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月を探す、2【feat.中上級②】



 そんなこんなで何とか1時間経過。サーブからのラリーをする時、何だか嫌な予感がした。
 テニスは全身運動だ。ボールは手で、ラケットで打つが、そんな末端の出力なんてたかが知れてる。ボレーだって肩であり、足で打つのだ。だから。サーブ。
 ざわりとした。膝が。大腿が。
 痛みはない。コリ予防のストレッチのおかげで今の所競技に支障をきたすことはない。だからこれは純粋に体力の問題だった。テニスは足の競技だ。「足ニス」と言われることもあるくらいで、とにかく地面を踏みしめるところから全てが始まる。だからしっかり根を張れないと幹も枝も途端ぐらつく。環境に容易く揺らぐ。

 ギリギリ理性を保っていた幹は、ファーストゲームの終わり、突如揺らいだ。ダブルフォルト。踏ん張れない足が、肩に負荷をかける。本来行く先を提示する役割の肩から先が、急に仕事量を増やされて取り落とす。サーブは唯一の不可侵領域。だから全て自己責任。ゲームの流れに、責任を負う。

 足が。

 腰を落とす。目線は、頭の位置は安定しているのにアウトする。同じアウトを3度繰り返した。そうなると幹も枝もぐらつきを大きくして、小さな環境の変化に揺さぶられる。容量が一杯になって、情報が入ってこない。
 目は見えているのに何も見えない。視覚を奪われる。
 音としては聞こえているのに入ってこない。聴覚を奪われる。
 手の感覚はあるのに思った弾道でボールが飛ばない。打球感を奪われる。
 一つずつ失っていく恐怖に、身体そのものがより一層強張る。踏ん張れない。ドロップショットを打った時、相手が追いつく瞬間、ビーチフラッグスが、そのホイッスルが鳴る前に駆け出せない。分かっていて動けない。〈お前の武器は足だろう〉過去にそんなことを言われた気がする。けれど。

 そうか。
 本物はこれを普通にやるんだ。
 この競技は、足が8割。

 来たボールしか返せない。
 ダブルフォルトとアウトを繰り返す私に、見かねたななコが明らかなアウトボールをノーバウンドで返した。

〈オラ、打てや〉

 瞬間、全ての音が掻っ消えた。
 飛んでくる打球。
 音のない世界。真空。
 その後気づいたのは己の感情。焦点が合う。合って、噴出したは、怒り。



 ふざけるな。



 打ち込む。打ち込む。前衛で鬼が動いた。
「ナイボ」
 うるせえお前だよ。ここまで私を削ったのは。

 空気が変わる。ヘラヘラしていたななコが笑いを引っ込めた。
 感情は、伝わる。このノンバーバルコミュニケーションは、感情のありかを明確に示す。
 前傾姿勢。本来前のめりになりすぎてはいけない。けれども男性の打球のスピード、重さに対抗するには、少し前ぐらいが丁度いい。何より優先したかったのは能動。

 本物の怒りは、青い。どフラットの強打から、前に出て来ようとする相手の足元へのスライス。相手の打球はネットにかかった。ラケットを回す。その表面を見つめる。


 よっく喰らえよ。


 相手ではない。命じるはラケット。
 打球を引き込んで、ガットが噛む時間を極限まで引き延ばす。

 これは立派な危機的状況である。
 温情で生かされた。容赦。ほどこしを受けた。
 見下されたのだ。全神経総動員せよ。
 あと5分持てばいい。
 感情が、人体の中で最も大きな大腿の筋肉に電気信号を送る。
 地面を踏み締める感触が戻ってくる。
 腰を落とす。低く低く。



 来いや。
 私の狩りを見せてやる。





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