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ファニーとアレクサンデル

スウェーデンのイングマール・ベルイマンが、自身の故郷であるウプサラを舞台に撮りあげた自伝的作品『ファニーとアレクサンデル』について少し書く。

劇場を営む一族の2年間を、アレクサンデルとその妹のファニーの目を通して描かれているこの映画は、1907年のクリスマスイブのシーンから始まる。劇場主で俳優のオスカルや母で女優でもあるエミリーらの演じるキリスト降誕劇は毎年恒例となっているらしく、それはそれは絢爛豪華で華やかなのだけれども、しかし、時代の背景もあってか不穏な空気が朝もやのごとく低くたれ込んでいるのが画面の端々から感じて取れる。寒さを凌げぬぼろぼろの毛布のように、それは観る者を頼りなくも(でもそれが唯一の暖である)包んでいる。

その年明けにファニーとアレクサンデルの父であるオスカルが舞台のリハーサル中に倒れ、そのまま帰らぬ人となる。子供が出くわす「安定した」家庭の綻び(不完全な家族の姿)は、もしかしたら全ての子供に突きつけられる最初の「現実」であるのかもしれない。親身になって相談に応じてくれたベルゲルス主教に心を寄せたのは、夫を亡くしたエミリーにとっての現実逃避であったけれど、それは子供にとっての悪夢と直結していた。混乱する時間と空間の中にあって、愛に活路を見出すのか、幻想に紛れてそれらをやり過ごすのか、はたまた信仰に頼って盲目的に生きるのか、という「選択」は、映画の中の出来事に留まらずわれわれ全員に突きつけられている選択肢なのだろう。

しかし、近代的な自我に苦しみぬいた世紀を経験した「われわれ」がかろうじて言えるのは、それらを「選択」するのは、でも、やっぱり結局のところ「わたくし」でしかありえない、ということ尽きる。「わたくし」は不可分のごとく「われわれ」に常にくっついてまわられているのだとしても。「わたくし」ひとりで選択した気持ちになって躍起になって、じわじわ真綿で首を閉められた如く苦しむ人の姿は、いつの時代の映画/現実にも等しくある。つまるところ結局は、小さな世界での「豊かな今」を享受し、そして刹那を謳歌することしか許されていないのかもしれない、、、。けれども、「生」がぐるぐるめぐりめぐって見果てぬ先にまで繋がっていくことを予感させてくれるそのことを感じるのもまた「わたくし」なのである。

本来、無垢で幼い命というのは、過去の因果から開放されている(そこに因果を読み込むのは大人の仕業)まさに未来的な存在だ。全ては刹那、なのかもしれないけれど、それを引き受けつつ「われわれ」のなかのひとつの「わたくし」として(進歩という意味ではなく)前へと一歩一歩に進むということを決して手放さない、ということは、その手渡された未来を創造することにおいてはとても大切なのだと思う。

そのことは、戦争に明け暮れた20世紀の住人の反省として、そして、21世紀に生きる住人に残された課題である。

私の念願かなってようやくこの映画を観たのがこの前の土曜日。2時間そこらの映画を見ても息抜きにならないと思って、ずっと温存していた5時間もののこの映画をひとりアトリエで観た。購入した時は1万円を越えたDVDが、今ではブルーレーで安価に買えるようになってしまったけれど、でも、この映画が長年(ずっとずっと)私の書棚にささっていたということが、とても大切だった。

(注1)執筆は2017年12月18日。画像は広報用画像をキャプチャーしたものです。

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