ナイルの水の一滴

一文も書けずにいた七月。近所の八百屋からミョウガやスモモを見かけなくなって、秋の気配はすぐそこまで来ていて、風も心なしか柔らかい。あっという間に夏が終わろうとしている。慌てるように桃を買ったり、鮎を探したりしていて、今年は珍しくまだ夏に飽きていない。かと思えばお盆過ぎて、少しだけ飽きてきたような気もしなくもないけど、夜風が心地よくなって、昨夜は久しぶりに風に当たりながら眠ったら、もうしばらく夏でもいいかと気怠げに思わなくもなかった。毎年ながら集中が削がれるから、読書は捗らず、だから梅崎春生の「怠惰の美徳」などをごろつきながら読み返したりしていた。あれはいい。とてもいい。ポケットに忍ばせておけば、何とはなしに捲った頁を読んだりなんかして、そうすればちらと脳裏で気にしていた事物も途端にどうでもよくなってくる。それから不埒なことがちらちら浮かんできたりなんかして、もう本当に何もかもがどうにでもなるようになれという具合になってくる。そうして今、なぜか獅子文六を読みたくなっている。思い当たるところ、新聞や過去の日記を斜め読みしていたら志賀直哉の随筆がいくつか目についたからで、それはなかなかに鋭利な言葉の羅列というかそのような調子だったからで、否応なしに直視せざるを得ない現実というかそんなものに、辟易しそうになっているからに違いない。ちなみに今も手元にあるものはこの二つ。

「ナイルの水の一滴」
人間というものが出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んでいった。私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えていえば、悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも先にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。しかもなおその私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。
幸福というものは受けるべきもので、求めるべき性質のものではない。
求めて得られるものは幸福にあらずして快楽なり。

正論が眩しいのです。こうして宿を営むようになって二度目の夏も日本で過ごしていて、以前なら八月は大抵どこかへ逃亡を図っていたのだけれど、それはお盆の時期がどうにも好きでなかったことに起因していて、死者を迎えたり送ったり、死者に思いを馳せたりすることが自分にとってややどころか大変重たかったのである。そうして実直になればなるほどに、わたしの心も感傷が増していく。おお、センチメンタルサマー。たのしみにしていた畑のイチヂクはいつの間にか全てなくなっていた。今年も鳥には敵わない。

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