「左腕最速の男」川原弘之投手 引退

〜『プロ野球戦力外通告』を視聴して〜

 12月28日23時〜TBS系にて『プロ野球戦力外通告』という年に一度の特番が放送された。
 当番組は華々しいプロ野球の世界の裏で「クビ」という過酷で厳しい現実があることをリアリティをもって訴えかける番組だ。
 そこにはかつて「日本人最速左腕」と呼ばれた豪腕・川原弘之の姿が映し出されていた。
 本来この番組はプロ野球の「闇」の部分を伝える趣旨であるのに、川原は、紹介された3人の中で唯一晴れやかな表情を浮かべていた。

遥かにおこる脊振嶺の

明けゆく雲にこだまして

 地元・福大大濠高校のエースとしてプロのスカウトから軒並み注目を集め、視察には12球団のスカウトだけでなく、大リーグ・メッツも熱視線を送るほどだった。
(余談だが筆者も大濠高校の卒業生ということで、貴校及び貴校OBの方々には特別な思い入れがある)
 2009年のドラフト会議にて、ソフトバンクが2巡目で指名。地産地消の怪物誕生に胸が高まった。

「道」

光明

 プロ2年目の2010年、フレッシュオールスターに選ばれ、最速155km/hを記録した。
 翌年(3年目)、春季キャンプで野球評論家(後の監督)工藤公康から「素材は杉内・和田以上」と太鼓判を押された。
 また、同年一軍デビューを果たす。
 さらにこの年、ウエスタンリーグ公式戦で、当時の日本人左腕史上最速記録となる158km/hを計測した。

 ここまで読むと、順調に歩んで来ているように思えるかもしれない。
 だが、公式記録を見ると、最初の4年間で一軍登板はたったの3試合である。川原の身に一体何があったのか。

紆余

 上記の略歴はほんの一部にしか過ぎず、意図的に悲劇を伏せて書いたのだ。
 実際の川原は、常に何かとの戦いを強いられていた。
 それでは、隠していた「負の年表」をご覧いただこう。

・2011年、左肘の違和感
・2012年、イップス発症⇒これを機に制球難が悪化
・2014年、イップスが重症化。投げ方がわからなくなる(プロ野球界のあるある→最近の例で言うと、2年で戦力外となった元広島・鈴木寛人はまさにこれ)
・2015年、左肩故障・手術。次いで、左肘靱帯断裂とトミージョン手術。

 周知の通り、トミージョン手術は復帰まで1年以上かかる大掛かりなリハビリが必要なため、球団は育成契約を締結した。
 この時点で川原はもう6年目の25歳になっていた。だがそれは裏を返すと、その年で育成としてまだ見込めるほど「只者じゃない素質」を備えていたということだ。

育成落ち

 長い長いリハビリを終え、2017年にマウンドに帰ってきたが、まずは投げ方の模索から始まった。首脳陣もつきっきりで指導し、体の至る所をいじって見つけたベストフォームがスリークォーターだった。腕を下げても球速は十分で、150km/h台を連発できた。
イップスからの制球難、庇うようにして故障。たった1度の頭部死球の記憶に何度も野球人生を狂わされそうになりながらもがいてもがいてようやく見つけた。ここが再起の第一歩となる

 翌2018年、年間通してファームで中継ぎを務め、フォームを固めて戦力として計算できる兆しを見せると、2019年、キャンプ途中から一軍に帯同して、オープン戦で猛アピール。
 3月26日、周東佑京と共に球団事務所に呼ばれた。

大器は晩成す

 4年ぶりの支配下復帰。念願の開幕一軍の座も掴み取り、3月30日、本拠地ヤフオクドーム、舞台が整う。
 チームは開幕2戦目で、2点リードの6回表という緊迫のシチュエーションで名前を呼ばれた。

https://youtu.be/Y3iJVKy5Si8

 これが実に6年ぶりの一軍登板。結果は1回無失点。
 10年目にしてプロ初ホールドをマーク。ゼロで締めた後、同級生の今宮とタッチしてベンチに戻るシーンは胸熱(今宮が1位の年のドラフトの2位が川原)
 初めてのお立ち台にも上がった。

この試合は現地で観戦していたが、私的には泣きそうになった。


 振り返ると、これがプロ野球人生のハイライトだったのかもしれない。11年目はプロ入り最多を更新する22試合に投げたが、12年目の昨季は3試合の登板に留まり、戦力外通告を受けた。
 実際に戦力になったといえるのは2019-2020年の2年だったが、それでもあの時の「鷹の希望」が花開くところを見られて嬉しかった。

 貴重なサウスポーということで、どこか手を挙げる球団があってもおかしくはないと思っていたが、全盛期がチームの黄金期と被って登板数やホールド数が伸びなかったのが惜しいところではあったようだ。
 球団職員としてのオファーを受け、片江の剛腕はプロ未勝利のまま引退した。これで男子校時代の大濠OBプロ野球選手は全滅した。
 戦力外が公式発表された翌日、愛弟子・千賀滉大がちょうど先発で、勝利で飾って「ポンコツだった僕に色々教えてくれた」と恩義の辞を語った。
 その日の登場曲に川原のThis Is Meを採用するほどの慕われ方。このエピソードからも分かる通り、人間的には申し分がなかったため、球団からポストをもらうことができた。
 会見では「0勝0敗ながら10年以上雇っていただけた」という趣旨の発言をしていたし、十分にやり切ったと言えるプロ生活だったのではなかろうか。
 まさにGReeeeNの「道」の歌詞を地で行くような川原弘之の生涯に、私はカッコいいと憧れ、尊敬の眼差しで見ていました。ありがとう、そしてこれまで本当にお疲れ様でした!

砂を蹴り 振り抜くその腕で
切れるスライダーを武器に 勝利掴め

 川原が描けなかった夢の続きはドラ2、左腕、速球派と共通点の多い古谷、お前に後は託したぞ!
 と締めたいところだったが…


古谷優人、窃盗で自由契約に

 クリスマスイブ、まさかのニュースに衝撃が走った。
 朝起きたらTwitterのトレンドに「古谷優人」。
 どうしたことだろう、あ、人的補償か、中日行っても頑張れよーとなんとなく予想して開くと「窃盗」「自由契約」の文字。
 あっけにとらわれ、言葉が出なかった。

 まず、これだけ言いたい。「何してんねん」と。
 事件さえ起こさなければ億を稼げるプレイヤーになれてた。こんな自分が言うのもなんだが、大馬鹿者だ
 昨年ようやく制球が安定してきて、一軍でも初勝利を挙げ、「正義と古谷の同期コンビは絶対来年ブレイクする」と踏んでた。だからこその落胆の大きさ。

 私としては、障がい者の妹想いの好青年がどうしてこんなことをしてしまったのか、理由が知りたいというのが第一。
 ひとえに窃盗といっても魔の差し方は人それぞれ違う。
 盗癖があったのか、血行障害で思うように投げられないことのストレスからか、お金に困って転売目的に走ったのか、どれにしろ信じたくはないのだが、何が「左の160キロ」を盗みへと駆り立てたのか気になってしょうがない。

 起こしてしまったことは取り返しがつかないので、しっかり更生してくれることを願う。(幸い警察に被害届も出されてないみたいだし)

https://youtu.be/V62_eQlFSW0

 第二の人生に応援の意を込めて、

胸に秘めた 想い込めて
唸るそのボール 見せてやれ

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