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なぜ喜多郁代はこんなにも可愛いのか

僕は喜多郁代が好きだ。これを読んでいる読者の中にもたくさん同志がいるはずだ。今までたくさんのアニメを観てきてその度に「推しキャラ」(死語を使うなら、「俺の嫁」)が増えていったが、喜多郁代はこの中でも群を抜いている。なぜ喜多郁代がこんなにも可愛く、魅力的なのか考えていきたい。

そもそもぼっち・ざ・ろっく!のキャラはみんな魅力的

そう、まずぼっち・ざ・ろっく!のキャラはみんな魅力的である。これはおそらく作者はまじあき先生の感性によるものであると思われるが、漫画のキャラなのにもかかわらず、キャラ一人一人がきれいに取り繕われていないからであろう。普通ならば、こういうキャラ付けをしたら気持ち悪いよな、変だよなとか考えるはずである。だがそれが一切ないからである。もちろんそれはギャグ的に誇張されている部分もあるとは思うが、一方で異常な部分があることで、読者に親近感を沸かせるし、人間味を感じさせるというわけである。

それでも喜多郁代は特別

そんな魅力的なキャラが多いぼざろのキャラたちであるが、それでも喜多郁代は特別だと思う。その要因は、不器用さが絶妙なところにあると思う。
例えば同作品でも後藤ひとりや山田リョウも自分の考えをあまり伝えない不器用さがあるが、後藤ひとりは陰キャだから不器用が当たり前、逆に山田リョウはクズさというマイナス要素が大きすぎて不器用さに可愛らしさがない。
一方で喜多郁代は圧倒的陽キャなのにもかかわらず、不器用であるという特大なギャップを抱えているところに愛おしさを感じる。
ギターができなくて逃げ出す、勝手に文化祭の応募用紙を出す、山田家の別荘で騒ぐ、水虫などなど、これが不器用でないならなんというのだ。
これが人間の振る舞いとして普通なことで、ぱっと見完璧な人だと思っても、全てが完璧な人なんていないわけである。

ぼ喜多という関係性の中で

創作物において、一見冴えない人に惚れるカースト上位の図はかなり一般的であり、ぼ喜多もそれに含まれる。
ぼ喜多がこれほどまでに人気なのは、喜多郁代は後藤ひとりのカリスマ性を横で目の当たりにしたことで、自分が追いつけないことを悟り、それでも追いつこうと努力するところにある。
喜多郁代は気丈に振る舞いつつも、自分が秀でている才能がないと自覚し悲しんだはずである。それでも後藤ひとりを支えることに専念するわけである。これに対し後藤ひとりも呼応するわけであり、相乗効果を産んでいる。
なんと美しい友情であるか。

おわりに

みんなそれぞれに好きなキャラがいて然るべきであり、それは尊重されるべきである。
だがそれでも言う、喜多郁代は特別だと。
郁代、誕生日おめでとう。

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