見出し画像

【感想と解説】NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第41回「義盛、お前に罪はない」

2022年10月30日(日)20時放送、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第41回「義盛、お前に罪はない」を視聴しました。

<始まる前に>
秋も深まり大河ドラマも残り数回となってきたのを寒さで実感しています。
ですが、和田合戦から実朝暗殺、そして承久の乱へとまだまだ騒乱は続きますね。

<NHKのあらすじ>

鎌倉を守るために大江広元(栗原英雄)とも共謀し、反北条の旗頭となった和田義盛(横田栄司)の転落をもくろむ義時(小栗旬)。
戦を回避するべく源実朝(柿澤勇人)と政子(小池栄子)が奔走する中、三浦義村(山本耕史)、八田知家(市原隼人)ら有力御家人は、義盛の陣営に集い情勢を見定めていた。
そんな中、父・義盛の安否を心配する朝比奈義秀(栄信)らが打倒北条を目指して決起。
一方、失意に暮れる泰時(坂口健太郎)は……

■プロローグ

「戦を起こさぬ」、実朝と約束した和田義盛は「我らの敵は北条」を和田義重(林雄大)や朝比奈義秀(栄信)等、一族で確認しました。
トウ(山本千尋)から義時の元へ、和田の軍勢が東に向かったと報告が入りました。

---曲---
エバン・コール

■ナレーション(長澤まさみ)

頼朝が築いた都市、鎌倉が、戦火に包まれようとしている。
北条転覆を狙う最強の一族。
和田の乱が、始まる。

■和田の三浦勢

義盛は三浦義村に対し、早いうちに寝返ってほしい、ここぞという時に寝返らないようにと話します。
いとこ同士だが、戦場では容赦無用。
義村は「北条につくことになった」、三浦胤義(岸田タツヤ)、八田知家(市原隼人)、長沼宗政(清水伸)等に意を伝えます。
起請文が問題になりますが、八田知家のアイデアで起請文を焼いて飲んだ起請文の灰を吐き出そうとします。

■義時の館
三浦義村が義時の館にやってきました。
「信じるかどうか、信じなければお前は間違いなく死ぬ」と義村は話します。
南門は三浦、時房は北門、西門は泰時が守備につきます。
義時は実朝を鶴岡八幡宮の別当房へ連れていく役になります。
のえは、危険ですが夫と同じ八幡宮に行くか、二階堂に匿ってもらうか選ぶよう言われます。
のえは、あっさり、危険な八幡宮ではなく二階堂を選択しました。

■和田勢
巴御前も戦に行きたいと懇願しますが、「生きて帰る」と義盛が説得します。
和田一門が集まり、「目指すは奸賊北条義時に、鎌倉殿を奪われてはならぬ」と。
その頃、実朝は大江広元の活躍によって抜け出すことができました。
実衣と政子は、和田が攻めてくると聞いて、義時が画策したことを非難します。
実朝や千世(加藤小夏)、三善康信(小林隆)が御所で見つかりました。
実朝は戦にはならなかったのではないかと問いますが、義時は義盛に謀られたと答えました。

■泰時
泰時は、鎌倉殿の一大事なのに酒を飲んで寝ており、動こうとしません。
平盛綱(きづき)や初(福地桃子)が説得しますがなかなか起きません。
北条朝時(西本たける)は泰時に、「期待されるのがそんなに辛いのか、期待されない人間の気持ちが分るか」
初が突然、水を樽ごと泰時にかけました。

■戦闘開始

「義盛率いる和田勢は、南門から御所に突入する」(長澤まさみ)
「和田義盛、謀反」(義村)
「鎌倉殿をお救いしろ」(義盛)
ついに戦が始まりました。

西門の泰時が和田軍と対峙します。
「戦は深夜まで続いた」(長澤まさみ)
鶴岡八幡宮に居る政子や実衣は義時に、勝てるのか聞きます。
義時は、和田に就いていた御家人は離れ、和田軍は身内ばかりなので勝てるときっぱり言います。
鎌倉殿の継承のしるし髑髏を八田知家に取ってくるよう依頼しますが断られ、大江広元が実朝のために命がけでその役を引き受けました。
そこにいると思っていた実朝がいないことに和田勢は気づきました。
その頃、泰時は酔っ払って戦いますが、寝込んでしまいました。

■和田勢
「由比ヶ浜まで退却した和田勢は由比ヶ浜で態勢を立て直す」(長澤まさみ)
「北条に代わって俺が執権になる」(義盛)
和田に加勢するために西相模の曾我・中村・二宮・河村が鎌倉に向かっており、それらを味方にするため、実朝の花押を記した御教書を送る案が出されました。
和田の狙いはあくまでも、北条であって決して鎌倉殿に兵を挙げたわけではない、鎌倉殿と和田の争いに形を変えるのではないか、と三善康信は危惧します。
火の海となるのを止めるのは鎌倉殿しかいない
「われらにまかせてほしい」と大江広元が説得します。

■泰時軍
またも水をかけられて起こされる泰時、戦が再開されました。
北条朝時は戦が嫌になったのかケガをしたふりをして、その場を離れていきました。
泰時軍は、民家の板塀を剥がしそれを盾として上から下まで囲い、前進していきます。
西相模の援軍が北条へ寝返ったことが和田軍に知らされます。
和田は突っ込んでいきますが、さらに前進する泰時軍に後退を余儀なくされます。
和田勢を追い詰めたとの報告が大江広元から義時にありました。

■終戦

義時が実朝を戦場に連れ出すことを提案、政子は賛成、実衣は大反対です。
和田義盛の命はとらぬとの約束のもと、実朝は戦場へ行くことを決意しました。
実朝と和田義盛が対峙します。
「勝敗は決したこれ以上の争いは無用、降参せよ。お前に罪はない、私に力を貸してくれ」(実朝)
泣きながら「もったいのうございます。その言葉を聞けただけで満足でございます。みんなここまでだ。鎌倉殿と心が通じた御家人がいたか。胸を張れ」と義盛。
しかし、義村の命令で、一斉に矢が放たれ、和田義盛は討ち死にしました。
「これが鎌倉殿に取り入ろうとするものの末路にござる」(義時)
ショックで倒れそうな実朝は、八幡宮に戻されました。
戦場から離れる義時にも笑顔がありませんでした。
巴御前に義盛討ち死の知らせが入ります。
巴は、義盛の生き延びろという言葉を信じて逃げ延びました。
「二日にわたって繰り広げられた和田合戦が終結する」(長澤まさみ)
和田の死者234名、生け捕り27名、北条の死者50名、手負い1千余名、討ち取った首は固瀬川に晒されました。
歩き巫女(大竹しのぶ)がその惨状を見つめています。
「多くの死者の犠牲の上にこの鎌倉はある、力を持つものを恐れ、まとまる」(義時)
惨状を見る実朝は、義時にこう話します。
「考えを改めた、政のことは、上皇様に相談する。心を許せるものは鎌倉にはおらぬ。父上や兄上のように強くないから、強きお人にお力を貸してもらう」(実朝)

■泰時と義時
泰時は手柄を弟・朝時にゆずります。
義時は、侍所別当と政所別当を兼ねることになりました。
「安寧の世をつくる」、実朝は骸骨を手に持ち、「新しい鎌倉を作る」決意しました。
「5月21日関東に大きな地震が起こる。和田義盛が討ち死にして18日目のことである」(長澤まさみ)

■京都では

「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
後鳥羽上皇は実朝が送ってきた和歌を「ふた心はないか」。
藤原兼子(シルビア・グラブ)は、しっぽを振っていると嘲笑し、慈円(山寺宏一)は「北条義時が同士討ちをしたとたん、大地震、天はお怒り、鎌倉の安寧はまだまだ先のようです」と解説しました。

----つづく----

次回は第42回「夢のゆくえ」11月6日放送です。

■感想

これで北条の陰謀がほぼ終了、北条の世が完成ですね。
おっと、まだありましたね、最大のターゲット実朝!
和田義盛が討ち取られ、そのショックで実朝が豹変したというストーリー。
ちょっと俗っぽいけど、さもありなんでしょうか。
和田合戦は建暦三年(1213年)ですから、実朝は21歳前後、自分で人を動かせる年齢であり、多感な年頃ですから、和田合戦を境に人が変ったのかもしれないですね。
北条なんか信用できない!となるのも不思議ではありません。
その後、大きな船を作ったりしますし。

■勝手に解説

北条義時は、時政を追放すると、鎌倉を有する「相模守」に、時房が「武蔵守」になり、関東を掌握していきます。
畠山重忠を討伐し、有力武士団をことごとく潰していきますが、そのなかで大きな壁が和田義盛でした。
建暦三年(1213年)2月、頼家を担いで義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見(泉親衡の乱)、義盛の甥・和田胤長等が逮捕されました。
5月、和田合戦が起こります。
鎌倉幕府における有力御家人の和田義盛が反乱を起こします。
頼家の遺児を担いで北条義時を排除しようという陰謀が発覚、和田義盛の甥・胤長、義盛の子・義直、義重が逮捕されます。
義盛は三浦を含む一族98人を連れて御所に押しかけ、赦免を懇請しますが、胤長は陸奥国に流罪になり、屋敷も没収されました。
一族の若武者は激怒して実力行使を主張、義盛も戦闘態勢に入りました。

始めは従兄弟関係にあるため和田義盛側についていた三浦義村は、戦闘の直前に義時側に寝返り、それが影響し和田義盛は敗死しました。
この和田合戦により、鎌倉殿の13人の一人であった和田義盛が消え去りました。
ここに、北条氏の執権体制が確立しました。
三浦義村の動きがこの戦いの勝負を左右したことは間違いないようです。

この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?