【耳をすます3】無駄であることのうつくしさ

心地いい生活には「持続可能」であることが必要条件になっていることは先述の通り。その上で十分条件「粋」もしくは「無駄」であることについて。言い換えれば「嗜好」や「感性」なんてところだろうか。価値観の琴線に触れた、共感し難いもの。この辺りのことは以前の記事「くろうとの金、しろうとの金」を参考にしてもらえると、すんなりわかってもらえるような気がする。最近では、本来ビジネスにおいてのみ使われるべき、'生産性'や'効率''合理性''有益性''ノウハウ'といった言葉を文化的な日常生活の場においても、取り入れているひとがあまりにも多すぎる(ビジネスにおいてもできる限り使いたくない言葉です)。そんなひとたちから真っ先に排除されるであろう「無駄」をわたしは美徳だと捉えている。他者からみて「無駄」にしかみえないものは、共感され難い自分だけの「嗜好」であり「感性」。これこそが「粋」の正体。逆に言えば、コストパフォーマンス的な金銭感覚は「金銭」という共通の物差しで測る「野暮」。そもそも人間自体が地球にとって一番の「無駄」なんだから、人間から「無駄」を排斥することなんて無謀なのでは、とひっそり思う。いつだったか、「人間」と書いて「ムダ」と読む時代があったような。そしていまは「価値」と書いて「カネ」と読む時代。わたしはそれをほんとうにかなしいことだと思う。

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