発光

坂口恭平著「発光」を読み進めている。全然捗らない。2011年から始めたTwitterを推敲したものが本著なのだけど、彼は躁鬱病の持ち主で、ツイートしているのは決まって躁の状態なわけで、わたしは躁鬱病に陥ったことも、躁状態も鬱状態も幸か不幸か経験したことがないし、なりそうな気配もないし、きっとこの先も陥るタイプではないので、著者にかかわらず、躁鬱の兆しがある人はわりかし苦手なタイプとしていて、最近もそんな人と出会う機会があったのだけれど、やっぱり話していると苦しくて、だから全然捗らない。読み進めるのが辛い。というか、付き合うのが辛い。そんな気持ち。それでも、坂口氏にはハッとさせられる瞬間が何度もあって、例えば地方には刺激はない。だから刺激を作り出す必要がある。的なことを言っていて、たしかに。。。と思った。というのも、ちょっと前までのわたしは都会に出るたびに、「(地方暮らしに慣れすぎて)危うく目が腐りそうになっていた」と感じていて、でもこれは単に刺激が足りなかっただけで、審美眼的なセンスは特段地方にいようが関係ないことだと思った。身につけたセンスは陰りながらも、輝きは決して失わない。そんな気がする。もしそうだとしたら、わたしは厳密に、それもとても厳密に刺激は必要ないと考えていて、一過性のものはどれも美しさを持たない、冗長こそ美というか、だからこんなだらだらと文章を繋げているのだけれど、だから地方を言い訳にそれなりのものをやるのはやめようと思った。それなりにやるのと、それなりのものをやるのは全く異なる。わたしは常時それなりにやる、つまり適当スタイルなわけだけど、決してそれなりのものをやっているつもりはない。いつまでも一見堅物的な姿勢を、貫いていたいと思う。とはいえ、この状態では毛頭、「発光」を読了できそうにもないので、これはそういうことだと思って、急いでネットショッピングでベン・ラーナー著「10:04」とフィリップ・K・ディック著「高い城の男」、ジャン=ポール・ディディェローラン著「6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む」を注文した。フィリップ・K・ディックの「高い城の男」はアマゾンプライムで観ていたから、ネタバレの状態で本を読むのは嫌だなぁとここ数ヶ月思っていたのだけれど、書店で見かける度に「やっぱり買う」「やっぱりやっぱりやめよう」の繰り返しで、不毛だと思ったので、いよいよ買った。フィリップ・K・ディックといえば「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(映画タイトルだと「ブレード・ランナー」)で有名なのだけれど、わたしはかなり「高い城の男」に肩入れしていて、これは戦後SFの頂点...!と思わなくもない。それよりジャン=ポール・ディディェローランである。ディディェローラン。もちろん変換できない。ディディェローラン。あ、もう一度打ったらできた。

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