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ファシリテーションの勉強会 第1回 ~会話と対話の違いってなんだろう ~

「ファシリテーションを勉強したいんです…!」
と組織開発ファシリテーターの長尾彰さんに連絡したのは2020年の末。
「そしたら4,5人友達を集めてもらって勉強会でもしようか」と言ってもらえて、興味がありそうで一緒に学びたいなあという友人たちに声をかけ、2021年1月の終わりに、彰さんと僕含め6人での月1回のオンライン勉強会が始まりました。

「ファシリテーションの何を学びたいかを問いの形でください」というのが彰さんから事前に言われたこと。参加者からの「問い」を彰さんがさらに「問い」に因数分解して、それを自分で、そしてみんなであれこれ考える、そんな時間の記録になります。

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問い:

人との対話の中で振り返りや問いを作っていったり、その先に学びや次の創造を生んでいくために、どのように場と人に関わっていくことができるか

↓ 因数分解

1. 会話・議論・討論・熟議・対話の違いは何だろう?
2. 対話を通して振り返りが発生するのはなぜだろう?
3. どんな「問い」が対話を促す(facilitate)と思う?
4.「学ぶ」と「学び」の違いは何だと思う?
5.「場」って何だと思いますか?

他己紹介・自己紹介でアイスブレイクした後、今回の趣旨と勉強会の進行について説明がありました。

参加者からの問い(今回は僕が出したもの)を分解した問いについて、

①まずはそれぞれが15分くらいじっくり考え、共有のスプレッドシートにそれぞれの「こたえ」を入力する。

②みんなであれこれお話をする

という流れでした。


それでは、ここから記録↓

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1. 会話・議論・討論・熟議・対話の違いは何だろう?

さっそく、一筋縄ではいかなさそうな問い。

『会話』は「話すことがメイン」のような気がします。挨拶とか、世間話や軽い質問とか、そういったコミュニケーションからその後の関係性作りの糸口を探っている感じ。隣接対(あるいは隣接ペア)という言葉が発話分析ではあるようで、挨拶→挨拶、質問→回答といったように、Aが起こってBが起こるといったペアになっている発話のことを指すらしい。「会話のキャッチボール」とよくいうのは、そういうイメージかもしれない。

『議論』は、複数人で論理的な意見を述べ合うことだろうか…。合理性と効率性が求められているような気がする。他の参加者さんのこたえを見ても「一つのテーマや目的(議題)について」とか、「正解、答えを出す」といったニュアンスを表現していたり。どちらにせよ会話よりも「話し合い」の感覚が強そう。どれがいい?何がいい?をみんなで選ぶためのものともいえそう。

ちなみに英語だと会話は[conversation]、議論は[discussion]。

conversationの語源は、con「共に」・verse「向きを変える」・tion「こと、もの」だということで、「お互いに向き合う」ことから「会話」が意味されるそう。discussionはdis「よく、徹底的に」・cuss「打つ、たたく、ゆさぶる」・ion「こと・もの」で、そこから意見をぶつけ合う「議論」を意味するようになったとか。

そういえば、日本語で「打ち合わせ」って言葉があるぞ…。ことばの意味を突き詰めていくのっておもしろいなあと思います。

さて、『討論』は対立。相反する意見や思想をぶつけ合い、どちらが正しいか(優れているか)を決めるべく話すこと。この勝敗を決める、争うという方向性が討論の特徴かもしれない。

「党首討論」とはいうけど、「投手会話」とも「党首議論」とも言わないですね。でも、党首討論も含め、コミュニケーションの方法として討論が適切な場面って社会でどれくらいあるのだろう、とこれを書いている今は思いますね。

『熟議』。これは今回はじめて知った言葉で、思わず検索すると文部科学省のページが一番に出てきました。

英語だと『デリバレーション[deliberation]』。簡単にいうと、複数人でじっくり検討し適切解を目指すこと。専門家を招いて学習したり、それぞれが熟考したものをもって討議する、つまり「じっくり・時間をかけて」というニュアンスが強そうという印象。政策や施策など様々な人が関わり慎重に決定したいものがあるときに推奨されるのでしょう。


そしてやってきました。

『対話』。「自分との対話」とか「自然との対話」とも言ったりします。

僕は対話を「お互いの胸の内をききあう(聴く・訊く)ことで自己と他者の理解を深めること」だと考えて、参加者のみんなからも「相互の理解」というワードがでていたり、「自由な雰囲気」でありながら「物事の本質」や「新しい見方」を目指してやるという印象。

対話には相手がいて、会話よりも議論よりも「お互いにききあう」という前提が共通理解されてこそのものだという話になりました。そして「気持ちベース」で「結果的」に生じるものだよね、と。

なかなか「さあ、対話をしましょうか」と話を始めることはなくて、ききあうという共通理解のもと、お互いに信頼をおいて話していくことで、結果的に対話になったり、対話的になったりするものだと。

共通理解なので、ひとりではできないし、「話し合う」ことがメインの『会話』より「ききあう」が強いのが『対話』だという印象。

"伝える" と "通わす" みたいな印象もあるかもしれない。「自然との対話」だって、自然の声を聴いているのだ。「自然との会話」とはあまり言わないし。


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2. 対話を通して振り返りが発生するのはなぜだろう?


対話は「ききあう」ことだから、「その時どう思ったの?」「どうしてそう思ったの?」という客観的な問いが起きて、それぞれの内省に繋がるからだと思っています。

前提としての「ききあう」という合意があって、それによって聞かれて答えるというプロセスがあり、すなわち質問を考えるということがあるから当然しっかり聞いてるのであって…。

そういうコミュニケーションの中で、やはり対話は「作為的」ではなく「自然発生的に」「結果的に」生まれるもので、そこから発生するものがいい「振り返り」なのかもしれないです。

そうなってくると、一番大事なのは「関係性づくり」で、自然に胸の内を語れる間柄であることが重要になってきます。


ある参加者さんが「ちょっと聞いてもらってもいいですか?」と切り出したのが、いまあるプロジェクトで関わっている高校生リーダーの子の話。対話を大事にする彼女ですが、その子とは上手く話しができていないようで…。彰さんと話しているうちに「もしかしたらそういう関係性がまだできていないのかもしれない」というところに落ち着きました。改めて関係性づくりからやってみたり、その子と同性でもっと話しやすいメンバーに引き出してもらうのもありかもねえ、と。

この時、対話を通した振り返りがまさにこの場で起きていました。彰さんが問いかけながらそれをファシリテーションしていることや、始まってから数十分にもかかわらず、そして同じ空間にいないにもかかわらず、そういう関係性ができていたということがとても面白かった。

この勉強会自体が入れ子構造になってる状態、有意義だなあと思いました。(”みて学べ” というのが含まれている勉強会です…!)


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3. どんな「問い」が対話を促す(facilitate)と思う?


さて、どうでしょう。イメージ浮かびましたか?

僕がイメージしたのは、オープンクエスチョン、本質的・抽象的、持っていなかった新しい視点が求められる≒意外性がある、などなど。

他の参加者さんからは「考えたくなる」「ちょっと難しい(すぐに答えが出ない)」などもあって、そうそうそんな感じという印象。くわえていえば、抽象と具体を行き来するような探求的なものがいいのかも。

ここでの話では、キーワードが2つ出ました。

1つ目は「ダブルバインド」。

ちょっとこれを見てもらいたいんだけど、と見せてもらったある動画は、ある高校の運動部活動の指導場面。強豪校で、その熱血指導にスポットがあたった番組でしたが、そこでの指導者と選手のコミュニケーションが「ダブルバインド」の状態でした。

指導者「それで本気でやってんの!?」「それで勝てると思ってるの!?」

選手「いや…、違います…」

指導者「じゃあなんで本気でやらないんだよ!そんなんなら帰れ!」

これ、選手の側に立ったら反対に「本気です!全力です!」といっても「基準が低いんだよ!!」「全然足りないよ!」と叱られるなあと思うわけで、どう答えても行きつく先は同じなんですよね。叱られる未来しか見えない。

これって、指導者が選手に「問うている」ように見えて、全く「問えてない」のだなあって。この後にどんなコミュニケーションがあろうとも指導者の方の進めたいストーリーは決まっているわけで、先に話した「ききあう」というところから考えると『対話』にはなり得ないんですね…。


決して他人事ではなくて、気を付けないと自分もやりかねないと思っています。サッカーの指導時に子どもたちにしっかり守備をしてもらいたくて「その守備でボール奪えると思うの?」というと、大抵子どもたちは首を振るんですけど、子どもたちからするとそこで「はい」とはなかなか言えないし、その流れを前提に発問していること、あるなあ…と反省。


これを踏まえて、対話を促進する「問い」のポイントが2つ目のキーワード。それは、「作為的でない」ということ。

作為的な問いとは「問う側が答えを持っているもの」で、「自分の中に答えがないこと」、さらには「自分も相手も答えを持っていないこと」を問うことで、本質的・創造的な対話が促進されるとのこと。なるほど。

先に紹介したダブルバインドが非常に「作為的」なことも改めてわかります(無意識でやりかねないから本当に気を付けたい…)。


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4.「学ぶ」と「学び」の違いは何だと思う?


さらに難問が来ました。僕のこたえはこんな感じ。

「学ぶ」…目的があってそこに向かうイメージ

「学び」…結果として得られるもののイメージ

ここで彰さんが話してくれたのは再び「作為的」というキーワード。

「学び」という言葉には作為的なニュアンスがあるのではないだろうか。例えば ”学びを与える”、近い言葉で ”気づきを促す” など。「学び」「気づき」のように名詞化すると受動的になったりして、これを彰さんは名詞化の罠等呼んでいた。

なるほど。

同じように「学ぶ」は能動的、「学び」は受動的に感じるという人がいて、ある参加者さんからは、いま彼女がやっている「人生の学び舎」という活動を、「学”ぶ”舎」にしようかな!という話が出たり。

わかる、わかる。

僕がその文脈で頭に浮かべたのは、

『目の前に人の「学ぶ」という能動性の発露を促すには、自分はどう関わればいいだろうか』

ということ。問いをつくって与えるところから、相手の方に「問いが生まれる」状態になれば、その人はもっと能動的に学ぶことになる。大人でも子供でも、教育に関わる場面で僕が作り出したい状態ってそれだなあと思いました。

人の能動性の発露をfacilitateしたいのです。


ところで、なんとなく「学ぶ」という方が能動的でいいね!となりそうですが、受動的な「学び」が悪ってわけでもないと思う。

というのも、僕が思う「学び」は結果として得られるものであって、そこには「意図していなかったもの」や「望んでいなかったもの」も含んでいるからで、そこに思わぬ価値があることが多々あると思うのです。

目的地へと向かうその道中で偶然出会った人から、思わぬ縁が繋がっていくとか、そういうのに近いかもしれなくて、

「これが得られるだろうな」「こういうことを学べるだろうな」と思っていたことではない「学び」、僕はよく ”見つけてから気付いた探し物” というんですが、それの価値は大きいなあと経験から思うのです。


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5.「場」って何だと思いますか?


まさに人それぞれの答えがある問い。

僕は「人と、人・コト・モノの関わりしろのある空間や機会」かなあと。「雰囲気も含む」としている方もいて、確かにそうだな、なるほど。

『場』って英語にはない言葉だそうで、厳密にいうと [place] は「場所」だし、[space] は「空間」だし。

彰さんの考えだと、『場』は「関係性の結果」で、そこに居合わせた人の関係性による生産物だと。そして「良い場」はそこに "快" の感情がある状態。例えば、居心地がいいとか、安心とか、楽しいとか。あと、軽やかというのも僕は好きです。

時に、その時のお題(議論の時は「議題」だけど、対話の時は…という話で「お題」とかいいんじゃない?という話がありました)によっては、参加者にモヤモヤが生まれて不安な気持ちになるかもしれません。それって不快かもしれないけど、本質に迫ろうとしていて「良い場」のように思います、と聞いてみると、

「このお題について話すとそういう風にモヤモヤすることもあるかもしれないって先に伝えておいて、みんながそれを事前にわかってたら、安心してぶつかったりモヤモヤできるよね」

ああ、なるほど。モヤモヤと安心は両立させられるのかと気づきました。


ちなみに、良い場の条件として「自分の意思で参加可能」というのもあるかもねという話に。自分の意思で参加も退出もできる場は、きっと能動性といい関係性が生まれやすいのかも。


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今回、『対話』そのものや『対話』を促す問いや場について考えることが多くて、その先は「関係性」にいきつくなあという印象でした。

対話には、前提となる関係性づくりが重要

それがあって、あとは良いお題と、お茶とばかうけとハッピーターンがテーブルに並んでいるといいね、というのがまとめです。


参加者の下沢杏奈のグラレコ ↓

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