7/3多様性と私。

東京ではレインボープライドをやってるらしい。ほんとに行きたかった。

2年前書いた自分の文章。何故か下書き保存していたけど、結構好きだったので。


「恋人いるの?」
コイバナになったとき、「彼氏/彼女」ではなく、「恋人」、という言葉を使うようにしている。
割り当てられた性が女性でも、男性を好きになるとは限らないし、そもそも恋愛感情を持たない人もいる。情けないことに、配慮に欠けた発言もたまにしてしまう。だけど、できるだけ誰も傷つけないように、私はこれからも言葉を探し続けたい。

この話になって必ず出てくる反論が「傷つけないなんて不可能だ、好きなこと言わせてくれ」「言いたいことを言えない苦しみはどうしてくれるんだ」という意見である。確かに、いうことすべてに気を遣うのは窮屈だと思うし、間違えたときにすごく自分を責めてしまう。

ただ、「特権」について考えないといけない気がする。マイノリティ側は、自分に配慮していない意見を「聞かされる」。別に自分を悲しくさせる発言を聞く状況を選んでいないのに、聞こえてきてしまうのだ。電車の中で、食卓で、学校で。すべての場面で身構えていないといけない。そう考えると、マジョリティ側には「選択肢」が存在する。「言う」という行動は「聞く」と違って選択できる。
言うか、言わないか。何を言うか。
この選択肢があるということ自体がマジョリティの特権なのかもしれない。

言いたいことを言わせてくれ、と訴える人は、選択肢の存在から窮屈さを感じているのかもしれない。選ぶということは責任を伴うからだ。そして、発言がどの程度相手に影響を与えるか、ということに対して真摯なんだと思う。

すごく難しい。けど、私は逆のように考えようとしてる。
私が言葉を選べば選ぶほど、傷つく人は減って、世界はちょっとだけ幸せになるはずだ。
未熟で、余裕がなくて、余計なことばかりをいう私だから、きっとまだまだたくさんの人を傷つけているんだろうけど、少なくとも「恋人」といったら傷つく人は少なくなる。少しだけ、自分を肯定できる気がする。

SNSの登場、度重なる有名人の失言と炎上によって、私たちは「失言をしたら終わり」という意識を持つようになった気がする。前述した窮屈さも、この意識によるものが多い。でも、実際はそこからどう対応していくのかが一番大事なのだと思う。袋叩きする現在の風潮は、表面的な謝罪と、窮屈さを作り出す。傷つけない発言をするのは大前提だけど、してしまった人にも寛容な世の中であってほしい。多様性とはきっとそういう社会の元、初めて議論できる概念な気がしている。


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