ハレルヤ、視界良好【feat.ずみ】
「それ」はある日突然訪れる訳ではない。それは静かに静かに。
例えるならグラデーション。いつの間にか変わっていたアハ体験。必ずしも白黒はっきりつけることを良しとしないのは、こういった所への配慮でもあるのかもしれない。その人にとっての最大分子「アリ」は、波打ちながら徐々にその量を減らし、最終一律ゼロになる。いずれ失うもの。このグレーの期間をどう過ごすかで、その後の豊かさは変わると思う。
始めに感じたのは、えも言われぬ嫌悪感。女性はその男性のそばを離れない。男の側が敬語である以上、少なくとも夫婦という訳ではなさそうだ。
時々見ていた。男が帰る頃現れて話しているのを。そんな女性が満を持して同じコートに立つ。どうやら正式にこのクラスに入ることになったらしい。たぶん私より年上。なんとなく風貌のイメージが近しいので、お笑い芸人の吉住から取って「ずみ」とする。
ずみはあまり自分から打ってくる感じがない。どちらかというと相手の力を利用してテニスをするため、相手の力が強いほど威力が増す。しかし真っ直ぐ押し返しづらいトップスピンが苦手なのは彼女も同じようで、高い打点で取らせればその威力はぐっと落ちた。何にせよ並行陣をベースに(特に女性で)前で戦えるのは、公式戦出場者に違いなかった。
他の人とのやり取りで、そのガットを39で張っていることを小耳に挟む。
ガットの張りの強さは「テンション」と呼び、強ければ強いほど反発力が制限され飛ばなくなる。逆にゆるければゆるいほどトランポリンの原理でよく飛ぶが、コントロールが難しくなる。特に女性の場合ずみ含め、概ね、どフラットでやり合うため、弾道が真っ直ぐで、少しでも打ち出し角度を違えれば容易くアウトする。それが怖くて私自身ピーク時は53で張っていた。
ラケットにもよるが、推奨テンションは基本45〜55で、だからずみのガットはゆるゆるどころかゆるゆるゆるで、正しい出力をすればトランポリン顔負けの飛び方をするはずだ。ただ、「正しい出力」と断ったのは、あくまで正規の打点で捉えればという話で、もし振り出しが早く、打点を前に、自ら打出しに行けば、受け止め、しなる力を活かすことができず、全く飛ばないに違いない。事実その話をしていた相手は「それで飛ぶの?」と聞いていた。
球出しを受けながら「飛ぶみたい」と答えていたずみは、つまりそのテンションを活かせるだけの安定した打点を備えている訳で、そのキャッチする能力は必死感の対極に位置するように思えた。
ずみは楽しそうだ。上手い相手とテニスができることを純粋に楽しんでいる。
それはそうだろう。出力が強ければ強いほど、返球する己の球の威力が増す。
嫌な言い方をすれば「まるで自分が上手くなった気になる」
異なる球種。いろんな人と打っていく中で、新しい自分を発見する。
最初に言った通り、始めに感じたのは嫌悪感。
察したずみは「女ダブ対男ダブ? ウソでしょ?」と言った。私自身、コーチから「いいから行け」と言われた時、任されたと思った。それは幼い頃父親に「お母さんを頼むぞ」と言われた時の感覚に似ていて「自分が守らなきゃ」と思った。
噛み合わないのは、対戦相手がコントロール重視で、威力のない球を打ってくるから。言ってしまえばバチボコストローカーとカウンター型ストローカーは根っこが似ていて、加えて互いにほんの少しだけ気が短く、つまらないラリーに興味がなかった。
荒れるのだ。コートが荒れる。
相手正面にボレー打ってんじゃねえよ。ダブんじゃねえよ。取れただろ今の。
そうしてそもそも見ているものが違った。
本来守るべきは「コート」ずみじゃない。けれどそこまで至れなかった。
ダブルスのコートは一人では守れない。だからずみの強みを見つけて、それを活かす手立てを考えるのが何より先だった。テニスは、敵に対しても味方に対しても理解が深い方が勝つ。これは勝率の話で、例えば己のサーブの調子に左右されない。それは絶対で、不可侵で、揺らがないもの。
つい最近まで勝つのが当たり前になりつつあった私は、単なる嫌悪感から理解を怠り、この日初めて全敗した。
自分より一回り小さい戸塚にぴったり張り付くようにして動くずみは、分かりやすくクラスの空気を変えた。それは必ずしも悪い方向にという訳ではなく、むしろ視界が明瞭になる。
まず戸塚から話しかけてくることも、視線を感じることも減った。女性一人ではなく複数ということで、無意識に受けていた「特別扱い」というやわさが軽減した。その分個々が己の内に潜る機会が増え、深度が上がり、今まで以上に競技感が増す。
本来の中級の姿。加えて以前ジョコと打った時に思った、チャレンジャーとしての戦いではなく、防衛戦。あわよくばと求めていたものがゆるっと手に入る。どうも神様は私に甘い。
ゆるゆるゆるなガットできちんと受け止めて返す。
フラットでのやりとりは、トップスピンのように必ずしも力を要しない。風を切る。気持ちよく飛ぶ。ずっと打っていたくなるその弾道。
その弾道。戸塚とずみが対戦相手になった時、いつも打っている戸塚の弾道に何かが重なった。ずみと組むと、いや、ずみがいると、戸塚はひゃーひゃー言わなくなる。いつも高い声で「ごめんなさーい」と言っていたのに、腰を落として、正しい打点で、教科書通りの正しいストロークをする。地に足がつくというか、自分が守らなければいけないと思うのか、感情のブレ幅が少なくなる。
元々感情面が安定すればいいストローカーだ。そういう意味では、ずみは存在するだけでバッファーの役割を果たしているのかもしれない。「見られるにふさわしい自分」戸塚はキレイな打ち方をする。
打ち方。美しさ。それは美学。
見る側が美しいと思うか。心揺さぶられるか。
再び何かが重なった。それは嫌悪感の正体。ずみは、ああ。
私だった。それは同族嫌悪。
似て非なる。ずみにあって私にないもの。
ゆるゆるゆるのガット。
それは例えるならグラデーション。減っていく分子。音もなく黒に近づいていくグレー。怯える私のガットは固い。
「女性は幸福の絶対量が前半2、30年に集約され、その後ハードモード」というのをどこかで見かけたことがある。曰く「8割がそこで消費される」らしい。
上手く言ったものだと思う。その通りだ。だから今の内に手に入れておきたいものがある。若さではなく、姿形ではなく、需要となりうるもの。それが能力であり、この競技における理解の深さだった。
ずみはプレイヤーとしてのタイプが似ていた。女性だからという訳ではない。
それは「同じ形の生き物が、同じ空間にどう共存するか」その答えを探す手立てにもなりうる。ずみと勝てるようになることは、ただ男女差などないというアピールになるだけではない。私にとってもっと大きな収穫になる可能性を秘めていた。
見やる。好みのメンツが揃ったのだろう。ずみはニコニコだ。
打ちたい相手と打たなくてもいい相手の差が激しい。言ったところで、外から見たら私も似たようなものだろう。
今はまず、この人の理解から始める。
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