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第十回「夜行列車は月夜の晩に」

一九九三年 青森行き急行八甲田

 まどろみの中、車窓から差し込む青白い光に包まれながらR女史が外の景色を眺めているのに気が付く。もちろんそれは彼女が光を発しているわけではなく、背景の世界がうっすら青く光っていた訳で…。でもなんだか神秘的な「時」に触れたような気になって、僕は薄目を開けながらしばらくその体制でじっとしていた。

 もう朝なんだろうか?車窓には青いスカイラインで縁取られた森のシルエットが、ゆっくりと流れては消えていった。そして…、ん?どこからか微かな音が漏れ聴こえている?それはどこかで聴いたような優しいメロディであり、その音を辿っていくと彼女の耳に収まっているイヤフォンに行き着いた。SONYのウオークマンWMシリーズ。青紫色の「マグネシウム配合高強b度アルミ合金」で出来たその小さな凄いやつは、僕の愛用していたもので、少し前から彼女に貸していたものだった。どちらかと言えば僕はウオークマンを聴いているより本を読んでいる方が好きだったから、「弘樹くん、これ貸してほしいな」と言われれば特に断る理由もなかったし、青いヘアーバンドをした彼女とその「青紫色のアルミ合金くん」との組み合わせは、とてもしっくり馴染んでいた。


 いま僕はしんとした空気感の中で、ひそかに彼女の横顔を見ながら列車に揺られている。クッションの効いてないシートに長時間座り続けて、腰の感覚はとっくに麻痺していた。けれど、こうして普段見られない光景に出会えることは(人の顔をずっと眺めていることなんてなかなかないだろう?)旅ならではのものであり、それはなかなか味わい深く良いものだった。十九才にしてはあどけない表情をしていると思っていたが、彼女にはどこかギリシャの神々を思い出させる芯の強さを感じさせるところがあった。美しいな、と純粋に感じた。外灯を通過する光のすじが瞳をきらきらと光らせ、つい先ほどまで彼女は泣いていたようにも見えた。

「んーんん、ルルルールルールル…」

遠くの一点を眺めながら、サビなのか間奏の部分なのか時折呪文を唱えるように彼女は下唇を微かに動かす。すると僕らはまるで薄暗い四角い箱に詰め込まれて、このまま月にでも飛ばされているような不思議な気持ちになった。


 当たり前な話ではあるが、これだけ多くの人が同じ空間(車内)に居合わせながら、僕の知り合いは彼女だけだった。何気なく近しい間柄になり、今こうして彼女と二人で旅をしていることなんて、数ヶ月前までは想像すらしていなかったのに…。

 彼女は泣いていたんだろうか。だとしたら、なぜ泣いていたのだろう。彼女が明るい人間か暗い人間かと問われれば、どちらかと言えば暗い部類の人間に入るだろうと僕は思っている。そして友達はきっと多い方ではない。それは自分も同じだから、なんとなく匂いで分かっているつもりだ。ただ、誰にでもという訳ではないが、普段の彼女は明るく元気に振舞う「健気な人」だと僕は思う。誰かが盛り上げようとすればちゃんとそれには応えるし、知り合いに誘われればちゃんとカラオケにだって行った。賢治の文学に憧れ、タイプライターで打ったようなカッチリした文字を書き、辛くしんどいことがあっても、三日もすればなんとか乗り切ることが出来た。「欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている」というあの賢治の一節が頭をよぎる。たまに飲み過ぎて、誰かに担がれないと帰れないこともあったが、それはご愛嬌というところだろう。彼女のことを例えるならば、流行りの言葉を並べるよりも、心の声を小さな声で絞り出すシンガーソングライターのような、と言ったら言い過ぎだろうか。でも、今までもそしてこれからもずっと彼女は(僕がいる、いないに関わらず)そうやって、一歩一歩進んでいくに違いないと思えた。

 そんな彼女が、今までに二度ほど声にならない声をあげて泣いているのに直面したことがある。二回とも深夜の時間に彼女は前触れもなく唐突に体を震わせて、泣いた。「唐突に」というのはきゅあくまで僕の主観に過ぎないわけで、それは単に僕が気づけていなかっただけのことなのだろう。

 初めてそれを目の当たりにした時の僕は、ただおろおろし、彼女を抱きしめなているだけしか出来なかった。泣き終わって静かになった彼女はぽつりと「ありがと…」とだけ言って静かに眠った。

 翌日、彼女がケロっとした様子でドイツ語学科の友人と楽しそうに歩いているのを見かけ、僕は軽く手を挙げた。すれ違うさ中、すっと僕の方に寄ってきて「弘樹くんって、サイテーね」と言い、笑いながら再び友達の方へ戻って行った。僕の隣にいたクラスメートのコバカツは、一瞬こそ豆鉄砲でも食らったかのような顔をしていたが、急に「あはははは、林って最低らしい」と茶化し始める始末。「そういう時はな、からあげ定食を食って元気を出せ!あれは美味いぞー」とばんばん肩を叩かれた。


 なんとなく彼女の心にある闇の部分に触れられたのは、それからひと月ほど立った頃である。その日は大宮でバイトが終わってから草加に戻り、夜からのサークルの飲み会に参加した。例のごとく深夜二時くらいまでY先輩がバイトしているカラオケで派手にやったあとの、彼女の家でのことだ。僕は飲み過ぎてすぐに眠ってしまっていたのだけれど、何かの拍子にハッと目が覚めた。月夜が差し込む窓の側、カーテンを抱えるようにして彼女は、また突然泣き崩れていた。僕のどうでもいい酔いは瞬間的に吹っ飛んだ。今思えば今夜の彼女はいつもよりはしゃぎ過ぎていたのかもしれない。でも、その時にはそんなこと分かるわけでもなく、さて今はどうしたものかと頭をぐるぐるさせているだけの自分がいた。

「チチトノコト…」

あまりに小さな声だったので、最初は気が付かなかったが、彼女はぽつぽつと物語り始めていた。

「出来れば、あまり、父と、一緒にいたくないの…」彼女はそう言った。山梨から上京した後は余り気にしなくなったのだけれど…、とも言った。

「月に一度くらい、山梨の大学に勤務している父が東京に出てきて、自分の様子を見にくるの。それはお母さんから頼まれていることでもあるから、仕方のないことなんだけど…。その時にこのアパートに泊まりにくるの。それが堪らなく嫌なの…」

ゆっくりと、時間をかけて語って、またしくしくと泣いた。その後の話は続かなかったから、それこそどうリアクションしたらいいか戸惑った。実の父と一緒にいたくない、という点では僕もその気持ちは良く分かる。自分も父とふたりでいると、何を話したらいいのか全く分からなくなってしまうところがあり、それは幼い頃から今でもずっとそうだったからだ。

でも、たぶんそういう話じゃあないんだ。彼女の、この小さな細いカラダから発せられていることは、断じてそういうことなんかじゃない。それくらいは僕にも、ちゃんと分かった。守ってあげることは出来るんだろうか。いや、守ってあげたいと思った。



 八甲田の車内には、席にあぶれた者たちも多くいる。通路に目をやればダンボールを敷いて折り重なるように眠っている人たちが自然と目に入る。酔いつぶれたグループが一升瓶を抱えたまま崩れ落ちている姿も見えた。

有り明け方、僕は再び目を閉じる。踏み切りを越え、山を平野をずんずんと進み、何度も何度もトンネルを通過しながら汽車はちゃんと青森へ向かっているようだった。そして多分、彼女も再び眠れたのだろう。先ほどまで感じなかった彼女の重さを腕に感じた時、「良かった…。月に向かっていなくて」と思った。呼吸が一定のリズムを刻んでいる。大丈夫だ、このリズムは幸せな静かな時をつくる。眠れる時はしっかりと眠るといい、旅はまだ始まったばかりなのだから……。

 朝の六時、汽車は青森駅に滑り込んだ。一斉に蛍光灯ライトが付き、人々は眠気顔のままプラットホームへ吐き出される。確かこっちの方で良かったよなぁ。弘樹はふらふらと人の流れに従って歩く。

「弘樹くん、なんだかまだ夢見ているような顔をしているけど大丈夫?」

「んー?」

何度も来ているルートである。だからR女史をしっかりリードして上げたいと思いつつも、改札へ繋がる渡し廊下の景色は冬と夏では全然違ってみえた。

「なあに?お腹がすき過ぎたとか?」

「んっ、んー。でもまあ数時間ほど函館への乗り継ぎまで時間もあるから、美味しい朝ご飯でも食べにいこう。そうそう朝市みたいなところがあってさ、我々みたいな海なし県育ちの輩を待ち構えているんだ」

「生魚はちょっと苦手かも……」

そういう彼女の手を取って、いざ行かんとばかりに胸を張って僕は歩いてみる。

「大丈夫!本場のものを食べたら、人生観すら変わるかもよ」

そう顔を近づけて話しかけると彼女は跳ねるような笑顔を返してきた。

「うんっ、じゃあ付いていく!」

と勢いよく腕を組んできたりするものだから、重いボストンバッグのせいもあり僕らは大きくよろめいてしまう。これじゃあカップルがじゃれあっているようにしか見えないじゃないかと僕は思った。すると、

「ま、いいではないか。楽しいではないか」

と彼女は微笑んだ。それもそうだな、確かにそれもいいかもしれないなと思う。

「おっやる気だな。じゃあ青森の至極の朝飯をご馳走してやろう」


 どこまで行けるか、一先ず行けるところまで行ってみようか。盾になれる場面があるならば、僕がその矢面に立ってやろう。鮪丼の大盛りを頬張っていると、そんなチカラが沸いてくる気がした。

「ご馳走様、弘樹くん!」

なんだかんだとぺろりと丼ぶりを空にした彼女。わたし付いていくわ弘樹くん、そう再び彼女が言ったような気がした。


 十時過ぎの汽車にまた乗り込み、僕ら二人は函館へ向かう。到着予定は夕方だから、今度は少しまちを巡ることが出来るはずだ。「駆け落ちするなら、函館のまちが良く似合う」とは誰が言った言葉だったか、それは僕が思ったことだったか定かではないが、今回はその函館にも泊まらず、再び深夜発の特急で旭川まで一気に進むつもりだ。


しかしJの待つ釧路は、まだまだ遥か彼方なのである。

その道はなかなかに険しい。

が、だからこそ楽しい。

旅のパートナー次第で運命も大きく変わるのだろう。「今の僕の最適なそのパートナーが、R女史…、君で良かった」と思う。


(2018年  ヴェネツィアのお正月編に続く)






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