見出し画像

「共在」するというディスタンス 〜蓮沼執太フィル「ミュージック・トゥデイ」と「symphil|シンフィル」から

東京オペラシティコンサートホール「タケミツメモリアル」で開かれた、蓮沼執太フィル「ミュージック・トゥデイ」に行ってきました。

先立ってリリースされたアルバム「symphil|シンフィル」。蓮沼氏は環境音楽家・電子音楽家として電子音や環境音を重ねたサウンドでソロ作品を構成してきたのに対して、フィルの作品ではそれらと対となり多人数による生の音の重なりを主体としたサウンドで構成されてきました。ですがこのアルバムでは生の音の中にソロ作品で響いてきたそれらの音も取り入れられており変化を感じました。
加えて楽曲の中に内省的というか自分を軸とした内容が多くなった感じがあって、ソロ作品の中でも「歌モノ」をつくるという特異な作品「メロディーズ」(2016)の続編になっているようにも思いました。

symphil|シンフィル CD版とカセットテープ版(サインありがとうございます)

蓮沼氏はこのアルバムを『「回復」、「共在」がコンセプト』としているそうなのですが、コロナ禍は特に初期の「接触8割減」というワードにも表れるように、個々がCommonな場所、密に集まる場所からそれぞれのImr(In My Room)へ閉じ、静かな営みを強いられる期間が長く続きました。私もそれを強く長く感じた一人です。蓮沼執太フィルはじめ様々な多人数バンドにとって存在の再検討に近い大きなインパクトを与えました。
「回復」というのはここからの再帰を指しているようですが、この3年の中で、それでも物理的に適切なディスタンスを探りながらのCommonの回復への闘い。リモート技術が急速に普及し、交通機関の需要は以前のようにはならないとも予想されています。その中で、Commonに対しての意味付け、個の在り方について、今まで通りでよいのか?という疑問、違ったテーマも見えてきたように感じます。

もう一つのテーマは「共在」。そんな世の中の雰囲気、そして東京パラリンピックで「パラ楽団」を編成した経験から、蓮沼氏は選び取ったように感じます。

パラ楽団は「障がいのあるミュージシャンとプロミュージシャンの混成で作られた楽団」とありますが、このような隔てる言葉を使うことなく、各自がまず自分自身の多様性を大切に生きていくことができる世の中になることを願っています。誰もが 自由 自然に在り ありのままが 響きあう。それが僕の歩みたい未来です。

Instagram(@Shuta_Hasunuma)の投稿より

東京パラリンピック2020の開会式以降、障がい者の施設や子どもたちのワークショップに行く機会が増えて、そこに理念として「共生」と書かれていることが多いんですね。それ自体はとてもいい言葉だと思うんですけど、もう少し「存在を認める」という幅があってもいいのかなって。「共に生きよう」という設定はちょっとだけ強引さを感じたりもしました。単純に「生きてるだけで『共』じゃん」みたいな感覚もあるし、「共生」は人間主体の発信過ぎる気がします。だから「共在」。

蓮沼執太フィル/ソロ 特設サイト
Shuta Hasunuma Philharmonic Orchestra talks about『symphil』part3
それぞれの日常で起きた『回復』と『共在』をめぐって

この「共在」ということばがもつディスタンスにハッとさせられました。
「共生」にはすべての人が参加する、すべての人を包む、という意味が入っている。確かにすべての人がすべての出来事にアクセスできる環境整備は重要である。一方で、すべての人がすべての出来事に関係したいと願うかどうか、関係すべきであるかどうかは、個々の問題であり個人の信条によるものである。「こうである」という枠に対して門戸を広げただけか、「ああである」のだが「こうである」ことを「ああである」の中に組み入れようとしている話なのかもしれない。しかし、「こうである」と「ああである」はしばしば両立しません。最近インターネットを賑わせている様々な議論もそうでしょう。「ああである」「こうである」が存在することを認識しておくだけでも大分いいのだと思います。その意味が入っているのがこの「共在」というワードであり、ディスタンスなのだといえます。

コロナ禍は「ソーシャルディスタンス」ということばを生み出し、私達に個であるということと同時に物理的だけでない心理的な距離についてをも意識させました。
振り返ればソーシャルメディアが普及し、2011年の東日本大震災によって喪失というインパクトを我々が共有したころから「絆」「つながり」というワードがより重要視されるになっていったように思います。しかし同時にそれらに対する「疲れ」という現象や、バイトテロ、最近で言うといたずら動画のような「つながり」によって麻痺した距離の意識のズレをも表出させているように思います。

ヒトが呼吸し、新鮮な空気を取り入れて、自由に過ごすための他とのディスタンスを確保すること。
それはただ「私」の外に「他が存在する」ことを認めること。
そして「他」は「私の外」に属する存在であると受け入れること。
「共在」にはそんな意味と距離感が込められていると感じます。

今回の公演のタイトルである「ミュージック・トゥデイ」。会場である東京オペラシティコンサートホールの設立に深く関わった武満徹が催していた現代音楽祭のタイトルであり、蓮沼氏もこの名を関した企画を多く行っています。
大きなインパクトを与えたコロナ禍から次のフェーズへ移ろうとする「今日の音楽」は何か。そして蓮沼執太が生み出そうとしている「今日の音楽」は何か。それはこのタケミツメモリアルという場所もホールに響くこどものワイワイした声、大人のくしゃみやフィルメンバー一人ひとりの一音一音も、今日の穏やかな陽気も、あるがままを認め受け入れ、手を加えることのないことによって生まれた調和、ハーモニーでしょう。まさに「共在」が体現された空間で、全ては偶然の連続でありながら、必然の理であるようにも感じました。


そういえば、終了後サイン会に参加させて貰いましたが、蓮沼執太さんと直接お話するのが珍しく、緊張しすぎてしまいました。思わずテレポート好きとか言っちゃってすいません(笑)
今日のセットリストの中ではcenters#3が心が清められる感じがして、同じくらい大好きです。細いGの音が長く響き、そこから曲が展開していくのですが、音無さんによる笙での音色が良いのですが、今回はホールのパイプオルガンも活かされていて、また良かったです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?