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図書館に行きたい

そう思って、図書館に行ったら、休館日
というのはまあよくあることだ。口惜しい。

最近、noteも含め、素人も玄人もその道のプロの言葉も戯言も
ごったかえした文章を色々ネットでみているにつれて。
なんだか、改めて「製本された、研鑽された、研究された」、
過去のあるものにちゃんと基づいた、ちゃんと分類された文章を読みたい、そう思った。


読む文章と運命的に出会うのは楽しい。

ネット上で文章に出会うは、その記事が作られたタイミングとか検索の運とかかなり大きく、だからこそ面白い。
書かれた内容以外にも、著者の生活や、関連するイベントなどがタイムリーに知れる。一つの文章から鮮やかに広がっていける感覚がある。

けれど、ただ今は

その運とか検索力からではない(多少はあるけれど)
本の専門の場所で、本を分類してくれているそこで、
推敲された本の中身とだけ、出会いたいと思った。

文章とだけ、出会いたい。


ネット上の文章はその言葉が、
それがその人の言葉なのか、それはその人の持つ属性(職業とか)による思いなのか、コピペなのか、研究に基づいてのものか、直感的なものか
読み切らないと見えにくい。

正直、いくらでも、ぼかしたりごまかしたり、都合がよくできる。
真実ではないものを真実にするのも容易い。

その自由さは素敵だけれど。
動いている生の人の声が知れる、そういう文章は好きだけど。


けれど、
『これを本としてまとめ残す必要があると、まとめられ推敲され編さんされた文章』そういうものから知識を得たい欲がムズムズと湧いてきた。

図書館や本屋。
製本された本の並ぶあの空間はそれだけで貴重だ。
背表紙、タイトル、表紙絵、著者の発刊数で、なんとなくわかるものがある。
ページをめくって「あとがき」「引用」で背景を知れる。

今はそういうものと出会いたい気分だ。



果ノ子

(エッセイ?に属する文章を書いていて言ってしまうけど、きっとエッセイを見飽きたのだろうと思う。人がいろいろ思っているんだなっていうのは、よし!わかった、という気分なのかな。)
(文化人類学とか、動物としての人類の傾向とか、そういう部門を開拓したい気分。)

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