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差し出されれば、受け取らねばなるまい

ああ忙しかった。
前回のnoteを書いてから直ぐにまた人生がとんでもない事になった。
まあ、特に心身が疲れているわけではないが、何か書こうとは思えてこなかった。

「両手をふさぐこと」は読み返してみると、なーに言ってんだこりゃと思ってしまったので、そのうち消すことにする。
あれの続きを書かなきゃいけないという強迫観念も、書けなくなっていた要因だったのだろう。

それはさておき、春が来た。
1年で1週間あまりの間だけ、外では瞳のどこかにピンク色が映る。
どれが梅なのか桜なのか、よく分からないまま、普段よりも視線を上に向けて歩く。
桜のおかげか、ヘッダーにした白木蓮のおかげか、今日は何かしら書こうと思った。

最近考えているのは、私たち、特に日本人はは本当に優しいよなーということだ。

「今週末、遊びに行かない?」と、特に気が合う訳でもない人に言われる。あまり行きたくなくても、断るための理由が見つからずに承諾してしまう。理由探しのために頭を使うくらいなら、OKしてしまえといった具合に。

なぜ私たちは、こうした提案を受け入れてしまうのだろうか。

そもそもなぜ、断るためにやむを得ない事情を引き合いに出したり、予定を見繕ったりするのだろうか。

それは、相手の好意、もっと適切に言うのならば、「厚意」をすげなく扱いたくないからだろう。
つまり、相手が「良かれと思って」差し出してくるもの(この場合は「遊びに行かない?」という提案)は、受け取られねばならないと私たちが思っているからなのだ。

こうした私たちの受動性を、優しさと捉えることもできるし、優しいという形容詞でこの特性を表してもいいかもしれない。
しかし、本当に私たちは優しいからこうした提案などを受け入れてしまうのだろうか。

相手のためを思ってOKを出してしまうのだろうか。それもあるだろう。しかし、好きでもない人なのだ、多少は軽くあしらってもいいのではないか。

そんなの失礼だ、と言われそうである。そうだ、失礼なのだ。私たちは失礼なことをすることができない、失礼になれないのである。

それはもう体に染み付いた癖のようなもので、倫理的な信念や人道的な目的のためだけにそうしているわけではない。私たちの体には、拒絶のやり方なんて身についていないのだ。

拒絶することにも慣れていないし、拒絶されることにも慣れていない。そんな者同士での関係ならば、そりゃあ提案は断りにくいだろう。

こんな風に、拒絶しないように、させないように、みんなお互いを慮って生きている。そうした心の読み合いは、どんどんと複雑で高度なレベルに達してきていると思う。

自分がこういう振る舞いをしたら、相手はどう思うだろうか。
更には、自分がこういう振る舞いをしたら、相手から自分が相手をどう思っているように見えるのか。
私たちはお互いの心を読み合いまくっている。

自分が相手をどう思っているように相手が思っているか、などというのは心理学では二次的信念と言うが、こんな高度なことまで私たちは考えて人間関係の中を生きている。

なぜかと言うと、これは単純で雑な答えだが、傷つきたくないからだ。

断られるのは傷つくし、断ってしまうことも相手を傷つけているようで傷つく。

そうした傷つきを避けるために私たちは更に読心の術とアサーションの技術に磨きをかけようとする。

夜、寝ようと目を閉じながら「今日の自分、こんなこと言って大丈夫だったかな」と反省するのもこのためである。そうして反省を重ねて、配慮の効いた、攻撃性の少ない言葉たちを培うのである。

そして、その熟慮を重ねた構成で紡がれた言葉たちを持ってしても、相手に少しでも傷つきを与えようものなら、私たちは更に落ち込み、傷ついていく。

こうしたスパイラルによって、私たちは他人を傷つけにくくはなっているのかもしれないが、それと同時に傷つきやすくなっている。

しかし、こうした傷つきと傷つけのせめぎあいは単なる平行線をたどる訳では無い。その競走のために、私たちは大いなる心労を負い、脳みそのキャパシティはいっぱいいっぱいになっていく。

そうした疲れや辛さから、私たちは人間関係を忌避してしまったり、その人との関係を終わらせたいと思うのかもしれない。

社会の冷たさや他人の無関心さを嘆く声があるが、それは私たちが冷たい人間だからなのではない。
一度他人と関係を築いてしまえば、優しさを発揮せざるを得ないからだ。失礼になれないからなのだ。とっても疲れて辛くなってしまうからなのだ。

差し出されれば受け取らなくてはならないのならば、そもそも差し出されないように誰にも近寄らないのが得策なのである。

決して、何も差し出したくないなんていう利己主義なのではない。もし、相手から差し出されたら要らないものでも受け取ってしまうからなのだ。

私たちは他人が嫌いな訳では無い、人々が冷たくなっているのでもない、ただ、現代の人間関係は疲れる構造となってしまっている。

それでも他人がいない人生を生きられないのが私たちであり、私たちはそのジレンマと付き合い続ける羽目になっている。

誰が悪いわけでもない、誰かがいじわるをしているわけでもない。まともな人であろうと心がけるがために、互いが傷つきやすくなっていく。

まあ、こうした構造がハラスメントや差別といった問題に通底しているのだ〜、というのが僕の1番言いたいことだが、いつものことながらこれ以上書くのはよしておく。疲れたし。

Noと言うのは本当に難しい。例えば、何かの買い物の際に、レシートをもらいたくない時、僕は「レシート大丈夫です」と言ってしまう。

これも、「いらないです」という露骨な拒絶表現ができないからなのかもしれない。いらないと言う方が簡潔で分かりやすいのに、何だか店員さんを傷つけているようで言えないのだ。

こんなくだらない慮りも、傷つきのスパイラルに加担してしまっているのかもしれない。

4月から始めたバイトの行き帰りでは、郵便局の横に立つ、大きな桜の木の側を通る。

北海道の春は遅い。皆が新しい人間関係にうんざりした頃に桜は咲き始める。

こんな自然が差し出してくる色や空気を、たまに受け入れるのならば、疲れないし辛くはないだろう。桜も白木蓮も、咲いているのは今だけなのだから。


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