見出し画像

祭りに紛れて声をあげ、投石機に合わせて小石を投げる (下)

前回のを書いた直後に、なぜ僕がああいうムーブメントを祭りであると表現したのかが分かった。

ちょうどその頃に、ライターの借金玉さんが、Twitterで似たような現象を指して祭りであると批判していたのだった。

借金玉さんの比喩センスがとても好きなので、僕もほぼ無意識的に同じ物言いをしてしまったのだろう。そう考えると恥ずかしい感じもする。

とりあえずこのnoteは特に収益化をしているわけでもないので、ご本人の気を害さないといいなあと願っている。

いやあ、前回のを書いてから、僕が言っていたことをまさに表すような出来事がボコボコとあったと感じる。別に「それ見たことか」なんて思ってるわけではないし、不謹慎だけれど、ベストタイミングだと思う。

とりあえず思い浮かぶのは、名古屋市の河村たかし市長が、オリンピック選手の金メダルを噛んだというやつだ。

みんなはあの出来事を聞いて、どう思っただろうか。

僕は、率直に言うとキモいと思った。自身が血眼になって勝ち取った勲章を無断でかじられるのは屈辱的だし、普通に70過ぎのおじさんの口内に入るのは生理的に気持ちが悪いものだろうと思う。

実際に、この行為に対する批判の声は多く、市役所には8700件を超える苦情まで寄せられたという。

フリーアナウンサーの高橋真麻は、「全く関係の無い私ですが 応援していた身として何故だか涙が出るほど悲しくて悔しくて」と、メダルをかじられた後藤選手に同情の意を伝えたそう。

これらに対して僕が何とコメントするのか、前回のを読んでもらっていればなんとなく分かるだろう。

見物人よ、さっさと祭りをやめろ。

特に、8700人の苦情を送った人々は何のつもりだったのだろうか。後藤選手への同情をつづり、こんな酷い人間は市長に相応しくないから辞めろとつづったのだろうか。

どのような苦情の内容かは知る由もないが、これだけは確かである。

後藤選手は、この件に関して何も言っていないということだ。

僕は正確な発言を見つけられていないので、定かではないが、メダルを嚙まれた後藤選手の感想は「びっくりした」程度のものであったはずだ。

もちろん、オリンピック選手としての立場や、20歳という若さもあって、あれに対してどんな感情を持ったのかは素直に吐露できないのだろう。

もしも彼女の同年代である僕だったら「うわーきめーww」とか言いながら友達に話し、三日もすれば話題に上らなくなる程度のネタとして消費するだろう。

もちろん、本人は「びっくりした」とか「きめーww」で済ませられるような感情を抱えてはいないだろうが、涙が出るほど悲しくて悔しい思いまで感じているかは分からない。

ならば、8700人の人々や高橋真麻は誰に同情しているのだろう。

本人が「私は不快になった」とも言っていないのに、なぜ彼らは他人の不快感を勝手に代弁し、あまつさえ、市役所への苦情など政治的な主張まで平気で挟み込めるのか。

本人が直接の被害を受けてどう思ったのかと、私たちがそれを見てどう思ったのかは全然違うものである。

いいだろうか。あの出来事が善であったか悪であったかを決めるのは後藤希友選手ただ一人なのだ。

本人が何も言っていない中で私たちがいかに騒ぎ立てようとも、それはただの祭りである。

勝手に私たちが不快になって、勝手にわっしょいわっしょいとストレスを発散しているだけなのだ。メダルをかじるのなんて良くないよねキモいよね、と言い合って河村市長に小石を投げるのが気持ちいいのか。

そんなものは河村市長のみならず、後藤選手にとってもかなりの迷惑でしかない。

被害者を盾にストレス発散するのは、当人への迷惑であり、侮辱ですらあると思う。

本当はこの記事は、発言するのは怖いけれど祭りに流されずに一人でも声を上げていこう、みたいな希望を持たせた内容にするつもりだった。けれど、なかなかにタイムリーなことが多いので、やっぱり祭りやらの批判で終わってしまいそうな気がする。

最近では、上記のように被害者を軽く扱ったお祭り騒ぎもあれば、加害者への扱いもその例に漏れないことだってある。

6日、小田急線新宿行きの電車内は一人の男によってパニックになっていた。36歳の男が、刃渡り20㎝の包丁を振り回し、放火も企むなどして無差別な殺人未遂を行った事件のことだ。

この事件では、亡くなった人こそいないが、重体になった人を含め10人がケガを負った。

こんな事件はかなりショッキングだし、あってはならないことだと思う。

しかし、こんなセンシティブな話題にこそ、私たちがお祭り騒ぎをしてしまう因子が詰まっている。こういう時にすぐに騒ぎ立てるのではなく、一回落ち着く姿勢を少しずつ身に着けていこう。

SNSの反応で特筆すべきは、その残忍な事件性に加え、女性が主に狙われたという動機に関するものだった。

「女性を見ると殺してやりたいという気持ちが芽生えていた」と後に供述していることから、女性に的をある程度絞って狙われたことが分かる。

そこからネットでは、フェミサイドであるとして、女性差別や男性の加害性などに絡めてこの事件を論じる声が多く上がった。

しかし、事件が起こってから、今でも5日ほどしか経っていない。なぜ、犯人の動機をこうも簡単に決めつけて論を発するのだろうか。

犯人は事件の翌日、コンビニに行って自首をした。理由は逃げるのに疲れたから。

そんな行動をするほどの男が、明確にフェミサイドをしようと思って無差別殺人を企んだと考えるのは、あまりに早計ではないだろうか。

今では少しずつ供述も増え、労働の苦痛や、劣等感、自殺念慮などを基にした本人の動機も分かり始めてきているが、もちろんそれも鵜吞みにできる物ではない。

しかし、特にツイッターフェミニズム、ネットフェミニズムと呼ばれるような、SNS上でフェミニストとして発言などをしている人々は、事件があった当日からフェミサイドであるという主張を揺るがさなかった。

もちろん、女性を主に狙ったのだから、フェミニストや女性が特に恐怖を覚え、脅威を感じるのは当然である。

しかし、女性を殺したいという動機さえなければ、この事件は起こらなかったと言えるのかは分からない。

もし動機を誤った原因に帰属してしまえば、その解決や再犯防止への道は遠くなるにも関わらず、フェミサイドであるという意見は早くから強く言われた。

ここに、加害者を軽く扱う姿勢が見て取れる。

彼がどうして人を殺したいと思ったのか。なぜ自殺ではなく他殺をしたのか。なぜ男性よりも女性がよかったのか。

これらの動機、原因はかなりの時間と熟慮をかけて探られるべきである。しかし、その熟慮はなされず、フェミサイドであるという意見ばかりが挙げられた。

では、なぜそんなにも強く言われたのだろうか。

こんなにも不確定で不安定な情報や供述しか得られていないのに、彼ら彼女らがフェミサイドであると断定したのはなぜか。

彼らはそんなに愚かなのだろうか。

いや、僕は普通の事件ならば、彼らにも動機を慎重に捉えようとする姿勢が表れると思う。

そうではなく、彼らはこの事件がフェミサイドであって欲しかったのではないだろうか。

女性差別を憎み、男性の加害性を憎むからこそ、こうした事件を根拠に「ほら見ろこれが女性差別だ」と指摘したかったのではないだろうか。

常日頃から、そうした差別や偏見に触れ、女性が苦しめられるという不快感にアンテナを張っているからこそ、まだ不確実な状況の点と点を結んでしまうのである。

ここでは、加害者という真実のカギを握る本人から離れ、ツイッターフェミニズムが勝手にムーブメントを起こしてしまっているのだ。

これも、言葉として言うのは憚られるが、祭りである。

本人の動機、供述、心情を無視して、自分が繋いだ線をストーリーとして語るお祭りが行われてしまっている。

彼らにとって、それがどれだけ信ぴょう性の高いものであるかは特に重要ではない。ストーリーとして、ナラティブとして上手く出来上がっているかが重要なのである。

その勝手に見出したストーリー上で犯人は叩かれ、被害者に同情が寄せられる。その犯人叩きと共感が彼らにとっては気持ちいいのである。

最悪な仕事を日々やらされて、生活保護を受けながら、女性にも笑われて自尊心もボロボロ。更には自殺を考えるくらいの可哀想な男が、散り際に社会へと一矢報いた。こんなストーリーよりも、女性が憎くて憎くてしょうがなかった、だから殺した、というストーリーの方が単純で、犯人への同情の余地もなく叩けるのである。

つまり、フェミサイドであった方が叩きがいがあるのである。

彼が積極的に女だけを殺してくれれば、ツイッターフェミニストたちは彼を、男を正しく憎むことができる。正義の名の元に男叩きの快感を得られるのだ。

もちろん、これだけが理由でフェミサイドだと言うわけではないことも分かる。しかし、これが理由ではないと言えるだろうか。

今回の事件を語るにあたって、明らかに犯人の本当の動機や真相は軽く扱われている。

そうした当人を無視したムーブメントによって、事件から得られるはずであった教訓も再犯防止のヒントも遠ざかっていく。

犯人である対馬容疑者、彼は、その近辺で地獄のバイト先として知られるパン工場に勤務していた。

もしも、その気が狂うほどの単純作業と労働時間が彼を追い詰めていたのだとしたら、同じ職場で働く人々にも無差別殺人の動機が生まれているのかもしれない。

彼はまた、事件当日に、万引きをしているところを女性店員に見つかった。

今までも万引きを数回行ってきたにも関わらず、人生で初めて万引きが見つかった憤りが、その女性店員への憎しみに変わった。しかし、彼女を殺そうとして店に戻る頃にはもう閉まっており、やむなく電車の女性客に対象を変えた。今日(8月11日)のデイリー新潮にはそうした本人の供述が載っている。

もしも、この万引きがバレていなかったらどうなっていただろうか。女性店員ではなく、男性店員に見つかっていればどうなっていただろうか。

こうした動機と原因に関する考察は、フェミサイドであると断定してしまえば、できなくなるのだ。

女性に寄り添うつもりであったとしても、安易な断定は人々の目を曇らせる。

私たちに必要なのは、自分の信じたいストーリーを選び取って、それをbotのように叫び続けることではない。

金メダルをかじられた後藤選手も、殺人未遂を起こした対馬容疑者も、当事者として軽んじられている。

こうした出来事に対してやんややんやと騒ぐ見物人にとって、当人たちの感情はさほど重要ではない。自分の感情が発露出来ればそれでよいのである。

前回でもさんざん言ったことだが、こうした姿勢には目的が失われており、意義に欠けている。

私たちは、なにか刺激的な事があるたびに、それにかこつけて自分の言いたいことを叫ぶような姿勢からは距離を置かなくてはいけない。

もちろん、あなた自身のために自分で声を上げることは悪いことではない。しかし、被害者の擁護のため、加害者の批判のためであるなどと理由をつけ、自分に噓をついてはいけない。

声を上げる時には、誰のために声を上げるのか、それだけは分かっておこう。

そして、何かを見て、何かを聞いて、良くも悪くも心が動かされたのならば、できるだけそれを裸の状態で発信するべきである。

それは、辻褄の合っていない、支離滅裂な叫びかもしれない。きれいにホチキス止めされた文書とは程遠い、途切れ途切れの粗雑な文章かもしれない。

もちろん、それが他の人から受け入れられるかどうかは分からない。けれど、それがあなたにとっての、誰にも変えられない真実なのである。

くそ、もっと前半からこういうことを書くつもりだったのに。

こうして人々が正直に感情を発露できないのは、これまた見物人のせいである、という前回最初のテーマに戻ってくるのだが、今回も長くなってしまった。

とにかく、自分の鬱憤を晴らすためのチャンスを今か今かと待つような人にはなりたくないね、という話として締めくくろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?