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外から見た景色【後編】



 その後コーチはコートを向き直ると、大して大きくもない声で「いいよ、打って」と言った。
 それは「アンテ」だった。
〈やっとここまでスピードを落とせた所〉
 それは、実際の大会で何度も優勝経験のある実力者相手だから従っていたことだと知る。
 変わる空気。
 途端、野郎8人が本気で打ち殺しにかかる。

 早さ、だけじゃない。回転量も同時に上がる。誰もベースラインから下がらない。上がりまちを叩く。ほぼノータイムの返球に合わせて、あってないようなテイクバック。後ろ重心は、足元に沈んでくる早い打球に対して、自分の前に少しでもゆとりを作るための動き。そこからその勢いを利用して正しい角度で打ち出す。だからラリーは続く。
「誰しもがフェデラーや錦織圭に憧れる。バーンって決まるとカッコイイよねって」
 打って、戻る。繊細なボールコントロール。ガシャり。ボールは高い天井にガン、とぶつかる。
「でも本当に勝つために必要なのはそういうものじゃない。基本は打出しの面と角度。そこを徹底的に突き詰めていく。本当に繊細に、突き詰めていく」
 ベクトルの向き。正しい力の放出方向。
 試合という緊張感の中でのダブル1stサーブ。ノータイムで飛び出す前衛。見てる。相手の動きを。凄まじい速さの中で。制御する所としなくていい所を完全に使い分けている。ボールがずっと生きてる。ずっと同じような球速でコート上を駆け回る。
 息ができない。

 あの打球取れるか? 取れるならあの前衛どうやって攻略するか? 前衛どうにかできて、じゃあどうやってポイントを取るか?
 まずサーブ。「2ndサーブが本当の実力」という副題のテニス雑誌を過去に購入したことを思い出す。1stの確率、その上で2ndのコース、回転量。甘いと一発で殺される。のみならず、味方を危険に晒す。
 次に打点。ライジングを基本とするなら、無理に打点を上げずに済む。ただ、ガシャったら一発で爪と手首を持ってかれる。弾道の読み、正確なインパクト必須。
 ただのロブはチャンスボール以外の何物でもない。この人たちはベースラインから2mも下がらない。ノーバウンドで打ち込んでくる。それ以前に、ロブで調整できるような速さの球は打ってこない。
「i野コーチは今日ここに来ること知ってるの?」
 乾いた口。舌が上顎に張り付いていた。「いえ」とだけ答える。〈女の子だから〉という声が聞こえた気がした。

 とてもじゃない。勝ち筋がまるで見えない。これは努力どうこうの域ではない。
「そう」とだけ言うと、コーチは戻って行った。身の程知らずと思われたかもしれない。私はただ、中級と中上級の違いを知りたかった。練習メニューを知りたかった。空気感を知りたかった。そうしてあわよくば、女の子扱いしないでくれる人たちとテニスがしたい、ただそれだけだった。



 目を瞑る。たぶんここにいても馴染むか、それ以上に調子を上げる面々を知っている。常日頃バケモノと呼んでいる猛者たちだ。
 ひこにゃん、ナオト、レッド、それにビッグサーバー。
 必ずしも「ここ」でなくとも、どこかできっとこの温度を知っている人種。それなら念も使えるはずだ。そうして時間的都合もあるだろうが、そんなバケモノが1箇所に留まること自体、コーチからしたらうれしくてしょうがないに違いない。だからいつも行くクラスのコーチはとにかくひこにゃんにベタベタだ(汗まみれのおっさんずラブとかどこ需要だよ)どんな手を使ってでも、とにかくここに留めたい。結果、周りに要求するレベルも上がる。そうして私自身も、今当たり前に見ている光景は当たり前ではないのだと知る。
 というか「あの人中上級じゃん?」なビッグサーバーが初級にいたことに関しては、改めて議論されるべきだと思う。中級ならまだしも、それはもはや事故レベル。来る人来る人みんな首を傾げていなくなるはずだわ。
〈待ってたんだよ〉
 今になってその言葉の本当の重みを知る。

 練習の合間、ボールを集める時「いいから」と言って私にボールを触らせない人がいる。ただ申し訳ないのだが、こっちとしては駅前でティッシュもらった時の「どうも」ぐらいにしか思えない。そんな男が、今回初めて「サーブもらいます」と言った。残念ながら数分後には「ごめんなさい」と謝る羽目になるのだけれど、それはあくまで結果論。責任を引き受けるのは、自ら波を起こすのには覚悟がいる。ため息を押し殺して毎回ボールを受け取る私からしたら、それこそがありがたいことだった。

 変化する。自分はどうなりたいか。
 いつもと違う行動を一つだけ起こしてみる。それだけで見える景色はガラリと変わる。

 中上級にいたコーチは、以前別のクラスに顔を出した帰り21時、雨の中、外のコート2面分の外周をうさぎ跳びして回っていた。i野コーチは、他のコーチが客商売で必死に生徒を集める中、「いやあ、こういう練習をして欲しいんだよね。頼むよ」と堂々生徒いびりをする。そんなサンプルをあげて「この競技好き過ぎる人はどこか頭おかしい」と言うと、旦那は「僕もそう思う」と力強く答えた。常にはない激しい同調に「君もちゃんとおかしい」と続けられて納得する。それにしても


〈i野コーチは今日ここに来ること知ってるの?〉
 私がi野コーチのクラスにいることを、何でこの人は知っていたんだろう。





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