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強制ベルガモット【後編】




 アロマの心地よい香りが立ち込める中、山田さんの手が私の左腰に触れた瞬間はっとした。張り詰める危機感。恐怖。瞬時に目を覚ます防衛本能。
〈速水さんは右足の方が長いので、左腰に来やすいんです〉
 そこ。
 山田さんは完全に患部に触れていた。分かる。そこにナニかある。まあるい、テニスボール大に凝ったナニかが。
 母指球をそえて、ぐと押される。真上からではなく膨らみをならすように。心臓のある方に向けて。鈍い感覚。まだ固い。痛みを感じる所まで届かないほど、このコリは深い。でも、間違いなくそこだ。
 涙が出そうだった。能動的共感。思い込みと、その正しさを貫く力。女性でありながら、男前で頼もしい。私は、この人だから委ねられる。安心して甘えられる。山田さんは疑わない。私が笑わなくても、何の反応もしなくても「ここ」だと分かっているから、間違いないと分かっているから、黙って押し続ける。
 徐々にほぐれていく。「重い」としか形容しようのなかった鬱蒼とした何かが、流れていく。

 強制的にオフにさせるような、強いリラックス効果を持つベルガモット。
 効かなくて。全然。本来、痛みに、流れていく心地よさに全神経を取られておかしくないはずなのに、その実、こうしてリセットできるなら打てると思ってしまう自分がいる。



 私自身、まともにやり合う気はない。高い弾道のトップスピンでベースラインに釘付けにされるも、そこからスライスで切り下ろす。瞬時に鬼が動いてスライディングを使ってキャッチする。ななコは楽しくなると動き出しが早くなってしまうから、その打球はストレートに抜ける。それはドロップより遥かにイージー。故に私の足なら余裕で追いつく。踏み込んでフルスイングでセンター。打球はぐんと落ちて相手の足元。今度こそセンターに上がる。

〈上出来〉

 スマッシュがコートを分断する。
 実にくだらない、不毛な妄想だ。



 強制的にオフにさせるような、強いリラックス効果を持つベルガモット。効かない。
 この競技はコツが分かろうと、打ってなんぼ。頭で理解するのと、体現するのは違う。だから完全に断ち切らない限り、この熱だけは流れていかない。
 眠れない。いつだって軽度の睡眠不足を抱えて、その扉をノックする。山田さんの施術を受けている間、意識が飛ぶことが何度かある。痛みもあるはずなのに、気づくと落ちてる。強制的に落としてくれる、ベルガモットは山田さんだった。
「今日はだいぶ深いところまで触ったので、明日少しだるさが出るかもしれませんが、その後グッと軽くなるので」
 山田さんにマッサージしてもらった後、凝りの軽減された身体は本来収まるべき場所にすんなり収まる。どこかが疲れてどこかに寄りかかることで発生する歪みというやつが、最近よく分かるようになってきた。支払いを済ませて店を出る。車に乗ると、自分の身体からアロマの残り香がした。

 強制的にオフにさせるような、強いリラックス効果を持つベルガモット。
 いい香りだと思う以上。身体が求めているものに違いない。
 でも例えば心と身体の求めるものが違った時、そのどちらが自分にとって正しいのだろう。今の私はテニスをするため、その逆算から生活が成り立っている。ネットニュースで「テニスのある生活」と題して、その充実性を説いているのを見かけたことがあるが、私個人は絶対におすすめしない。「モテるため」としても「健康のため」としても、この競技は中毒性が高すぎる。安易な気持ちで始めたら身を滅ぼす。圧倒的合法であるにも関わらず、ずっとついて回る謎の背徳感。私はこの競技に心も身体も取られ過ぎている。

 山田さんは「またお待ちしてます」と言った。私は「また来ます」と返した。
 強制ベルガモット。ボールがまだ2度バウンドしていない、ただそれだけの理由で、全力で走れる身体があること。思いっきり動けて、山田さんがいて、また思いっきり動けること。それだけで充分にオンとオフ。


 今はまだ、眠れなくていい。





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