラペラとめくって見ていて、そうか、この方、こんなすごい人だったんだ、と今更知る。なんて私は馬鹿なんだろう。生前の記事のプロフィール欄。

そうか、すごいなぁ。。。。

剛さんとは2013年頃にツイッターで連絡をもらって、一度事務所まで会いに行ったことがある。事務所はどこにあったんだっけかなぁ。たしか世田谷区のどこかで、当時私は杉並区のめたくそ不便なところに住んでいて、自分のアパートから最寄り駅まで遠く、そこから電車に乗り、その駅からまたけっこう剛さんの事務所が遠くて、えっちらおっちら歩いたような記憶がある。

それで、事務所に着くと、剛さんは、私が当時作った、私の師匠の湯川れい子さんの評伝本がものすごく面白かった、あれがよかったよかったとさかんに誉めてくれた。あれはこうでああで、何を言われたかあんまり覚えてないんだけど、とにかく、やたらと誉める。でも、その日はそれだけ。えっ?それだけ、と思った。わざわざ私、電車代かけて来たのに、それだけ?って。何せ金がなかった。サイアクに。だから電車代を払うと、その日はもうご飯は買えない。家にある米を炊いて卵でもかけて丼でガシガシ食べるような、そんな生活をしていた。食パン一斤をマーガリン塗りたくって食べるとか。だから、誉めるだけのために呼んだの?と私はえらくご不満だった。

私は剛さんを、何か音楽の仕事してる事務所の社長さんとしか認識しておらず、その人が私を呼んだのだから、仕事くれると思ったのに、なんだよ~と口をとがらせていた。

それからしばらくして、剛さんが「新しい音楽のウエブサイトを作るから、和田さんも何か書かないか?」と誘ってくれた。今度こそ仕事だ。それはありがたい!と勇んでミーティングの場に行ったんだが、その場にいたのは男性ばかりで、みなすごく音楽に詳しくて、ワイワイと音楽うんちくを語っていた。私はそういううんちくが苦手で、第一もうその頃、私は音楽への関心をかなり失っていて(なら、来るなよ!)、はぁ~~とわざと聞こえるようにため息をつくと、携帯で友達にメールを送りまくった。今思い出すと、自分が情けない。音楽の仕事をしていたくせに、仕事がほしいくせに、知識が足りず、話についていけないと、そっぽを向いてあからさまに態度に表す。アホやなぁ、私って。でも、剛さんは「和田さんもやりたいことがあったら、言ってくださいね」とニコニコしていた。剛さんは、そういう人だった。

そんなこんなで剛さんとは仕事はすることなく、それでも、なんだかんだでつながりがあった。特にあったのは、小泉今日子さんと浜田真理子さんが2008年から始めた舞台「マイ・ラスト・ソング」。亡くなった演出家の久世光彦さんの人生最後に聞きたい歌について書いたエッセイ「マイ・ラスト・ソング」のエッセイを今日子さんが朗読し、真理子さんが歌う。演出は剛さんだった。その舞台を私は真理子さんとは仲良しだったから何度も見に行って、剛さんに挨拶したり、そして今日子さんをまぶしく見ていたりしていた。真理子さんに話を聞いて紹介記事なんかも書いた。

そうそう、剛さんが中心になって始めた、世田谷区の音楽を育てようとするプロジェクトの「せたがや音楽プロジェクト」も見に行ったりした。剛さんが招待状をくれたんだろう。思えば、その司会は津田さんだった。それが2015年。この頃私はバイトに明け暮れていた。

それからしばらくして2021年、私が「時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか? 国会議員に聞いてみた。」という本を出したら、剛さんがまためちゃくちゃに誉めてくれた。あれは真理子さんのコンサート会場だ。たまたま会ったら、剛さんが興奮した様子で誉めてくれるのに、私は「はぁ、そうですかぁ、どうも~」みたいにまたろくでもない態度しか取らなかったのを覚えている。

剛さんはさぁ、いつもまっすぐで、熱くて、めちゃくちゃ誉めてくれるんだよね。でも、その頃はまた「なんで私こんなに誉められてんだろ?」のインポスター症候群真っ最中だったから、そんな感じの態度を取ってしまったんだ。ごめんなさい、ほんとうに。私の器がちいさすぎて、受け入れることが難しかった。剛さんはプロデューサーだから、私がそんな態度をしようとどうしようと、いや、逆にそんな態度とればとるほど、とにかく誉め続けてくれるんだよね、まっすぐに、躊躇なく、しっかりと、あきらめず、着々と、誉める。着々と誉めるっておかしいけど、そんな感じ。絶対に何があっても誉め続けてくれていた。

おそらく、それが私の、最後に会った剛さんだ。そして2023年6月、真理子さんと今日子さんがまた「マイ・ラスト・ソング」の舞台を、今度は日本各地を廻るツアーとしてやる!と決まり、そのための撮影あれこれを上野にあるプロマイドのマルベル堂ですることになり、じゃ、私も撮ってもらいたい~とか自分のプロフィール写真も撮ってもらうことになり(図々しい。。。)、じゃ、いっそ、この顛末を記事にしちゃおう!マイ・ラスト・ソングについて書こう!と計画して、「週刊朝日」に書かせてもらうことになった。

そのときすでに剛さんがガンで入院していたことは知っていて、そんな話もみんなでしながら撮影会をやって、私はそれを記事にまとめた。そして記事が出て、コンサートもあって、そのころに剛さんは亡くなった。

亡くなってからしばらくして、「マイ・ラスト・ソング」の舞台にも出ていたサックスプレイヤーのマリノちゃんのグループ、MIUNI(奄美の音楽です)のライブを見に行ったら、そこに娯楽音楽研究家の佐藤利明さんも見に来ていた。

佐藤利明さんとは、2023年春に「マイ・ラスト・ソング」のCDのレコーディングに遊びに行ったときにお会いしていた。剛さんに代わって、佐藤利明さんがプロデュースを務めていたんだ。ああ、そんときに、私は中野のお弁当屋の「おにぎり弁当」280円を、真理子さんと今日子さんに渡したりしてたよなw アハっ。

で、久しぶりにコンサート会場で会った佐藤利明さんが開口一番に言う。「和田さんが週刊朝日に書いたマイ・ラスト・ソングの記事ね、最後に剛さん、読めたんだよ。読みたい!というから本屋で探して買って、渡して、間に合ったんだよ。最後に読んだんだよ」って。

えっ。。。「もう、その後はだんだん眠ってるだけになってしまってねぇ」って。ええええ。

びっくりした。ずううっとずううううっと態度の悪い、クソひねくれた私の書いた「マイ・ラスト・ソング」の記事を最後に読んでくれていたのか、剛さん! なんとなんとなんと、それはとてつもない応援で、励みになることだ。私はそこで初めて、やっと、剛さんにまっすぐお礼を言えた。本当にありがとうございます、って。

剛さんの人生をまとめた冊子をめくりながら、私、すごい人に応援してもらってたんだなぁと、改めて思う。ヒーロー、ヒーローになるときアッハ~、それは今~♪の甲斐さんも、剛さんが育てたのかぁ。。。思えば甲斐さんとも以前に何度か仕事をしたことがあり、私と剛さんは、なんだかんだで縁のある関係だったと気づく。佐藤剛さんというすごい音楽プロデューサーがいたことを、みなさん、覚えていてください。いや、誰より、私が覚えてなきゃね。

剛さんはとにかくこうやって(私にしてくれたように)多くのアーティストや、いろんな人を、仕事だろうが、仕事じゃなかろうが、励まし、応援して育ててきたんだろう。それがわかる。今になって。剛さんの仕事のあれこれすばらしさを冊子を読みながらふむふむして、ここに書かれてない功績をも思った。

それにしてもこの冊子、素晴らしいからオンラインで販売とかすればいいのに。もったいない。葬儀で配るだけったらしいけど。友達に言おう。これは売った方がいいよ~って。





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